ほんで誰もおらんなった
第一部:ほんで誰もおらんなった
加鳴 生輝(かなり いけてる)(38)国籍:日本
エドガー・アラン・ポー著『モルグ街の殺人』でミステリー小説は産声を上げ、アガサクリスティー、エラリークイーン、コナンドイル等、後続の作家たちがこのジャンルを大きなものにした。その熱狂的な波は日本にも到達し、横溝正史や江戸川乱歩を始め、島田荘司や松本清張の手によってミステリーは活気を帯びる。その後波は落ち着くも、綾辻行人、有栖川有栖、我孫子武丸など新本格派の登場によって、今日、ミステリーは隆盛を極めている──。
ミステリーはあまり読んでこなかった。さっきのも、何気なく見たYouTubeで知ったものだ。だからなんやねんとブラウザバックしたが、今こうして思い出してるし、煮物をつつきながら見たあの動画は無駄ではなかったのかもしれない。
そして俺は今。
──ミステリーをもっと読んでおけば良かった!
と、後悔している。
街に繰り出してピンポン徒歩をしたり(ダッシュするからバレるのだ。ゆっくり歩けばなんら問題はない)、鳩に餌をあげている人を見つけ、「どうも、鳩の妖精です。お礼しに、後日伺います」と裏声で言う遊びをしている暇があったら、その時間でトリックを貪るべきだった。そしたら今ごろ、俺は華麗に犯人を追い詰め、決め台詞の一つや二つ……。
目の前に横たわる、おじさんの屍。
股ぐらからは白鳥が明るい未来へと伸び、首を反り返しておじさんの胸を貫いていた。背中から覗く白鳥の顔は、血と肉にまみれ表情が見えない。ペルシャ絨毯には湖のように血が広がり、彼のハゲきった頭は、シャンデリアの光を小さく跳ね返している。
「……なんやねんこの死に方」
白鳥パンツのクチバシは凶器になるのかという疑問は抜きにしても、一体どうすればそれが心臓を貫くことになるのだろう。痴情のもつれか、遺産争いか、あるいは自殺ってことも──まあどれにしても、滑稽であることには違いない。
「なんて妙ちくりんなんや……」
このおじさんのあだ名は『ちくりん』やな、ちくりん星からやってきたことにしよう、と思い定めたとき、それまで視界の端にいたインド人が、大きな屁をこいた。
「नमस्ते ~ नमस्ते ~」
ターバンをプリプリ揺らし、色んな方向に手を合わせ頭を下げる。「生捨て」と聞こえるが、謝罪の意だろうか。彼の隣にいたモンゴル人は顔をしかめ、部屋の隅へ逃げ出した。
「生捨て~」
彼はモンゴル人の方を見て、悲しそうな表情を浮かべる──。
と、情報が渋滞し出したので、ここらで俺が今いる状況を整理したほうがいいかもしれない。名探偵というのは、きっと整理整頓が得意な奴を指すんだろう。
十分ほど前のことである。
俺は夜通しピンポン徒歩を嗜み、泥のように眠り、目を覚ました。するとなんということでしょう、視界にまず飛び込んできたのは、虫がたくさん入った蛍光灯ではなく、瀟洒なシャンデリアだったのである。
驚いて飛び起きれば、家賃三万五千円のボロアパートとは似ても似つかぬ、中世の貴族部屋が目の前に広がっていた。まだ夢の中か、と一瞬真剣に考えたが、昨日警官に捻り上げられた右腕が痛むので、きっと違う。
俺は寝ぼけ眼で、十二畳ほどの部屋を練り歩いた。キングサイズのベッド。装飾が施された高そうなソファーやタンスやテーブルや。壁からは鹿の頭が飛び出ているし、部屋の隅には大きなノッポの古時計。動いていない。
一旦ベッドに転がる。すると、壁の向こうから人の声が聞こえてきた。人がおるんか、と思い隣の部屋に行ってみると、そこには五人の外国人と、中央に横たわるおじさんの死体が。
──殺人事件や!
確かに、いかにもな内装だ。なわけで、俺はこの死体の側に佇みながら、ミステリーを読んでこなかったことを後悔していたわけである。
整理というよりは情報の玉突き事故といったところで、俺は白鳥おじさんの死体を検分した。とりあえず脈を確認してみようと手首を触ってみたが、肉肉しくて脈があるのかどうか分からない。ま、死んでるやろ、と勝手に納得して、傷口をよく見てみる。
見れば見るほど笑えてくる死体だった。胸を貫く白鳥の首は、なんだかコーヒーカップの取っ手のようになっていて、弔ってあげようという気持ちを阻害してくる。
(ブリッ)
「生捨て~」
ドアの横で、インド人がまたもや屁をこいていた。インドには我慢という概念がないのだろうか。
「Mi dispiace scoreggiare fin dall'inizio! Non ti senti nervoso!?」
先ほどまで大人しく腕を組んでいた四十ほどの女性が、インド人に向かって捲し立てた。オナラに耐えられなくなったのだろう。鼻をつまんで手を顔の前でブンブン振っている。
「生捨て~生捨て~」
「È rumoroso, idiota! Non scolare nulla!」
巻き舌の感じがイタリア語っぽいが、正直な所よく分からない。特筆すべきはその格好で、乳首だけをピンポイントで隠したようなほぼ紐を着ていた。もはやその人が服を着ているというよりかは、乳首の方が着込んでいるというような具合だ。
正直目のやり場に困るので、目をそらしていると、
「Эй, смотри. Я взволнован」
突然耳元から声がした。ばっと横を見ると、白人の太っちょなおっさんが佇んでいた。ひげ面で、ハゲていて、オーバーオール。自己破産したマリオのような風貌だ。キノコを食い過ぎてラリったのかもしれない。
彼はインド人とイタリア人のやりとりを見つめる。
「Она сексуальна」
息づかいが荒く、彼の吐息がそっと俺の耳毛を愛撫した。ぞわっと右半身に鳥肌が立つ。
とりあえず何語かも分からないので、ハハ、と適当に笑って誤魔化した。
ここまで見てきたように、全員言語がバラバラで何一つコミュニケーションが取れない。最終兵器は英語だが、もちろん俺は出来ないし、みんなも話す様子はなし。多分みんなも話せないんだろう。
「እዚ ቦታ እዚ ኣበይ ኣሎ ? ቀልጢፍካ ኻብዚ ውጻእ! ናብ ሃገረይ ክምለስ ፍቐደለይ!」
部屋の隅から、シクシクと泣き声。そちらに視線を向けると、黒人の女性が体育座りをして、膝に顔を埋めている。その隣に座り、背中をさすっているのは先ほどのモンゴル人だ。なんや、もうカップルできとんのかいな、と眺めていると、
グーーーーー。
お腹が鳴る音が部屋に響き渡った。びっくりした。エドはるみが登場したんかと思った。
あまりにも大きな音に、全員部屋をキョロキョロする。
「生捨て~」
とインド人が言った。またあいつかいな。
彼は続ける。
「किसी को भूख लगी है, है ना? मैं इसे मदद नहीं कर सकता। मैं यहाँ करी बनाने जा रहा हूँ। मैं माफी चाहता हूँ, मैं सिर्फ पाद रहा हूँ」
インド人がぱんと両手を叩いた。みんなに聞かせるような声量であることから、この場を仕切ろうとしているようだ。屁こきが仕切るな! という言葉を、ぐっと飲み下す。
彼は廊下に繋がるドアを開けて、俺たちを手でこまねいた。お腹を鳴らしていたし、ご飯にしようということかもしれない。
正直、外に出るきっかけを作ってくれたのは有り難い。ハゲたおっさんの死体と一緒の部屋にいると、息が詰まる。半ば逃げ出すようにして、俺たちは部屋を出た。
廊下に出ると、澄んだ空気が頬を撫でた。吹き抜けになっていて、一階が見下ろせる。天井からつり下がるシャンデリアは、部屋にあったものの五倍ほどの大きさ。一階にどでんと横たわっているのは、映画でしか見たことないようなクソ長テーブルである。
一階へ降りる階段は、国会議事堂にある階段のようだ。横幅が広い。
その階段を下っていたとき、ふいに気配を感じて振り向いた。インド人の彼が立っていて、「生捨て?」と言ってきたが、彼の視線ではない。もっと大きい何かが……。
「……なんや?」
周囲を見渡す。どうやらみんなも同じ感覚に陥ったようで、俺と同じように頭を四方へ振っていた。しかし、これといって何もない。
「まさか……幽霊?」
ミステリーに続き、ホラーかいな……。
もし幽霊と話せれば、犯人捜しは楽だろうなと思った。だって死人に犯人を聞けばいいわけやし。そんなのダイオウグソクムシでも出来る。幽霊側とコミュニケーションが取れるようになったら、コナン君だって商売上がったりだろう。
(見た目は頭脳、子供は大人!)
アホ面で言うのがポイントである。
気味悪い感触を放し飼いにしながら階段を降り、俺たちは長過ぎテーブルについた。インド人が「मैं कुछ बनाऊंगा!」と言って、ドアのない部屋へ入っていく。覗くと、どうやらキッチンらしい。どうせカレーでも作ってくれるのだろう。
他の人に話しかけても会話が成立するわけでもないので、俺たちは黙って鎮座する。身が焦げるほどの気まずさの中、カレーの香りがふわっと漂って、お腹が鳴った。
俺って、いつからご飯食べてないんやっけ……。
気になって時計を探したが、見当たらない。
二階と同じ高さにある窓からは光が差している。ということは日中だ。正午回ったあたりだろうか……。
他の人も同じ事を考えているのか、キョロキョロと周りを見回していた。せめてこの人たちとコミュニケーションが取れたら、状況が前進するはずやねんけどな……。
そう考えて、俺は一大決心を下した。
──英語で喋りかけてみよう。
もちろん中学生英語も怪しい俺だが、少しくらいみんなにも伝わるだろう。よし。まずは、「英語話せますか?」からやな。
「えーっと、どぅーゆー、どぅー……あ、きゃんか。きゃんゆー、ん? ゆーでいいんやっけ? 『あなたたち』って英語でなんやっけ? ぜいやっけ? それは『彼ら』やっけ? ゆーのままでいいんか? あ~……イングリッシュ! イングリッシュ! スピークイングリッシュ?」
結局パッションで問いかけてみたが、皆怪訝な顔を浮かべるだけである。イタリア人に至っては、乳房を振り乱しながら笑っている。
何笑とんねん! 服着せるぞボケ!
それでもなんとか聞きまくっていると、さすがに伝わってくれたのか、彼らは得心して「Ah……」と呟き、それぞれ首を横に振り出した。
「ノー」
「ノン」
「ノー」
「ノー」
キッチンからも、「ノー(ブリッ)」
「オッケーオッケー。シャラップフォーエバー。ファッキュー」
俺は無学な人間たちを罵り、再び押し黙った。汚い言葉はスラスラ出てくるんやけどな。だからこの世から争いは無くならへんのやろな。
そんなことを考えていると、「यह हॊ गया है!」という声が聞こえて、カレーを持ったインド人がテーブルへとやってきた。スパイシーな香りがテーブルを包む。
料理の登場により、一同笑顔になった。やはり、食は世界を超える。
お腹がもう一度鳴った。「はよエネルギーよこさんかい」と胃がメンチを切っているのだ。「ごめんな、もうちょっとでご飯やから」と俺は胃に伝えて、カレーへとスプーンをねじ込んだ。
ちなみに俺はご飯のとき、よく内臓たちと話す。気になるかもしれないが、触れられたくないので、放っておいてほしい。
スプーンを上げる。湯気と香りが湧き上がり、溢れ出るヨダレ。「は、はよせんかい! もう待たれへん!」と胃が悶えているので、一気にカレーを口へ放り込んだ。
スパイシーな旨みに、顎の筋肉が収縮する。鼻をスパイスが駆け抜け、少しピリ辛な刺激と共に胃の中へ落ちた。「遅いんじゃアホンダラ」と、満足そうに胃は言った。
少し遅れて、クリーミーな後味が舌先を包みこむ。これは……隠し味か。一体何を入れたんやろう。分かるか、胃?
「お前、わしに味覚があると思うんけ? 俺は料理を量で感じるタイプや」
「そやったな、すまんすまん」
「はよもっとよこさんかい」
「はいよ」
一人で喋り続けている俺を不審に見ていたイタリアンヌーディストも、カレーを一口食べ、幸せそうな顔で「ボーノ!」と言った。
あ、俺の知ってる唯一のイタリア語や! ボーノやボーノ!
嬉しくなって頬を人差し指でクリクリしていると、呼吸に違和感を感じた。
──ヴッ。
痒みを通り越して、喉が収縮するこの感じ。体験したことがある。これは、アナフィラキシーショックだ。
「このカレー、ピーナッツ入っとるな」
さっきまで楽しそうにカレーをねぶっていた舌が言った。
「クリーミーな感じは、ピーナッツからきとる」
「は……はよ言えや……」
喉が収縮し、息が出来なくなる。必死で息を整えようとするが、何もままならない。息を、息を、と思ううちに、視界が横に傾いた。どうやら俺は、床に倒れたらしい。
胸の辺りから、肺の声が聞こえた。
「おい、大丈夫か! 全然酸素がきてへんぞ!」。
続けて、脳味噌の声も。
「緊急事態発生。緊急事態発生。カレーに入ってたピーナッツのせいでアレルギー反応や。体内の酸素量が危険ラインに達してもうた。全身体に告ぐ。もう無理や。各々、諦めて辞世の句を詠むように」
だんだんと視界が狭まってきた。各内臓や各筋肉たちの、五七五七七のリズムを聞きながら、俺の意識はぷっつりと途切れ、そして二度と覚めることは無かった。
ムチャナ・ヨーキュ・スルナ(32)国籍:インド
俺の作ったカレーで、アジア人が死んだ。
創造神ブラフマーに誓って、俺は毒など入れていない。入れたとすれば、故郷の母が教えてくれた伝家の隠し味、ピーナッツだけだ。
そう皆に伝えても、破壊神のような顔で騒ぎ立てるだけで、俺の話に耳を貸そうともしない。白人の男に至っては、カレーを床に捨てる始末。母のレシピで作ったカレーを捨てられると、母を否定されたような気分になった。
くそ、なんでこんなことに。
「ቀቲልካዮ ኢኻ! ነቲ ኣብ ልዕሌኻ ዘሎ ሰብ ከም ዝቐተልካዮ ርግጸኛ እየ!」
黒人の女が、さっきまで俺たちのいた部屋を指で指し示しながら唾を飛ばした。きっと、俺が白鳥の中年も殺したのではないかと疑っているに違いない。
だから、ブラフマー神に誓ってないと言ってるだろう! 牛肉を口に詰めてやろうか!
ああ駄目だ、イライラすると、腹にガスが溜まる。
「いいか、俺はカレーに毒を入れてもないし、さっきの奴も殺してないんだ! ただ、みんなに俺のカレーを食べてほしかっただけなんだ!」
「L'hai fatto? Ho paura!」
「Проклятые индейцы! Этот убийца!」
「ናብ ገዛይ ክኸይድ ይደሊ እየ! ጠፊእካ ድማ ከድካ!」
彼らは凄い剣幕で声を荒げだした。
駄目だ、全然取り合ってくれない。
そもそもなんだこの状況は。目覚めたら憎きイギリス貴族の館みたいなところで目覚めて、何も分からないままふらふらしてたら、二階で人が死んでるし、何より、他の人間と意思疎通が出来ない。めちゃくちゃだこんなの。
「እኹል እዩ! ካብዚ ኽወጽእ እየ!」
一番発狂していた黒人の女が、そう叫んで玄関の方へと走っていった。身長の三倍はありそうなドアにぶち当たり、頑強な取っ手に縋り付いた。
確かに。なんで俺たちは今までここを出ようとしなかったのだろう。人が二人も死んで、こんなところにずっといつ必要はないのに。
「ስለምንታይ እዩ ዘይከፈተ!」
不穏な音が、一筋の希望をかき消した。ガチャガチャと、鍵の掛かったドアを揺さぶる音が響いている。彼女の泣き声と混じって、ホラー映画のワンシーンのようだった。
「まさか、開かないのか?」
自分も開けようと近づいてみる。取っ手を握り動かしてみるが、もちろん動かない。横スライド? シャッター式? 開けごまごまごまのへそ?
開かなかった。
いつの間にか他の三人も加わってドアを揺さぶったが、全く開きそうにもなかった。
私たちは、閉じ込められていたのだ。
「ᠪᠢᠳᠡ ᠯᠠᠪᠳᠠᠭᠤᠨ ᠲᠣᠭᠲᠠᠭᠤᠨ ᠪᠣᠯᠭᠠᠶᠠ ᠃」
死んでない方のアジア人がそう言って、発狂する俺たちを窘めた。
落ち着きを取り戻し、みんなでテーブルに座る。この騒ぎで、俺への容疑はうやむやになったらしい。しかし、誰が彼を殺したんだ……。毒を入れる機会なんて、俺以外にあるはずないのに。
床に伏しているアジア人をチラリと一瞥した。目をかっぴらいたまま泡を吹き、仰向けで天井を見上げている。爪を立てて掻きむったのか、首には赤い線が何本も走っていた。
さすがに見ていられず、俺は死体に近づき、彼の瞼を閉じた。出来ることならガンジス川に流してやりたいが、外に出れないとなると、いいとこトイレだろう。
それからしばらく、沈黙が続いた。陰鬱な気分が最高潮になった頃、溜め息交じりに白人男が立ち上がり、
「Estou cansado. Resolvi subir e dormir. As buscas pelo culpado começaram」
と片手を上げて二階へと上がっていった。休みにいくのだろうか。
後を追うように、他の面々も立ち上がり、二階へと上がっていった。ほぼ裸の女の胸が、階段を一段上る度、上下に揺れる。最初から気にはなっていたが、一体なんだあの格好は。肩や手足を出す時点ではしたないというのに、あれでは恥まみれだ。少しは我が国の女性たちを見習って欲しい。
プリプリと怒りながらカレーを片付けて、自分も部屋に戻ることにした。あまり死体と二人きりになりたくない。
階段を上っていると、視線を感じた。どこからというものでもない。まるで、この舘全体に監視されているような──。
思わず振り返る。強いて言えば、この一階に光を取り入れている、あの大きな窓からだろうか……。いや、とかぶりを振る。高さ的には二階だ。あんなところから人が覗けるわけない。
は、まさか、ヴィシュヌ神か!? 神様ですか!?
……いやいや、神のご加護を受けているなら、こんな状況になるわけがない。俺は溜め息のようにすかしっぺをして残りの階段を駆け上り、自分の部屋へと戻った。
とりあえず靴下を脱いでベッドに腰掛けた。昼寝でもしようか。とその前に、神に祈ろう。
まずはチャキネ。水で身体を清めたいが、水がないので、唾液を身体に塗りたくった。次はシュリンガル。飾り付けだ。花でもあればいいが、もちろんそんなものは無いので、さっき脱いだ靴下を鏡台の前にでも飾っておこう。そしてサーダナ。瞑想だ。面倒くさいので飛ばす。極めつけにアラダナ。火を点して、雰囲気作り。蝋燭が飾っていたので、鏡台に持ってきて、ポッケにいつも入れているマッチで火をつけた。そしていざ、プラルタナ。ベルを鳴らしながら、全身で喜びを表現して神へ祈るわけだが、ベルは無いのでものまねで代用だ。
「シャンシャン、リンリン」
鏡台の前に座って、火を見ながら、俺は狂喜乱舞した。神に私の祈りが届くように、全身を使って、一心不乱に、俺は踊った。
おお、神様、女の子にモテますように。お金持ちになれますように。私は仏教徒ではないので、煩悩にまみれていてもいいのです。シャンシャンリンリン。
あまりにも思いが強すぎたのか、勢い余って、腕が蝋燭に当たってしまった。ゴトンと音がして倒れ、コロコロ転がって俺の股に落ちた。
「シャン!」
俺は飛び跳ねた。そして、驚いた拍子にとんでもない量の屁が出た。俺の股下でF1のレースが佳境に入ったのかと思うほどで、そう思ったときには、蝋燭の火が地獄の業火へと変わっていた。
目の前が火で覆い尽くされ、その火は身体に燃え移った。服に料理をしたときの油が跳ねていたのか、凄い勢いで燃え上がる。パニックになりながら息を吸うと、肺が焼けるように痛んだ。いや、実際焼けているのだ。
熱い。熱い。誰か、助けてくれ!
もがくうちに、熱さを感じる神経も焼けてしまったのか、何も感じなくなり、くすぐったいような気分になった。火で真っ白になった視界の先に、今は亡き故郷の母を見た。あの世から俺を手招いているのだ。
「ムチャナ。今だから言うけどね、私の作ってたカレー、あれ全部レトルトだったのよ」
母は、光の中で笑っていた。
タイテル・オコメスキー(45)国籍:ロシア
薄らと微睡んできたところで、焦げ臭い匂いが立ち込み始めた。どうやら隣の部屋らしい。隣っていったら、あの人殺しインド野郎だ。
もしかして、神様でも崇めてんじゃねえだろうな。
近頃太ってきて重たい身体を、怒りにまかせて起こした。部屋を出て横のドアを睨むと、ドアの隙間から黒煙が噴き上がっていた。火事か?
右腕で鼻と口を塞ぎ、恐る恐るドアの前に立った。凄い熱だ。ドアノブに手を掛けてみると、鉄板かというような熱さでとても持てたものではなかった。どうしたものかと思っていると、さらに隣の部屋からナイスバディのイタリア女が出てきた。知らぬ間に、黒人の女とアジアの男も側に立っていた。
「おい、消火器だ! 早く!」
アジアの男に言ってみるも「ᠴᠢ ᠶᠠᠭᠤ ᠶᠠᠷᠢᠯᠴᠠᠵᠤ ᠪᠠᠢ᠌ᠬᠤ ᠪᠤᠢ ?」と頭を傾げるだけだった。仕方なく、ジェスチャーを混ぜる。柄じゃないからやりたくないのだが。
口でシューっと息を吐きながら、消火器を使っているような身振りをしてみると、アジアの男は何度も頷き、一階へと走って行った。後を追って、黒人の女も走って行く。
「Cosa devo fare per un momento? Devi sfondare rapidamente la porta, altrimenti il fuoco si propagherà!」
イタリア女が、乳を四方八方に揺らしながら叫ぶ。なんてことだ。美しい。彼女の目も、鼻の形も、唇の薄さも、セミロングの髪型も、全部好きだ。嫁の八倍くらい好きだ。
無意識に、心拍数が上がった。そのとき、先日二十歳になった娘の声が頭の中に聞こえた。
──お父さん、心臓が悪いんだから、運動とかしちゃだめよ。
女の人に興奮してもだめね、と付け加える笑顔も、浮かんで消えた。
そうだそうだと頭を振る。この前心臓発作を起こしてから、興奮することからは距離を置いているのだ。前は奇跡的に生還できたが、今度は分からない。こんな女に興奮している場合ではない。二人が消火器を持ってくるまでの間に、このドアをぶち破って消火できる状態にしておかなくてはならないのだ。
「おい女、見とけよ」
そう言って気合いを入れ、自慢の大きな身体でドアに体当たりをした。どうやら鍵が壊れたようで、ゆっくりとドアが開き、ぶわっと黒煙が身体を包んだ。思わず咳をしながら後ずさる。
目をうっすらと開けながら振り返ると、消火器を持ったモンゴル人がいた。彼は開いたドアの中へと突入し、赤みがかった白い粉をぶちまけた。
みるみる黒い煙の勢いは縮まり、焦げ臭い匂いと共に、視界が少しずつクリアになっていった。黒人の女も参戦したことで、火は直ぐに消し止められた。
黒煙が完全になくなったのを見計らって、恐る恐る部屋の中へと歩を進める。焦げ臭くて粉っぽく、呼吸を浅くせざるを得ない。焦げの黒と粉の白が混ざった水墨画のような部屋の中央には、こんがりとした何かが横たわっていた。きっとインド男に違いない。
俺は差別主義者じゃないが、黒んぼのようだった。
──黒んぼは燃えない。なぜならもう既に焦げているからだ。
そんなジョークが浮かんで、俺は自分が嫌になった。
「Na'e mate ha taha kehe! 'Oku 'ikai ke u toe fie ma'u ia 'e au! Ko hai 'oku ne tamate'i e taha kotoa!」
黒人の女が消火器を放り投げて泣き始めた。乳房を四方八方に踊らせるイタリアの女が、彼女の肩を撫でる。そうか、彼女には優しさもあるのか。なんてそそられる女性なんだ……。その谷間というクレバスに滑落して、そのまま遭難したい──。
おっといけない。また彼女を見ていた。
目をそらすように、死体に目を向ける。人の原型をあまりとどめておらず、正直いってグロデスクさはなかった。焼き肉をしたとき、こんな感じの肉を見たことがある。
刺殺、毒殺ときて、今度は放火か……。しかも、今回は鍵が掛かっていたから、密室殺人ということになる。ということは、この部屋にいる四人の中に犯人がいるってことか?
振り向くと、アジアの男も難しい顔をしていた。こいつだろうか。正直、一番冷静っぽくて何を考えているか分からないのはこいつなんだが……。
犯人が複数という可能性もある。一人目の白鳥じじいの犯人と、毒殺されたアジア人の犯人は違うかもしれない。そして今回は、毒殺をしてしまった自責の念からの、自決という可能性だってなくはない。
う~ん、分からん。
頭も働かないし、俺は部屋に戻ってもう一度寝ることにした。
部屋を出ようとイタリア女の横を通ったとき、彼女の熱い視線を感じた。振り返ってみると、彼女は恥ずかしそうに目をそらした。
これは、いけるかもしれん。
自身二十二度目の春が訪れようとしていた。
起きて部屋を出てみると、みんなが一階に集合していた。さっきまで光が差していた窓の向こうは暗い。夜になったのか。とにかく、腹が減った。昼のカレーは捨てちまったしな。
腹をさすりながら一階へ下ると、みんなも同じ気持ちだったようで、アジアと黒人が立ち上がった。キッチンの方へと向かう。複数人で料理を作れば、互いに監視しあうことができ、毒を入れる隙などない。俺もちょくちょく見に行こう。
自動的に、イタリア人と二人きりになった。
フライパンで何かを焼く音が聞こえ始めたころ、イタリア人が何かを俺に言った。
「Eri così figo」
何を言ってるかは相変わらず分からないが、とても好意的な視線をこちらに向けている。駄目だ、そんな目で見られたら、ドキドキするじゃないか。
かなり刺激的な格好しているから、目のやり場に困って少し俯いていると、彼女はおもむろに立ち上がり、こちらへと向かってきた。妖艶な指が、俺の胸を張っていく。
「Oh, è carino」
熱い吐息が耳に掛かり、心臓が早鐘を打った。サイレンのような間隔で、今にもはち切れそうだ。
──やめろ、そんなことをされたら……。
「ᠶᠡᠬᠡ ᠠᠮᠵᠢᠯᠲᠠ ᠣᠯᠣᠭᠰᠠᠨ ~᠃」
その瞬間、アジアの男がキッチンから戻ってきた。イタリア女がすっと離れ、俺の向かいに戻っていった。助かった。早く、早く飯にしよう。
目の前に置かれた皿には、卵とソーセージが載っていた。朝飯みたいなメニューにげんなりしたが、作ってくれただけましだと思うことにしよう。
全員着席したところで、卵を口に入れた。塩気が効いていて美味い。
さてソーセージも、といったところで、向かいに座っていたイタリアの女が動いた。自分のソーセージをフォークで突き刺し、俺の口へと持ってきたのだ! 彼女は身を乗り出し、私の方へ顔を近づけてきた。
これは大変な状況だ。俺は、手を繋ぐより抱き合うよりキスするよりベッドインするより、何よりもあ~んが一番興奮するんだ!
心臓が大気圏を飛び越える。鼓動が全身を揺らし、身体を大太鼓に作り替えてしまう。
──女の人に興奮しちゃだめよ。
娘の声がリフレインしたが、なんの薬にもならなかった。
ソーセージが、遂に口の中へ侵入した。彼女の真っ直ぐで綺麗な目を俺は見つめながら、どうにでもなれという思いでソーセージを噛んだ。肉汁が口の中に溢れ、美味いと感じた瞬間に、心臓が破裂した。
全身を縦に貫かれたような衝撃が走り、俺はテーブルに突っ伏した。痛みを感じる暇さえなく、もはや嫁や娘に合わせる顔もない。何度俺が不倫しても笑い飛ばしてくれた嫁の顔が浮かんで、改めていい女だと思った。
タノンデタ・シリョウッテ・アルヤンナ(40)国籍:イタリア
嘘……なんで?
私のソーセージを囓っただけなのに、彼が死んだ。
なんでいつもこうなるのかしら。私が愛した男は、みんな死んでいくの。カート・コバーン、ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソン、エトセトラエトセトラ。ああ、私ったら、魔性の女ね。魔性の女コンテストに出場でもしようかしらん。
思えば、彼に男を感じたのは、火事が起こったときだった。もうもうと上がる黒煙の中、彼がその大きな身体でドアをぶち破ったとき、
──この人しかいない。
と思ったのに。
私がソーセージを口に突っ込んだだけで絶命しちゃうんだから、結局その程度の男だったということかしら。ソーセージ以下の男。ウインナーね。ウインナー男ね。タコさんみたいな頭だったしね。
彼はテーブルに突っ伏して、ピクリとも動かない。右頬では、ブリンと転がったソーセージが彼に寄り添っている。
いったい、今日は何人死んだのかしら。白鳥の人、毒殺アジア人、焼死インド人、ソーセー死ナイスガイ──。
この人たちがみんな誰かに殺されているとしたら。そう考えると、さすがの私でも背筋が凍る。だって、私がやっていないということは誰よりも私が分かっているんだから、もう犯人の候補は、このもう一人のアジア人と黒人しかいない。
私はさっきから凄い表情を浮かべている二人の方に視線を向けた。
「あんたたちがやったんじゃないの? このソーセージ作ったの、あんたたちよね?」
何か責められていると感じたのか、二人は「ノーノー」と言いながら首を必死に振っている。ときどきお互いに目を合わせながら、
「'Oku 'ikai ke ke fai ha me'a, ko ia? Na'a ku sio ki ai, ka na'e 'ikai ke u tuku ha me'a ki ai」
「ᠴᠢ ᠶᠠᠭᠤ ᠬᠢᠭ᠍ᠰᠡᠨ ᠪᠤᠢ ? ᠦᠭᠡᠢ ᠂ ᠪᠢ ᠦᠵᠡᠵᠦ ᠪᠠᠢ᠌ᠨᠠ ᠂ ᠲᠡᠢ᠌ᠮᠦ ᠪᠠᠢ᠌ᠵᠤ ᠪᠣᠯᠬᠤ ᠦᠭᠡᠢ ᠃」
と何やら言い合っている。
ったく、これじゃあ埒があかない。しょうがないわね。
前髪を妖艶に掻き上げ、一つの決心を下した。
「私、名探偵になるわ」
名探偵アルヤンナ。あらあら、かっこいいじゃない。あ、名探偵なら、もちろん決めゼリフがいるわよね。何がいいかしらん。
う~ん、そうねえ。
──人はみんな、いつか死ぬ!
決まり。これね。
またまた泣き出した黒人を尻目に、私は何から始めるべきかを考えた。
探偵と言えば、まずは現場検証。死体を調べて、手がかりでも探そうかしら。容疑者は二人。絞るのなんて簡単なはず。
「カモン!」
と辛うじて知っている英語を叫んで、私は二階への階段へ向かった。まずは最初に発見した遺体、白鳥のおじさんの現場検証からよ。正直グロいからあまり見たくはないけれど、しょうが無いわ。犯人が分からないままここで過ごすよりよっぽどまし。
二人が着いてきていることを確認して、階段を上り始める。
この階段を上る度に、視線を感じる。天井? 床下? 窓の外? 館のあらゆるところに目があるような、そんな感覚。気持ち悪いったらありゃしない。
もしかして、この様子がどこかで見られているのかしら……。外に出られないし、あり得るかもしれない。
とにかく、今は犯人を見つけることよ。
始めに騒動が起こった、一番端っこの部屋の前に立った。このドアの向こうに死体があると思うと……足がすくむ。けど、私はやるわ。この瞬間にも、犯人は私のことを狙ってるかもしれない。せめて誰か明らかにしなきゃ。
ちらりと振り返り二人を確認してから、意を決してドアを開けた。
「……あれ?」
ドアの向こうに転がっているはずの、白鳥おじさんの死体は、どこにも見当たらなかった。
誰もいない部屋。劣化した血で黒く染まったペルシャ絨毯だけが、豪華な部屋の中でいような雰囲気を放っている。
「ሬሳ ዘይህልወካ ስለምንታይ እዩ? ዜፍርህ እዩ! ሓደ ሰብድዩ ወሲድዋ ?」
黒人の女が泣き叫ぶ。困惑しているのだろう。分かる。分かるわその気持ち。
アジアの男も「ᠶᠠᠭᠤᠨ ᠳᠤ ᠪᠤᠢ ?」と上ずった声を上げながら頭を抱えている。何より私は、頭が真っ白になっていた。脳味噌がモッツァレラチーズになったみたい。
これじゃあ死体を調べられないわ……どうしましょ……。
「ᠪᠢᠳᠡ ᠲᠡᠭᠦᠨ ᠢ ᠡᠷᠢᠵᠦ ᠣᠯᠣᠶᠠ !」
そう叫んだのは、アジアの男だった。手に庇を作ってキョロキョロするジェスチャー。探そうってことね。分かったわ。死体が見つからなきゃ、先に進まないもの。
私たちは一旦部屋を出て、それぞれの方向へと散った。私は一階を探すことにした。
けど、何も見つからない。さっきまで私たちは一階にいたんだから、誰かが死体を移動させたのなら気付いてるし、当たり前か。
「ሽቓቕ ተዓጽዩ!」
二階から、黒人女の声が降ってきた。きっと、何かを見つけたに違いないわ。
階段を上って、彼女の後をついていってみると、その先にはトイレがあった。あたしも、何度か使っている。ここがなんだというのだろう。
黒人の女がドアノブを指し示した。捻ってみるも、動かない。鍵が掛かっている。
「そんなわけ……嘘でしょ?」
私と黒人の女とアジアの男。生きているのはこれで全員のはず。だとしたら、誰がトイレに入ってるというのよ? まさか、死体がウンコしてるとでも言うの!? そんなの、三角形のピザくらいあり得ないわ!
「ᠬᠦᠭᠵᠢᠭᠦᠯᠬᠦ!」
振り返ると、アジアンボーイが消火器を振り上げていた。ドアノブを壊し、強行突破を図っているらしい。なかなか男らしいじゃない。
私はドアの前から立ち退き、アジアンボーイが頑張っている姿を見つめた。甲高い金属音が何度か聞こえた後、ドアノブが壊れ、床に落ちた。
ドアが開いていく。立ち上るウンコの匂いに、思わず鼻をつまんだ。ウンコと言うことは、生きている人間が入ってたってこと?
トイレを覗き込み、言葉を失った。
「……嘘」
白鳥の死体が、便座に座っていた。いや、座らされていた。
肌は生きていると思えないほど白い。いや、実際生きていないのだろう。しかし、しかしながら、ウンコの匂いがする。ウンコをしているということは、生きているということに他ならないのではないのか。
「……ミステリーで、アートだわ」
誰かが予めウンコをして、その後に死体をここへ運び込んだということだろうか。ウンコを流しもせず、死体がやったかのように見せた──。
一体、誰がなんのために?
やったとしたらならば、このアジアンボーイか黒人の女か。どっちなの。私の憧れの死に方を具現化できるセンスを持った人間はどっちだと言うの!
とっくに私の身体は、衝撃に痺れている。十五歳で家を飛び出し、イタリアでアートに励んできた私。裸同然の格好をして、アートを身一つで体現してきた私。これまでの人生で、こんなに前衛的なアート作品があったかしら。いや、ない。
ああお師匠。今、私の死に場所が決まりました。こんな芸術家魂をそそられ、対向意識を駆り立てられるシチュエーション、二度と出会えません。私、アルヤンナ四十歳。今日、華々しく、誰よりもアーティスティックにこの世から退場したく存じます。
「あなたたち、ここをよろしくね」
私は呆然と立っているお二人さんにそう告げると、自分の部屋に飛び込み、鍵を掛けた。
──最高の自殺。
頭にあるのはそれだけ。私のゲイジュツ。見せてあげるわ。
そうして私は、自分をいかにゲイジュツ的な死体に仕上げるか思案した。
まずは遺書よね。遺書に詩的な、アーティスティックなことを書いて、読み手を感動の渦に巻き込んでやるわ。詩をしたためるのもいいし、絵画なんか描いちゃったりするのもいいかも。あ、自分の血で遺書を書くのはどうかしらん。いやん、私ったらアートな女ね。
血で書くなら、どこまでもダイナミックに。
私はペン立てに刺さっていたボールペンを抜き出した。
鏡台の前で、自分の姿を見つめる。
鏡の中では、恐ろしいほどいい女が笑っていた。
今まで落としてきた男が次々と浮かんでは消える。その中に、さっき死んだごつい彼の姿もあった。彼、私に惚れていたのかもしれないわね。
そんな考えと共に、もう一つのアイデアが浮かんだ。
そうだ、自分の血で、今まで落としてきた男たちの似顔絵を描きましょう。うふふん。なんて猟奇的なの! ああ、私、自分が怖いわ! 魅力的すぎる! ピサの斜塔の傾き加減のようね!
さ、紙を用意してっと。
ダイナミックに描きたいから、血は多めがいいわよね。そしたら手首かしら。
いくわよ……。
えいっ!
手首に恐ろしい痛みが垂直に走ったと同時に、凄い量の血飛沫が吹き上がった。
痛いけど、これよこれ!
そうして私は、用意した紙に今まで落としてきた男を描いた。昔のことはあんまり覚えてないから、今日舘の中にいた男たち全員分。私に惚れない男なんていないから、これで大丈夫。
あら、なんだか視界がぼやけてきたわ。どうしましょ。あともっとやることないかしら……。
そうねえ、密室にしとけばアートかしら? それじゃあ誰かに殺されたっぽく、首にペンでも突き立てときましょうかね。ふんっ!
視界の下から、血飛沫が舞う。壁に、天井に、床に、私の愛しきヘモグロビンたちが散って、部屋を赤く染めていく。自分が絵の具になっちゃうなんて、興奮する。そうか、私の血が画材になることによって、私自身が絵になれるということね。
ああ、なんて幸せ。
もう身体に力が入らない。
最後に感じたのは、一番愛した男の香り。
スパイスの効いた、カレーの──。
ちょっと、なんで最後にあのインド人が出てくるわけ? やめて、屁をこかないでよ!
ああ、最悪。人生最後に考えたことがあのインド人だなんて。
ちっともアートじゃない──。
あ、ほんとにやばい。意識が遠いわ。
嘘、マジでインド人で終わるの?
そんな、いや……。あ~~~……。
コン・ナコト・ザラニアル(30)国籍:エチオピア
もう嫌だ……怖い……国に帰りたい!
朝から何人も死んだ。次は私かもしれない。さっき突然部屋に入っていったイタリアの人も全然出てこないし、もしかしたら彼女も──。
恐怖を堪えながらも、目の前の不可解な死体を見つめた。なんで死体が動いてるのよ! もうっ、誰がこんなことしたっていうの!? 臭いし!
怒りさえ沸いてくる。神聖で愛おしい命をこんなに粗末に扱うなんて……。同じ 人間として信じられない。
チョマテヨの顔がふと脳裏を掠めた。私の最愛の息子。一つの時代まるごと抱けるくらいイケメンな息子。あの子は私が守ってあげなくちゃならない。こんなところで死ぬわけにはいかないんだから!
横のアジア男を見た。この人が犯人なの? それとも、イタリアの人?
どちらにしても、危ない。このままでいちゃあ、私も殺されてしまう。
私は行動に出ることにした。とりあえず、今生きている三人が互いに監視しあえる状況にして、これ以上被害者を出さないようにしなきゃならない。殺人犯といっしょになるのは怖いけど、殺人犯だってそんな状況で無闇に人を殺したりしないはず。それで救助が来るまで、静かにしておくこと。
そうと決まれば、一旦トイレの死体は置いておいて、イタリアの彼女を呼ばなくちゃ。
私は彼女が入っていった部屋の前に立って、ドアをノックした。
「あの、今大丈夫~?」
返答がない。嫌な予感が背筋をそっと撫でた。そんな、もしかして彼女も──。
ドアノブを回すも、鍵が掛かっている。やだ、だめ、死んじゃだめ!
そしたら、犯人と二人きりになっちゃうじゃない!
アジアの男がこちらを見ている。鋭く尖った目。最初は泣いていた私を慰めてくれていた彼が、恐ろしく怖い怪物に思えた。
彼が消火器を持って、こちらに近づいてくる。嫌だ、死にたくない!
渾身の力でドアにタックルした。火事場の馬鹿力とはこのことだ。ドアと一緒に、私は部屋の中へ倒れ込んだ。
視線を上げると、そこには無残な光景が広がっていた。思わず吐き気がこみ上げる。
赤、赤、赤。どこもかしこも血で染まっている。その中央では、イタリアの彼女が天井を向いて、目を見開いていた。その顔が苦痛に歪んでいる。まるで何かを拒絶するような──。
「イタリアの人!」
駆け寄るも、彼女は既に事切れていた。震える手を抑えながら、なんとか周りを見渡す。すると鏡台の前に、数枚の紙切れが置かれていた。
手に取ってみると、血で書かれたのか、男の似顔絵が描かれていた。これは、今日死んだ四人の絵?
その瞬間、ぴんときた。これは、これはそう──。
──ダイイングメッセージね!
男衆四人が描かれていたということは、男たち全員が犯人だったってこと!? そうか、イタリアの人はその事実に気が付いたけれど、伝える前にアジア人に殺されたのね! ずっと彼は私の隣にいたけど、きっと何か凄いトリックを使ったに違いない!
一つ物事が分かると、次々に真相が芋づる式に判明していく。
そうか、男たち四人で、私とこのイタリア人の方を陵辱しようとしたに違いないわ。それで私たちを奪い合って、その末に毒やらなんやらを使って互いに殺し合った──なんて最低な人たち!
イタリアの人が死んじゃったから、犯人はもう一人しかいない。あいつよ。あの、アジア男。馬鹿ね、消去法って知らないのかしら? 私たちをレイプしようとしてたなんて、許せない! 私、絶対に生き抜いてみせる! チョマテヨ、あなたを一人ぼっちになんてさせないから!
「借りるわよ!」
私はイタリアの人の首に突き刺さっていたボールペンを引き抜いた。アジア男が入ってきた瞬間、あいつの首に一刺ししてやるわ! あいつの武器は消火器。小回りがきかないからきっと大丈夫。
開きっぱなしにしていたドアをじっと凝視する。足音が、近づいてくる……。
右足が見えた。まだ。あと一歩よ。
アジア男の全身が視界に入った瞬間、大きな叫び声を上げてアジア男に突撃した。全身に力が漲る。彼の驚いたような表情が目に入った。このまま押し切れ!
はっと気付くと、私が持っていたボールペンは、深々とアジア男の首に刺さっていた。飛び散る血飛沫が顔に掛かる。妙に生ぬるい。口から血を吹き出して苦悶の表情を浮かべている彼の顔を見て、アドレナリンが湧き上がった。
そして、一瞬油断してしまった。勝ったと思ってしまった。
彼は知らぬ間に消化器を持ち上げ、私の顔目がけ、凄い勢いで突き出した。顔面にもの凄い衝撃が走り、その一瞬後、後頭部が割れた。ドアの縁だった。
頭の中で星が爆ぜ、燃えた。そのままストンと暗闇に落ちた。浮かぶのは、チョマテヨの微笑み。ごめんね、母さん、あなたの隣にいられなくなっちゃった。こんな母さんを許してね。一人で、立派に生きていくのよ。
さよなら。私の愛しき、チョマテヨ。
モウスグ・シチジ・ハン(28)国籍:モンゴル
あ、熱い。首が、俺の首が──。
二人が全然出てこないから心配して行ってみたら、急に黒人の女が飛び出てきて俺の首に何かを刺しやがった。なんで、なんでこうなるんだよ。
口が血で詰まって息が出来ない。苦しい。鼻の奥が痛い。
とりあえず、この女をなんとか引き剥がさないと。
俺は苦し紛れの力で、なんとか消火器を持ち上げ、女の顔面に突き出した。彼女はなぜか、俺を殺しにきている。怪我をさせたらとかなんとか考えている暇はない。渾身の力を込めた結果、恐ろしいほどの手応えがあった。
気付くと、彼女は床に仰向けに転がっていた。少し眼球が飛び出ていた。
ああ、俺は彼女を殺してしまった……。
そう後悔しているうちにも、どんどんと首から血が流れ出ていく。死を覚悟する。霞む視界の中に、血まみれで倒れる、イタリア人の姿が見えた。もう、この舘では誰も生き残っていない。
これが結末か──。
俺はゆっくりと倒れ、そのまま目を閉じた。
薄れていく意識の中、俺は確かに聞いた。舘全体から鳴り響く、女の声を。
──さあ、次で終わりね。
シン ハンニン(48)国籍:中国
目覚めて驚いた。最近の婚活パーティーはこんなにも凝っているのか。
豪華な西洋風の部屋。一つ一つの家具にも技工が凝らされているし、私が今起き上がったこのベッドも、おそらく百万円はくだらない。最高級のものに違いなかった。
この素晴らしいセット。高い金を払って申し込んだだけはある。
もうアラフィフという歳になって、本気で結婚を焦っている。さすがに金持ちでもない五十と結婚したい女性などいないだろう。
今回がラストチャンス。
長く私の婚活を見てくれていたアドバイザーの人も、遂にそう念押しした。
だから、なんとしてでも今回で仕留めなければならない。ここを逃せば、一生を孤独のまま過ごす惨めな老人と化してしまう。もう若さとか性格とかでわがままを言っている場合ではない。私に興味を示してくれた方を、逃してはいけないのだ。
今回の婚活。ラストということで担当の方も気合いを入れてくれたのだろう。山奥の孤立した空間でパーティーを開催するとは訊いていたが、ある日突然目覚めたらそこに移動しているなんて、半ば拉致監禁じみたことまでやってくれるとは。
きっと、吊り橋効果か何かを意図してのものに違いない。
ここで私の魅力を伝えなければ、憧れの結婚生活はないぞ。私はそう自分に言い聞かせ、鏡台の前で頬をぴしゃりと打った。
壁に掛けられている煌びやかな時計を見ると、まだ午前四時。おそらく他の参加者はまだベッドの上で眠らされたままだろう。自分だけこんな早くに起きられたのも、もしかしたら担当の人が仕掛けておいてくれたのかもしれない。これで、心置きなくあれが出来る。
私には秘策があった。結婚をするためには、人間的な面白さが不可欠だということ。これはこれまでの度重なる戦場での経験で培ったことだった。ならば、対策を打つまで。
面白い人だと思ってもらうために、
──一芝居打つ。
これを胸に決めて、私は今日婚活に参加したのである。
担当から聞いていたよりも数倍は豪華な舘。私の考えてきた作戦にぴったりのシチュエーションだ。
そうと決まれば早速行動。私は他の参加者を起こさないように、音を立てないようにして廊下へと出た。
なんということだろう。吹き抜けになっていて、一階が見下ろせるようになっている。上からはこれだけで家が買えそうなほどの大きなシャンデリア。廊下をぐるりと回ると横幅の大きな階段がある。そこから一階へと降りられるんだな。
ああ、早く人生の伴侶の顔が見たい。
ふるふると首を振る。今回は少し我慢だ。全ては、面白い人だと思って貰うために。
私は周囲を見渡しながら、一階への階段を降りた。ふと視線を感じて、ばっと振り返る。何もない。まだ暗いから不気味に感じるだけだと自分を納得させて、歩を進めた。
映画に出てきそうな長いテーブルを素通りして、キッチンへと向かった。探すのは、食紅と片栗粉。これも担当に手配しておいたから、きっとどこかにあるはずだ。
レストランにあるような冷蔵庫を開けると、食紅の赤と緑が置いてあった。どちらも取り出す。片栗粉は、すぐ後ろの棚にあった。
これで、まずは血糊を作る。お湯に食紅を溶かし、その後で水溶き片栗粉と少しずつ混ぜるわけだ。このときに緑色の食用色素も混ぜればよりリアルになるというのは、ネットの知識。
五分後。私の手元には大量の血糊が生まれていた。
しめしめと二階へ上がり、自分の部屋へ戻る。緊張してきたが、ここで引いては男ではない。必ずみんなをぎゃふんと言わせてやるのだ。
寝る前から履いていた白鳥パンツ。この白鳥が胸にぶっささっている死体があったらみんな、きっと大爆笑するだろう。
そう、私が今回やろうとしているのは、名付けて、『変な殺人事件が起きたと思ったら実はおふざけでしたドッキリ』だ。長いって? じゃあ縮めて、ドッキリだ。
みんなが私の死体を見つけてパニックに陥っているところで起き上がり、ドッキリでしたとネタばらしすれば、ガチッと皆の心を掴めるに違いない。きっと今回の女性たちも、「面白い人ね。私あなたと結婚したいわ」と言いよってくるに違いない。
ふぅ、と息を吐いた。私はやるぞ。絶対伴侶を見つけるのだ。
血糊を大量に入れた瓶を開封し、胸を中心に振りかけた。白鳥の頭が胸を貫通しているように見える細工は、かなり金が掛かった。しかし、これも結婚のため。そう考えれば少ない出費だろう。
それにしても、中々リアルだ。このとろみと、微かに黒みがかっている色がなんとも。これで倒れていれば、誰もが死んでいると思うだろう。
身体を血まみれにして、床に横たわった。部屋のドアは不自然なほど開けておいてある。本当は密室殺人に仕立てたかったが、気付いてもらえなければ意味が無い。これだけ開いていれば誰か入ってくるだろうという見込みだ。
わたしはゆっくりと横たわり、目を閉じた。あと数時間後には人生の伴侶と話をしているだろう。ああ、待ち遠しい。
「ሬሳ እውን እዩ! እቕተል ኣለኹ!」
聞いたこともない外国語で目が覚めた。いかん、いつの間にか眠ってしまっていた。
目を思わず開けそうになってしまったが、ギリギリのところで耐える。危ない。目を開けてしまっては、ドッキリが台無し、引いては私の結婚が無くなってしまう。気をつけないと。
というか、この声は何語なんだ? 今回の婚活は全員中国人のはずなのだが……。
そんな違和感に不安を膨らませていると、何人もの足音が部屋に入ってくるのが分かった。よし、呼吸を出来るだけ浅くするんだ。絶対にバレないように。
「लोग क्यों मर रहे हैं?」
男の声だ。一体これは何語なんだ? さっきの女性とも発音が違う。どういうことだ?
「おいおい、なんでこんなとこに死体があんねん!」
これは確か日本語だ。おい、全員国籍が違うのか? そんな変な婚活パーテイーに参加した覚えは無いぞ! あの眼鏡の担当、間違えやがったのか?
喧噪が増して、聞いたこともないような外国語が、頭の上で飛び交っている。中国語が一切聞こえない。なんということだ……これはまさか、誰とも意思疎通が出来ないということではないか……。
「……なんやねんこの死に方」
時折聞こえる日本語に、親しみを覚える。女の泣き声も聞こえてきた。そしてここで、私は見つめたくない現実をチラ見してしまう。そう、この場は今。
──思っている以上に、大爆笑ではない。
どちらかと言えば緊迫している雰囲気だ。これはもう、早めにネタばらしをするべきか……。
い~や、まだ引っ張れる。引っ張った方が、驚きは指数関数的に伸びていく。まだ今は耐えるとき。時は満ちていない。
「नमस्ते ~ नमस्ते ~」
一際大きな音が聞こえた。これは、屁の音だ。だめだ、思わず笑ってしまいそうになる。落ち着け、落ち着け……。
と、突然右腕を誰かに掴まれた。思わず反応してしまいそうになるが、どうにか耐える。なぜ、右腕を──そうか、脈の確認か! くそ、このままではバレてしまう。が、何もできん!
ここで終わりか──と腹をくくったが、騒ぎ立てられるわけでもなく、右腕はあっけなく離された。バレなかったのだろうか。もしかして、日々蓄えていた贅肉のおかげか?
「Mi dispiace scoreggiare fin dall'inizio! Non ti senti nervoso!?」
大きな屁の音がまたもや聞こえた後、巻き舌の、女性の怒った声が聞こえてきた。屁の音の主が謝る声や、違う男性の声が頭上を飛び交う中で、私はもう一つ、大きな窮地を迎えていた。
──お腹が鳴りそう。
なのである。
朝四時に起きて、二度寝して、今は何時だか知らないが、かなりの時間が経っているはずだ。朝ご飯をかかさない私からすれば、お腹を鳴らさずにはいられない時刻。もしここで盛大に腹が大声を上げてしまえば、しょうもないネタバラシになってしまう。
胃の中に空気が溜まるような感覚。これが弾けることを考えると──。
必死に祈った。どうか、どうか鳴らないでくれ! んぐ、んぐっ!
──グーーーーー。
この世に神様はいないと思った。近年まれにみる大きさだった。
もう終わりだ……。
「किसी को भूख लगी है, है ना? मैं इसे मदद नहीं कर सकता। मैं यहाँ करी बनाने जा रहा हूँ। मैं माफी चाहता हूँ, मैं सिर्फ पाद रहा हूँ」
またもやオナラの彼の声が聞こえてきて、いくつもの足跡が部屋の外へと向かい始めた。
え、た、助かったのか!? 信じられない! 神様、ありがとう!
身を震わせて感謝した(実際は微動だにしていない)。これほどのピンチを切り抜けられたなんて、幸先よいスタートだと思──。
バンッ。
ドアが閉まった。
部屋に、静寂が訪れる。私は大きく深呼吸をして、ゆっくりと目を開けて、身を起こして、先ほどのピンチを鮮明に思い出し、良かった良かったと胸をなで下ろしてから、大変なことに気付いた。
「ネタバラシ忘れてた!」
なんてことだ。当初の予定では、今頃みんなで笑い合い、私の好感度が爆上がりしていたはずだったのに。
今から部屋の外に出てもな……ぬるっと登場したら、衝撃度が減るだろうし……。驚かすように飛び出ても、それはちょっと違うし……。
恐る恐るドアに近づき、外の様子を探ってみる。外の話し声は、うっすらとだが聞こえるみたいだ。よし、こうなったら、しかるべきタイミングで派手に登場するしかない。ハンニン、人生最大の見せ所だ!
あれから何時間経っただろう。今私はとてつもない状況にいるのかもしれない。
皆に部屋を出て行かれてから、ドアに耳をくっつけて外の様子を窺っていたが、おそらくとんでもないことがいくつか起こっている。
もう私は食事を二度すっぽかしているが、そのたびに食器が割れる音が聞こえ、叫び声が何度も聞こえた。ドラマで見たことがある。この感じは、誰かが殺されたのではないか?
確かにこの目で見たわけではない。しかし、喧嘩だったらもっと荒れるだろうし、何も起こってないなら皿が割れて叫び声なんて聞こえるわけもない。嫌な予感がする。
しかも、横の部屋で火事が起こった。
あれは、一度目の食事が終わってすぐだ。なんだか熱い気がするなあと思ったら、足音がこの部屋を通り過ぎて、横の部屋に集まっていった。消火の音もしたし、なによりも黒い煙が少しこの部屋に入ってきた。
消火出来たのかどうか知らないが、こんなのもう婚活どころではないだろう。すぐにでも中止するべきなのに、何も動きがない。やっぱり、嫌な予感だ。
──ここは婚活パーティではないのでは?
そんな感覚さえ今は持っている。そして、もう一つの感覚が、今私の身体を支配していた。
圧倒的な尿意と便意である。
もう一日以上はここから出ていない。それもそうだろう。一日排泄をしなかったのなんて、人生において初めての経験だ。
本当にやばい。
部屋の外、一階では今二度目の食事が行われ、またもや少しの喧噪が聞こえた。また人が死んだと言うことなのだろうか……。あ、そんなことどうでもいいくらい腹痛がやばい。もう、行くしかない。
まずはトイレがどこにあるのかを見極め、一瞬で排泄を済ませ、死に物狂いで部屋へと舞い戻る。
バレてはいけない。不本意なネタバレは避けなければならぬ。
意を決して部屋を出た。出来るだけ体勢を低くして、足音を立てぬように。
等間隔にある柱の陰に隠れ、吹き抜けから一階をのぞき見る。やはり、人が二人倒れている。アジア人らしい男と、ごつい身体をした白人の男。残っている三人がなにやら口論をしているらしく、こちらに気付く様子はない。
今のうちだ。
実は朝にキッチンへ行ったとき、トイレらしき部屋を見つけた。まずはそこへ行こう。
廊下を左へ。その突き当たり。最初に通ったときはまだ暗くて分からなかったが、ドアに小さく『toilet』と銀の装飾が施されていた。良かった。すぐにたどり着けた。
肛門がひくついている。バレていないか確認もろくにせず、半ば飛び込むように──しかし音は立てないように──さっとトイレに入った。
自動で便器の蓋が開く。ハイテクでありがたい。
暖房がついた便座に座るやいなや、便が躍り出た。中々刺激的な香りだ。直接見れるわけでもないが、その様子はきっと、ピストルを合図にして五十メートル走を駆け出した小学生のような具合に違いない。ゴールして一喜一憂する、親御さんたちの声も聞こえたような気がする。
気がした瞬間、トイレの向こうから話し声が聞こえた。
冷や汗が吹き出るのが分かった。まさか、バレたのか?
そうか。いつものくせで鍵をかけてしまったのだ。今いる三人以外に動ける人間はいないはずだから、鍵のかかっているトイレが不思議で仕方ないのだろう。
くそ、ミスった。
どうする。静かにやり過ごすしかないか……。
口を押さえて息を殺していたが、急にドアノブから大きな音が響き、壊れて床に落ちた。あいつら、無理矢理こじ開けてきやがった!
頭が爆速で回転する。もう、これしかない。
私は、死んだふりをした。
幸い排泄を我慢していたから、顔面は蒼白。死体に見えるはずだ。
私はドアが開く一瞬前に、全身の力を抜き、目を閉じ、口をだらしなく開け、死体の演技をした。心臓の音が二倍ほどになった。
「…… È un mistero, è artistico」
女の呟くような声と、その後ろから、男と女の叫び声が聞こえた。
くそ、バレるな! なんとかあっちに行ってくれ! こんなところでネタばらしをしても、もうどうにもならないんだ! もう手遅れなんだ!
私の目の前に、三人いる。沈黙。静かなのは怖いから、せめて何か喋っていて欲しい。あ、私のウンコの匂いは大丈夫だろうか。芳香剤でも捲いておけばよかったか……。
「Bello per voi ragazzi」
もう限界だと思ったとき、女の声がそう言った。一人の足音が遠ざかっていく。しばらくするともう一人同じ方向へと走っていった。すると、女の叫び声が聞こえてきて、一人私の前に立っていた人も、どうやら私の前から移動したようだった。
助かったという安堵と、また何かが起こったのかという不安が渦巻く。
まだ目を開けてはいけない。こっちを見ているかもしれないからだ。
やがて、人のもみ合うような音が聞こえ、がんっ、という鈍い音が聞こえたかと思うと、もう何も聞こえなくなった。くそ、何が起こっているのか見たい。でもここで開けたら、駄目なんじゃないか?
それから十分くらい粘っただろうか。舘からは、なんの音もしなくなった。人の話し声も、足音も、気配も無くなった。寝たんだろうか。そう納得して、ゆっくりと目を開けた。
トイレのドアは開け放たれ、そのずっと先に、二人倒れ込んでいる。
何があったんだ!
もう、ネタバラシうんぬんを言っている場合ではない。
尻も拭わないまま、ダッシュで二人の目の前まで行くと、吐き気が私を襲った。男の方は首にボールペンが突き刺さり、夥しい量の血が吹いている。女の方がもう悲惨で、顔が潰れていた。眼球が飛び出している。
開けっぱなしになっていた部屋を覗き込むと、ほぼ裸の格好をした中年の女が血まみれで倒れていた。ナイスバストであった。
一体ここで何が起こったんだ。
隣の部屋に入ってみる。部屋が火事になっていたところだ。黒々とした部屋に、焼死体が一つ転がっていた。なんだ、なんでみんな死んでるんだ!
そこから一階を見下ろす。さっきも見たように、二人が倒れている。
まだ彼らは息があるかも。私は一階へと駆け下り、二人を揺さぶった。
「おい、大丈夫か君たち」
どちらも起きない。片方はおそらく死後硬直が始まっていて、恐ろしいほど冷たい。
──みんな、死んでいる。
呆然と顔を上げると、鏡があった。死体を揺すっている、白鳥が刺さった男。なんて滑稽なんだろうと、改めて思った。
それから舘を回ったが、誰も生きている人間はいなかった。玄関のドアも開かない。窓ももちろん開かない。椅子を使って割ろうと奮闘したが、傷がつく気配もない。
おまけに食料も残り少しだった。このままでは餓死してしまう。助けを呼ぼうにも、携帯も電話もない。もう、これは確実にそうだ。
これは、婚活パーティーじゃない。
失意と混乱の中で、私は静かに過ごした。生き延びたところで、私に待ち受けているのは、孤独な一人暮らしだ。
一週間が経ち、私は身体を動かすことができなくなった。視界が狭まっていく。ああ、最後の時がきたのだと思った。結局私は、結婚できなかった。
白鳥の首をさすりながら、私は遂に死体になった。
第二部:そしてみんないなくなればいい
ギシ、ギシ、と、母がこっちへ上がってくる音が聞こえた。
倉科さちは手早く、最後の人形に赤い絵の具を塗った。黒い肌の人形はこれしかなかったが、遊びを終わらせるには、やるしかない。後頭部に、たくさん絵の具を塗った。
次は目。なんとか爪を入れ、少し引っ張り出し、後頭部を親指で強く押す。彼女は消火器で殴られて、命を落としてしまうのだ。
ドールハウスの中。さっき作った、首にボールペンを突き立てたアジア人の人形が横たわっている。そのすぐ隣に、黒い肌の人形を置いた。
トイレには、白鳥パンツを履いた人形が置いてあった。さちはそれを見つけると少し微笑み、鷲掴みにしてドールハウスから引っ張り出す。
「これが死んだら終わり」
そう呟いて、その人形を握りつぶした。
白鳥の人は、出たくても出られない舘の中で、飢えて死んでしまう。このドールハウスは窓もドアも開かない不良品だから、ぴったりのおはなしだ。
指の形にところどころ凹んだから、痩せたように見えると思うんだけど。
さちはそれをドールハウスに戻して、もう一度、満足そうに微笑んだ。予想通り、母の足音はさちの部屋の前で止まり、ノックが二回。ゆっくりとドアが開いた。
「さち、ご飯できた──」
母は、わたしの顔とドールハウスを交互に見て、顔を青くした。パクパクした口は魚のようで、わたしの側にしゃがみ込んで話し始めたときも、なるほど魚の生臭い臭いがした。
「ねえ、さち。これ、何?」
途切れ途切れに母は言った。その呼吸は荒く、彼女の息がさちの顔にかかる。コーヒーと生臭さが混じった、ドブ。その臭さにさちは顔を歪め、必死に目を合わせようとしてくる母を押しのけた。
「ねえ、なんでお人形さんにこんなことをしたの!?」
母はそう声を荒げながら、ドールハウスの中に腕をつっこみ、先の白鳥パンツを履いた人形を掴んだ。
その瞬間に駆け巡る、血がぐらぐらする感覚。
一階では、沸騰したやかんが鳴り始め、それと同時に、自分の領域に土足で入られたような不快感が、さちの中で爆発した。
「やめて!」
さちは母の腕につかみかかった。「なんでこんなことしたの!?」と言う彼女の腕に、さちは思い切り噛みついた。ぎゃっ、と叫んで、母は人形を取り落とした。
「痛いでしょう!」
母は、自分の腕についた歯形を見つめる。その後に、ドールハウスを一瞥した。さちは落ちた人形を取り上げ、母と一緒にドールハウスの中を見た。
そこには、何体もの人形が、絵の具を塗られて倒れていた。一階には二体。どちらも口に白い絵の具が塗られ、泡を吹いているような具合になっている。苦しそうに、両腕で自分の首を掴んでいる。
二階には四体。そのうち三体は赤い絵の具が塗られ、血まみれが表現されていた。手首が割れている、首にボールペンが刺さっている、後頭部がひしゃげ、目が飛び出ている。一つは黒く塗りつぶされ、原型が分からなくなっている──。
「さち、やっぱり、病院に行ってみようか」
母はそう言って、頬に涙を伝わせた。
やかんはまだ、鳴り続けていた。
*
さちと手を繋いで、病院へと向かった。
物心ついたころから、変だとは思っていたのだ。お肉を出せば、フォークで突き刺してはケラケラと笑うし、買い与えたぬいぐるみは、すぐに綿が引っ張り出されて、見るも無惨な姿になった──確か最初に喋った言葉は、「きえろ」だった。
決定的だったのは、さちが幼稚園に入ったときに起こした事件だった。クレヨンをクラスの男子と取り合いになったらしいのだが、さちは先生の制止を振りほどき、クレヨンを男子の口に全て詰め込んだのだ。
相手の子はクレヨンを飲み込み、何度も嘔吐を繰り返して入院した。
自分がクレヨンを使いたいからクレヨンを奪うのではなく、さちは相手を傷つけることを選んだ。この時だ。私が、この子を育てる自信を無くしたのは。
無表情で歩く、さちを見下ろした。もしお父さんがまだ生きてくれていたら……。協力して、さちを見守れたかもしれないのに。
ぼうっと夫のことを考えながら歩いていると、いつの間にか病院についていた。外観はコンクリートが主で無機質に見えるが、中に入ると照明も明るく、木の温もりが感じられるデザインだった。病院というよりは、幼稚園のようなデザインだ。窓も開放的だし、庭には緑がたくさんある。精神科だからか、居心地には相当の配慮をしているのかもしれない。
受付を済ませて、待合室に置いてあるソファーに座った。私たち以外に、患者はいないようだ。
隣に座っているさち。無表情で、壁に掛けられたテレビを眺めている。昔はどんなさちも可愛かったものだが、今はふと、何を考えているのか分からず、
──怖い。
と感じてしまう時がある。そんなとき、暗い井戸の奥でうずくまるような、どうしようもない気持ちになってしまう。
何か話しかけてみようか、と思ったとき、「倉科さ~ん、倉科さちさ~ん」と呼ばれた。「行こうか」とさちに言って、立ち上がった。しかし、看護師さんに止められる。
「お母さんとさちさん、一人ずつ先生と面談を行ってもらいます。まずはお母さんの方からお願いします。さちさんは私が見ておきますので、ご安心下さい」
もしかしたら、子供のストレスを考えての措置なのかもしれない。これが一般的だということだったので、素直に頷き、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
診療室に入ると、高齢の女性が座っていた。ここの院長なのだろう。普通の病院とは違い、どちらかというと小学校や中学校で行うような三者面談の形で、机を挟んで先生と座る。向かいに腰を下ろすと、いきなり質問が投げかけられた。
「受診されたのは初めて?」
柔らかな物言いだった。その一言で、緊張が解ける。そうです、と返すと、
「じゃあ、一つずつ質問していくわね」
と先生は言って、ボールペンを手に取った。
それからは、出生時のことや、これまでにかかった病気、身体がどう成長していったか、などなどを聞かれ、遂に家庭での様子を聞かれた。私は待ってましたと言わんばかりに、人形遊びで乱暴なことをすることや、少し脱線して幼稚園での事件について語った。
先生の眉が、ゆっくりと険しくなっていく。
「それは、ここの専門外かもしれないわねえ」
「それって、どういうことですか」
「この病院はね、一応心療内科ってことになってるの。心療内科っていうのは、心からくる身体の病気について取り扱ってる。だから、さちさんの場合は──精神科ね。暴力性が高いとのことで、実際に人を傷つけた例もあるっていうなら、かなり大きなところにかかった方がいいと思うわ」
「そうなんですか……」
「大丈夫よ。紹介状を書いておくから」
それに、と先生は続ける。
「せっかく来てくれたし、さちさんには簡単なテストを受けてもらおうと思ってます。それくらいなら、心療内科でも出来るしね」
「テストって?」
「とりあえず今日は、バウムテストをやってもらおうと思ってます」
銀縁メガネの奥から、先生は真っ直ぐな視線でこちらを見た。彼女は一枚の紙をこちらに差し出す。
「この紙に、実の付いた木を書いてもらうの。幹の太さとか、葉っぱや果実の付き方なんか、他にも線の太さや薄さ、紙のどこに木を描いたか、色んなところからその子の性格を覗けるというわけね」
「……はあ」
正直そんなもので性格が分かるかどうかは甚だ疑問だったが、どうやら私が知らないだけで伝統的な心理テストのようだったし、何もせずに帰るのも嫌だったので、さちに受けさせることにした。
「それじゃあ、さちさんと代わりましょうか。結果はすぐにお知らせしますんで」
お願いしますと答えて、診察室を後にした。待合室では、看護師とさちが並んで座っていた。どちらも違う方向をみて座っていたので、会話が弾むようなことはなかったようだ。もしかしたら、何も話さなかったのかもしれない。
看護師さんがこちらに気付くと、私に会釈をして、さちを診察室に連れて行った。「大丈夫だからね」とすれ違い様にさちの頭を撫でてみたが、反応はなかった。
十分ほどすると、さちがでてきた。入った時と何ら変わらない無表情だ。私の隣に座って、テレビをぼうっと見上げた。
看護師がこちらを手招く。私は立ち上がって、「ちょっと待っててね」とさちに言い残してから、もう一度診察室へと向かった。ドアを開けてくれていた看護師に会釈をして入ると、一枚の紙切れを眺め、顔を険しくしている先生が、頬杖をして座っていた。
「どうぞ」
そう言われたので正面に座ると、
「これは……ちょっと──言い方は悪いけど、危険かもしれない」
先生が低い声で言った。そのとき太陽に雲がかかったのか、診察室全体が暗く陰った。
「それってどういう……」
「この絵を見て」
先生は眺めていた絵をこちらに向けて差し出す。
「これが、さっきさちさんに描いてもらった木の絵ね」
A4ほどの紙を横にして、ど真ん中に木が描かれていた。一般的な木、ではあるが、なんだか線が太くなったり細くなったりして、適当に描かれた印象を受ける。そしてなによりも目を引くのが──。
「この、根っこの下に書かれてるのは──」
先生が唸る。
「これは正直、今までで一度も見たことないわね……」
木の根っこに書かれていたもの。それは、横たわる人間だった。おそらく、死体だろう。思わず、梶井基次郎の小説を思い出した。
──桜の樹の下には屍体が埋まっている。
カッターナイフを背筋に押し当てられるような感覚に襲われ、身震いした。なにも言わずに固まっている私を見て、先生が口を開いた。
「まず、木が少し真ん中より右上に書かれてる。これは生への対決を示す能動性を意味しているの。グリュンワルドの空間図式って言うんだけど──ごめんなさい、今のは忘れて」
「ってことは、どういうことなんですか」
「そうね、少なくともさちさんは、将来──引いては生きることに対して、絶望はしてないということになるかしらね」
「そうですか……」
正直安堵した。自殺願望みたいなものはないということらしい。むしろ、さちは積極的に生きることを望んでいる──それだけで、母親としては嬉しいことだった。問題は、どうやって生きようとしているのか、なのかもしれないが。
「次はそうね……」
先生が、今度は幹を指し示した。
「この幹、かなり太いわ」
確かに、葉っぱや実の量に対して、少し不格好なほどにずんぐりむっくりな木だ。ご神木のようになっている。
「幹が太いのは、自己意識が強い表れなの。自己主張が強くて感情的だから、理性よりもその場その場の感情で動いてしまうことが多いかもしれないわね。これは、話を聞いている中でのさちさんの特徴の重なる部分があると思う」
当たっている、と思った。クレヨンを相手の口に詰めたさち。その攻撃性なんかも、もしかしたらこの幹に表れているのかもしれないと思った。
「あとは線が太かったり細かったり──これは、感情が不安定だってことを表しているんだけど……情緒不安定なことはあるかしら?」
そう聞かれて、首を捻った。突然泣き出したり、笑い出したり、そんなことはあまりと思うけれど。
「うーん、ちょっとすぐには……」
「そう。あ、あと、実が少ないのは、欲求不満だったり、今の自分に満足していないっていう傾向があるわね……」
そして先生は、問題の部分にようやく触れた。
「そして、一番不思議なのは、根っこの部分よ」
「……そうですね」
木はある程度適当に書かれているのにも関わらず、土の部分はみっちりと黒く塗りつぶされ、根っこやその下に横たわる死体は、異様に書き込まれている。大きく開いた目と口に、思わず恐怖を覚えた。
「根っこから下が異様に書き込まれている点と、何と言ってもこの死体が気になるわね。さちさんがこの木を描いている大半の時間は、この根っこと死体を描くのに使われていたわ」
死体をよく見てみると、首に何か棒のようなものが刺さっていた。これも何か意味があるのだろうか……。
じっと絵を睨んでいると、先生が、「倉科さん」と強い口調で呼びかけてきた。ただならぬ気配を感じたので、ばっと顔を上げると、今までよりも一層険しい顔で先生がこちらを真っ直ぐ見据えていた。
「心して聞いて下さいね」
彼女はゆっくりと、力強く言葉を発する。
「始めに結論から言うべきでした。彼女は、精神病院に入院させるべきです。それも、早急に」
一瞬、先生の声が横滑りしている感覚がした。にゅういん、という言葉を何度か心の中で反復し、ようやく意味を掴んだ。
「入院って、そんな、この絵だけで──」
「確かに倉科さんの仰ることも分かりますが、一旦私見を言わせて下さい」
何も言わず、頷いた。そのとき、先生の口調が敬語にかわっていることに気付いた。
「根っこに異常な執着を見せるのは、強すぎるほどの攻撃性を示すと言われています。さちさんの描いたこの根っこは、木本体よりも大きく、そして複雑に描かれている。あらゆるところが交差し、先端が細く、かぎ爪型です。これらの特徴は、全て攻撃性というところに帰着します。まるで、さちさんはこのバウムテストの解釈方法を知っていて、攻撃性を持っていると、自分から示しているようにさえ感じます」
無意識に、呼吸が荒くなってくる。やはりさちは、私の手には負えない子なのだろうか。先生は眼鏡を押し上げて、さらに続けた。
「加えて、この死体です。正直前例がないのでどう解釈すればよいのか確かなことはお伝えできませんけれど、少なくともよい方向の解釈はできないと思います。もしかしたら、殺人欲求も──」
「それはありませんっ!」
思わず大きな声が出てしまった。もしかしたら外にも聞こえてしまったかもしれない。驚いている先生を見て、自分を恥じた。すみません、と小さな声がもれたけれど、少し長めの沈黙が降りただけだった。
「……えっとですね」
掠れた声で、先生が沈黙を静かに裂く。
「悪いことは言いません。すぐにでも入院させるべきだと私は考えます。信頼できる精神病院に紹介状を描きましょう。もう一度、そこで診断を受けてみてください。できるだけ、早く。明日でもいいです。事情はこちらから説明しておきますから」
「……はい、お願いします。色々、ありがとうございました」
そう言って、私は席を立った。見計らったかのように、看護師がドアを開けてくれた。待合室に座っているさちはやっぱり無表情で、今度はしっかりと、怖い、と思った。
*
バインダーを見て気付いた。
「……あら」
ボールペンが無くなっていた。もしかしたら、あの子が持って行っちゃったのかもしれない。まあ、今更嘆いても仕方ない。新しいのを出そう。
それにしても……奇妙な絵だった。何事も無ければいいのだけれど……。
「先生、診察お願いします」
「ああ、はいはい。あ、これ倉科さんの紹介状ね。お会計のときに渡しておいて」
「分かりました」
あまり考える暇も無く、次の患者がやってきた。この後にも、予約の案件がたくさん待っている。それらを淡々とこなしていくうちに、あの奇妙な絵は、少しずつ頭の中から遠ざかっていった。
*
さちは母と手を繋いで、帰り道を歩いていた。
「ねえさち」
「……なに?」
「さちはさ、他の人を傷つけようだなんて、考えたりしてないわよね。だってそれは、いけないことだもんね?」
「うん」
さちは無関心にそう頷き、ポケットの中に手を入れた。絵を描かされた時に使ったボーペンが、静かな冷たさを放っている。
刺しやすそう。
先の尖った形状が気に入ったのだろう。さちがそのボールペンを取ってくる理由としては、それだけで充分だった。
二人は公園に入った。走り回る近所の子供たちや、散歩をする人たち、ゲートボールに興じている老人たちなどで、ここはいつも賑わっている。そしてそれが、さちは嫌いだった。
しかし、今日は平日だからか、人が少ない。
「疲れたでしょう? 今日はさちの好きなハンバーグにしようね」
「うん。ありがとう」
さちがそう返したとき、彼女はべンチに横たわったホームレスに気付いた。追って、母も彼に気付く。二人がチラチラと見るのが気に入らなかったのか、ホームレスは起き上がり、二人の方に向かって、声を張り上げた。
「なんだ、女二人が手を繋いで歩いてよぉ、気持ち悪りぃ」
そしてホームレスの一声は、さちの中で何かを目覚めさせた。花開いた、の方が適切かもしれない。
五メートルを挟んで、さちは立ち止まった。その視線は鋭く、ホームレスに注がれている。
「ちょっと、さち、行きましょう」
母は早くここから離れたいのか、握ったさちの手を強く引いた。しかし、さちは微動だにしない。母がさらに強く手を引いたその瞬間、さちは手を振り払い、ホームレスの方へ駆け出した。いつの間にか彼女はボールペンをポケットから出し、逆手にそれを握り込んでいる。
「ちょっと、まち──」
母が言い終わらないうちに、ホームレスの首からは、赤い噴水が吹き出していた。傾いた夕日に照らされて、母の目には、彼岸花が咲いたように写った。
柔らかいものを刺す音が、夕暮れの公園に響いている。それは一定の間隔をあけて、何度も母親の鼓膜を揺さぶった。
「さち、止めなさい! もう止めて!」
白いブラウスを真っ赤に塗らし、何度も同じ動作を繰り返しているさちに向かって、母親は駆け出した。走りにくい靴を脱ぎ捨て、さちに追いすがる。
「止めて! 止め──」
数秒後、母親の首には、蜂の巣のような穴が出来ていた。さちはぴくぴくと痙攣している母親の指を見て笑い、ボールペンをポケットにしまった。
二人の死体からは血が流れ、砂場に大きなみずたまりを作っている。黒い血と赤い血が混じり合って、風に揺られ、地獄の入口のようになっていた。
「……うわあ!」
幼い声が、さちの耳を貫いた。木陰に身を隠しながらこちらを覗いていた少年は、さちと目が合うやいなや、くるりと身を反転させて駆け出した。
さちはもう一度ボールペンをポケットから取り出し、小さな背中を追った。暮れなずむ夕日は、この町をオレンジ色に染め、人々を、家々を、暮らしを、ついでに二つの死体を、健全に照らした。
六時のアナウンスが流れる頃、遂に、少年とさちの鬼ごっこは終わる。
鬼の勝ちだった。
*
「続いてのニュースです」
どこか機械的な声をした女性アナウンサーが、原稿を読み始めた。
「二十一日、大阪府寝屋川市にある田井西公園で、三名の遺体が発見されました。付近を通りかかった男性から『首から血を流した人が倒れている』と百十番通報があり、警察が現場に向かうと、この街に住む、倉科洋子さん(六十二)、持田繁さん(六十五)、佐藤翔くん(十一)が死亡しているのが発見されました。いずれも失血死であり、警察は、同公園のベンチに座っていた倉科さちさん(三十一)を現行犯逮捕したとのことです。倉科容疑者は事件について黙秘していますが、時折、『そしてみんないなくなればいい』と意味不明のことを叫んでいるとのことで──」
アナウンサーが手元の資料をめくった瞬間、カメラの裏側がざわついた。
「──え、緊急?」
帽子を深く被ったスタッフが素早くやってきて、彼女に新しい紙を渡した。その手には、鋭利なボールペンが握られている。
「えー、緊急速報です。先ほどお伝えした大阪府寝屋川市にある公園で、三名の遺体が発見されたニュースで、現行犯で逮捕されていた倉科さち容疑者が拘留所から脱走し、行方不明になっている模様です。そして──えっ……嘘……誰? ちょっと、来ないで──」
次の瞬間、映像がお花畑に切り替わった。
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