好きこそもののJAWSなれ!

        プロローグ


▼二千三十一年三月三十日・日曜日・午後零時十二分

暴動前日

某遊園地、某城、地下会議室にて


 城にはたいがい隠し扉というものがあって、その前でへんてこりんな呪文なんかを唱えると、扉が開き、地下への道に繋がることがよくある。彼らが集うこの城も例外ではなく、やけに仰々しい玉座の前で「レッツ、イマジネイチョン!」と叫ぶと、もれなく全員に秘密の道が開かれる。

 石造りの階段をひたすらに降りていくと、薄暗く、長い廊下が目の前に現れる。行く手に広がる闇に怖じ気づくことなく、愚直に突き当たりまで進むと、異様に年季の入った木の扉が現れるはずだ。楽しげな、甲高い笑い声が漏れてくると思うが、決してノックなしで入ってはいけない。なぜならそこは、獣たちが集う場所。今後の経営方針を決める、重要な会議を行っている最中だからである。

 ただし、今回は例外。少しだけ覗いてみることとしよう。

 扉を開けると、まず動物園のような臭いが鼻を貫く。慣れてくる頃に、ときおりキャラメル菓子の匂いが混ざるだろう。中央には巨大な鏡が嵌まった丸テーブル。それを囲むように、犬、アヒル、リス二匹。下座にはネズミとメスネズミが並んで座っており、入口である扉の傍らには、給仕係だろう、汚れたドレスの女が佇んでいる。彼女の金髪は枝毛が目立ち、その隙間から、怯えた青い瞳が覗いていることが分かる。

 彼らはこれから、会議のようである。

「ハハッ! お昼時に呼んじゃってごめんね! みんなチュロスを頬張りたかっただろうに、僕の一声で飛んできてくれるなんて、まったく、エレクトリカルな仲間すぎるよ!」

 ネズミは高らかにそう言うと、入口をちらっと見やり、

「おい、そこの汚らわしい女!」

 といきなりがなり立てた。ビクッと身体を震わせた給仕係の女は、思わず盆を取り落としてしまう。すみませんと謝る女に、ネズミは小さく舌打ちをした。

「茶だ。一分以内に、全員分用意しろ。僕から時計回りに、緑茶、麦茶、紅茶、烏龍茶、ほうじ茶、玄米茶。温度は六十、八十、七十、七十五、六十五、八十だ。行け!」

 マシンガンのように捲し立てたネズミの命令に、女は呆然と立ち尽くすことしかできない。その様子を鬱陶しそうに見つめているのは、どこか呆けた顔をしている犬だった。

「ねえ君、間違えたらぶち殺すよ。うちのボスは同じ事を二回言わない主義だ。突っ立ってても無駄だよ」

「さすが僕の犬だ。よく分かってる。聞こえたのか? 突っ立ってても無駄だと。……おい、あと五十秒しかないぞ?」

 ネズミの冷たい声色に、女はばっと扉を開け、会議室を飛び出していった。遠ざかる足音の後、鈍い音と短い悲鳴が鳴った。どうやら転んだらしい。

「変なガラスの靴を履いてるからだ。だから人間は嫌いなんだよ。バカで、ノロマで……まあ、だからこそ僕たちのお金になってくれてるんだけどさ。バカは操りやすいよね! ハハッ!」

 そしてネズミはメスネズミに小鳥のようなキスを一つして、白く大きな手袋を打ち鳴らした。

「さあ、本題に入ろう! 今日君たちに集まってもらったのは他でもない。明日実行する計画の話だ。端的に言うね」

 彼は少し間を開けて、ぐっと握りこぶしを作りながら言い放った。

「USJを、ぶっ壊す!」

あまりに突飛な提案に、ざわめきが広がっていく。皆が思い思いに小言を言い連ねる中、一人押し黙っていたアヒルが挙手し、発言権を求めた。「どうしたアヒル」というネズミの声を聞いて、彼はスッと立ち上がった。

「USJをぶっ壊す……。そんなこと、どうやって実行するんです? しかも今日だけの準備でですよ? 例えボスの魔力があったとしても、さすがにもう間に合わないのでは?」

「ハハッ! 君はこの僕を侮っているのかな?」

「いえ、そんなことは……」

 ネズミの鋭い眼光に、アヒルは思わず下を向く。

「いいかい? この僕がプランを用意せずに、そんな適当な発言をしているとでも? 一応念を押して言うよ──」

 ネズミは両手を組み、高い声を一転低くして言い放った。

「この計画は、確実に成功する」

 おお、というどよめきと、高速で乱打されるリス二匹の拍手が響く。メスネズミに至っては、その格好良さに涎を垂らしてはしゃいでいる。

「ダーリンかっこいいわ! その急に出る低い声。それがまさに、私を捕獲したのよ! どんなネズミ捕り機よりも強烈ね♡」

「ハハッ、ありがとう。僕はこの声を、『ハニーハント』と呼んでいるよ……。さあハニー、こっちにおいで──」

 ネズミがメスネズミにマジでキスする五秒前、入口のドアが開け放たれ、全員の視線が注がれた。

「す、すいませんっ、遅くなりましたっ!」

 そこには、息を切らし、目を泳がせる女が一人。びちゃびちゃに濡れたお盆を持つ腕が、あからさまに震えている。

「ご、ごめんなさい……。その、ちょっとこぼしちゃって……。それに──」

「一分十秒だ」

 ネズミが銃口のような黒い目を向ける。キッスを邪魔されたのが拍車をかけたのだろう、大きな丸い耳はヒクヒク痙攣を起こし、その表情には怒りがにじみ出していた。

「す、すみません……でも、動き出したときにはもうあと五十秒だったから──」

「言い訳をするな!」

 彼は感情を抑えつけるように空咳をして、低い声で続けた。

「お前は動きが緩慢で、そのくせろくに仕事をこなせなかった。それだけのことだ。それで給料を貰っているなんて、笑わせるな。冗談はその小汚い身なりだけにしろ。全く、人間を見てると反吐が出る」

 女は眼に涙を溜めて、深くうつむいた。

「お前には罰を与える。もちろん、その時間については時給などでない。茶はもういい。捨てておけ」

「一体、どんな罰を……」

「そうだな……」

 ネズミはニヤリと笑い、錆びた下水管のような歯を見せびらかした。

「アンダー・ザ・シーの刑だ」

 一斉に、どよめきが上がる。あまりにも非情な宣告に、女は膝から崩れ落ちた。「いやああぁぁ!!」と泣きじゃくる彼女を、取り巻きの獣たちが見つめている。その視線には、一種の同情も混じっているようだった。

「おいリス共、人魚に連絡して刑執行の準備をさせろ。ついでにそいつもつまみ出せ」

「アイアイサー!!」

 リス二匹はぴょんと椅子から降りて、女の両腕をつかみ、ずるずると扉の外までひきづり出していった。遠ざかってゆく女の泣き声が聞こえなくなると同時に、ネズミはパンと手を叩いた。

「みんなごめん、お騒がせしたね。気を取り直して、計画を詳しく話していくよ。あ、誰か後でリスにも説明しておいてね」

 彼はそう言って、指を鳴らした。すると、机の鏡が光り出し、USJの地図が映し出された。

「さあみんな、集中して」


 ネズミによる説明が終わると、皆納得したような顔で深く頷いている。アヒルはクチバシを手羽先で擦りながら、やたら感心していた。

「なるほど。外からではなく、内から……。これなら、私たちの仕業だとばれることはないな。いやあ、まさかボスにそんな力があるとは、恐れ入りました」

「うん。最近筋トレし始めてね。そしたらこんな力を手に入れられたんだ! ハニーとの夜のエレクトリカルパレードもはかどるし、いいことずくめ。みんなもやってみるといいよ!」

「やだダーリンったら♡ エレクトリカルパレードは元々夜じゃない! もうっ!」

 メスネズミはそう言いながら、人差し指でネズミの胸筋をつつき回している。番いがいないからだろうか、犬は少しむすっとした顔をして、話を無理矢理引き戻した。

「とにかくこれで、日本のテーマパーク業界は、僕たちの独占市場となるわけだよね」

「そうさ! USJが潰れるのが待ち遠しいよ!」

 ネズミは醜く笑い、手を組み、そしてテニスボール大の眼を大きく開く。

「待ってろUSJ。お前はもう、袋のネズミだ……」


        *


       はじめに


 この本を執筆している今からおよそ四ヶ月前、かの有名なテーマパークUSJで、その事件は起こった。読者の皆さんも、記憶に新しいことと思う。実際、この本を手に取った方の多くは、身内にこの事件の被害者がいらっしゃることであろう。まず、この場を借りて、ご冥福をお祈り申し上げたい。

 事件発生当時は、テレビ欄が全てこのニュースで埋め尽くされるほどだったから、概要を全く知らないという読者はほぼ皆無に等しいはずだが、一応簡単に説明しておこう。

 半年前、二千三十一年四月一日午前十二時からのおよそ一時間で、USJは血と悲鳴で埋め尽くされた。原因は全くもって不明。にも関わらず、当日の来場者の約八割である五万人が命を落とした。当然USJは閉園となり、今は瓦礫の山となっている。

 不可解な点は、その一時間のみ、園内の電子機器系統が全て停止していたというところにある。監視カメラはもちろん、スマートフォンやデジタルカメラなども使用不可能だったから、誰も園外に助けを呼べず、惨状を記録することも出来なかった。従って、情報は当日USJにいた人間の証言のみということになるわけだが、生き残った一万人ほどの言動は荒唐無稽で、とても信じられるものではなかった。

 以下は、その日事件現場から奇跡的に逃げ切ったキャストの証言である。


──今でもあれは夢だったんじゃないかと思っています。私はジュラシックパークの担当で、その日もライドに乗るゲスト(お客さんの意)の誘導をしていました。午前の仕事もあらかた終わって、さあお昼休憩に、と思った瞬間、全身が揺れるほどの爆音が耳を打ったんです。その声はアトラクションの奥から聞こえてきたので、恐竜の鳴き声だということはすぐに分かりました。そして、これは尋常じゃない事態だと、本能的に思ったんです。でもゲストの皆さんは演出の一部だと思ったようで、私が逃げるように呼びかけても全然動いてはくれませんでした。やっと緊急事態だと分かった時にはもう遅くて……。あんな光景、二度と思い出したくありません……。

 ちょっと、今恐竜の鳴き声しませんでした? ほら、そこから! ……あなたもしかして、鳴き真似して私をからかってるの!? あなたも、子どもの泣き声の真似して、どういうつもり!? やめて! 近づかないで! ……うあ、食べ、食べられる!! い、いやああぁぁぁ!!!──


 彼女はその後、PTSDを患っていることが判明した。

 このように生き残った方々の証言はかなり曖昧で、大部分が園内にある作り物が動き出すという筋書きであった。学者の間では集団幻覚ではないかという見方が有力のようであるが、決してそうではない。私が胸を張って断言しよう。

 私はその日、JAWSのクルー(従業員)として、事件現場にいた。いわば、生き残りの一人なのである。だからこそ確実に言える。彼らの証言は、全くもって嘘ではない。

 ちなみに先ほどの証言を語ってくれた人物は、私の親友であり、命の恩人でもある。彼女がいなければ、私は確実に逃げ遅れ、この本を執筆することもなかったであろう。

 当日何があったのか。それを細かに伝えるため、私は今筆を執っている。本書では、JAWSエリアから始まり、私たちが脱出するまでの一部始終を小説形式で綴っていこうと思う。この本が、真相解明の手がかりになってくれることを、切に願っている。

 本編に入る前に、注意点を述べさせていただく。くれぐれも、エンターテイメントとして読まないでほしい。今から語ることは、全て実際に起こった出来事であり、登場する人物もまた、実際にその場にいた人物である。小説に出てくるからといって、決して彼らの命を軽くあしらってはいけない。是非とも彼らに敬意をもって、読書に取り組んで頂きたい。


 それでは、一体あの日何が起こっていたのか、過去を遡る旅を始めさせていただきます。心のセーフティーバーをぐーっと下ろし、決して椅子から手足は出さないようにしてください。貴重品類や、サングラスなど飛ばされやすいものは、お持ちのバックなどに入れて足元に置いていただくか、ロッカーの中におしまい下さい。視力が悪く、眼鏡がないと読書できないという方に関しては、着用を認めております。また安全のため、読書中、カメラや携帯電話のご使用はお止め下さい。読み飛ばすなどの行為も厳禁とさせていただいております。

 それじゃあ読者の皆さん、絶叫渦巻くジェノサイドの旅へ、いってらっしゃ~い!


        *


        撮影スポットにて①


 JAWSエリアで最初に異変が起こったのは、USJの中でも指折りのフォトスポットだった。このエリアは、かの有名なスティーブン・スピルバーグ監督の映画である『JAWS』の舞台、アミティを忠実に再現したエリアとなっている。

 JAWS関連のお土産が買える建物の入口近くでは、吊り下げられている巨大なサメの模型を拝むことができる。口を大きく開いたそのサメは、体長が八メートルにも及び、迫力は抜群。今にも動き出しそうなリアルさで、来場した人々を虜にしている。

 その大きな口の中に頭を入れて、食べられる直前のスリルを疑似体験する。心配性の私からすれば、あまり理解出来ないコンセプトだった。

──もし、その口が閉じたら。

 そんな杞憂が杞憂でなくなってしまうなんて、考えたこともなかった。

 

 その日も、そのサメの模型の前にはある程度の列が出来ていた。しかし、一つだけ違うことがある。それは──。

「サメに食べられる前に、拙者がみこりんを食べちゃうでござる~♡」

「いやん怖~い! でも、たっくんになら食べられてもいいかも~♡」

 銀縁メガネとチェック柄、おまけにシャツインという、この世の地獄のようなペアルックを図ったカップルが、キャピキャピとサメの口に頭を突っ込んでいた。

 かれこれ十分。彼らは幾度となく自撮りをし、その合間にいちゃつくというサイクルを繰り返していた。

「ねえ~、全然可愛く撮れてないよ~」

 みこりんと呼ばれた女性は、頬を膨らまし、ぷりぷりと怒っている。

「もっとキュートに撮ってくれないと、もうおてて繋いであげないよ? ミコリン星に帰っちゃうんだからね!」

「え~十分可愛く撮れてますよ~! それに実家に帰っちゃうなんて、そんなこと言わないでください! たっくん、さみしいさみしいになっちゃうでござるよ~」

 目に涙を溜めたたっくんを見て、みこりんは「ごめんね~帰らない帰らない♡ ずっとたっくんをみこりんの守り人として侍らすからね♡」と、たっくんの頭をなでなでした。

 こんなやりとりから見て分かるように、この二人はとても痛々しいカップルである。二人だけの世界観を守るためには、他人に迷惑をかけようが、世界の片隅で食事にありつけない子供が餓死しようが、こうやって私のノンフィクション小説に許可無く出演させられていようが、全く気にしない。

 たっくんは涙を拭いて、指をピーンと一本伸ばした。

「じゃあじゃあ、拙者と唇を重ね合わせる瞬間を激写でどうでしょう? みこりんは、キス顔がいっちばんかわいいんですから!」

「いやん、たっくんエッチ! お仕置きに、ミコリンビーム!」

 女は完全にウルトラマンのポーズをとり、たっくんのでぶっ腹に向かってビームを発射した。もちろんこのビームは、二人にしか見えない。

「うわ~。ミコリンビームが強すぎて、ますますみこりんが好きになっちゃうでござる~♡ 好きすぎて死ぬといっても過言ではな~い♡」

「いや過言だろw 過言過ぎるだろw 過言の『過』と過ぎるの『過』が被って──」

 二人にしか分からないノリを割愛したところで、ピリッとした空気が張り詰めた。順番待ちの列の中、強面な中年が、二人を睨みつけている。

 さて、ここにいる人間はまだ気付いていない。二人の頭上で、サメの真っ黒な目が、ギロリと動き始めたのを。

 そして第一の被害者は、このバカップルであった。


        アトラクションにて①


「それでは皆さん、船乗り場のみんなに手を振ってから出発しましょう! いってきま~す!」

 そう言って、私は客に気付かれないよう、小さく溜め息をついた。全く、船長という仕事はどうしても疲れる。調子はずれの汽笛が、かき消してくれているといいのだが。

 私の仕事は、いつもこのセリフから始まる。雨の日も、風の日も、雪の日も、メイクが決まらない日も、指がささくれてイライラする日も、彼氏にラインであっけなく振られた日も、父親の浮気が発覚して、「今夜家族会議するから、早めに帰ってきて」と深刻な顔をした母親に告げられた日も、バイトに向かう電車の中で、隣に座ってきた汗臭い親父に、「君、痴漢するにも及ばない顔だね」と囁かれた日も(これが何の罪にも当たらないなんて、この国の法律は狂っている)、ハロウィーン・ホラー・ナイトの期間中、バイト帰りに疲れた顔でハリウッドエリアを歩いていたら、ゾンビと間違えられてゲストに甲高い悲鳴を上げられた後、ものすごい勢いで謝罪された翌日のシフトも──並べようと思えば無限に並べられるのだが、今日はこのへんで勘弁してやろう──私は元気に、このセリフを叫んでいる。

 はて、いい思い出がないのはなぜだろうとも思うが、悪い思い出は心に残りやすいということで納得しておこう。私はそんな日々を乗り越えるため、日常をルーティーン化し、出来るだけ感情の起伏なく過ごすということに我が人生のエネルギーの大半を使っている。もちろん、このアルバイトもそうだ。

 まずは大げさに手を振って、大きな笑顔を作る。そしてそのまま、客のリアクションを観察する。ニコニコしてれば、楽な客。疲れ切った顔をしていると、何かと面倒くさい。

 ああ、例えばあんな奴だ。

「すごいすごぉ~い! ねえお母さん、あれ見てよ~!」

「ちょっと三太、騒がないの! 水に落ちたらどうするのよ! 大人しく座ってなさい! ほら、都こんぶあげるから!」

「ふん、都こんぶごときで僕を躾けられると勘違いしないでよね」

 三太と呼ばれたあの男の子はいい。問題は彼の母親だ。見よ、あの隈を。見よ、あのへにゃへにゃなカチューシャを。きっと一日中子どもと歩かされて、気が立っているのだ。ああいう空気を作り出されると、とても困る。こっちのルーティーンが崩れる原因にもなりかねない。

 こういうときに使う、鉄板ネタがある。

「みなさんこんにちは! アミティ・ハーバーツアーへようこそ! 私はこの船の船長を務めさせていただく、鮫島と申します! よろしくおねがいしまぁぁ~~す!!」

 ゲストがざわつく。そうだろうそうだろう。船長の名字にサメが入っているなんて、面白すぎるもんな。まあ、嘘なんだけど。

「驚きましたか? ほんとにほんとに、鮫島って言うんですよ~!」

 ゲストの笑い声が響いた。重ねて言うが、嘘である。

 高橋めぐみ。これが、私の本当の名前だ。普通すぎて、私は逆キラキラネームと呼んでいる。大学に入学すると同時にこのUSJのバイトに応募をし、晴れて面接には受かったものの、さして興味のなかったJAWSの船長に任命されてしまった。拒否権などない。雇われる側は、いつだって奴隷なのだ。

 本当は、ジュラシックパークで働きたかった。子どもの頃に映画を見たその時から、私の夢は『ジュラシックパークになること』だった。そう、私はジュラシックパークそのものになりたい。そんな崇高な夢の第一歩として、私はUSJのクルーを志したのである。

 それがどうだ、今ではJAWSで三年目。私の夢は、遠ざかっていくばかりである。

 ムカつくのは、一緒に面接を受けた奴がジュラシックパークで働いていることだ。彼女の名は、ジュラシック・T・ダイナ。信じられるだろうか。大事なことなのでもう一度言う。ジュラシック・T・ダイナだ。

 アメリカ出身で、双子の長女。五歳の時に来日したので、日本語はペラペラ。だがそんなことはどうでもいい。この逆キラキラネームを授かりし私からすれば、彼女が憎くて憎くて仕方ない。ジュラシック。ダイナソーのダイナ。挙げ句の果てにはTレックスのT。くそ、勝てるところが一つも無い。せめて、せめてTバックのTだったなら。

 ああ、ジュラシックパークで働けるなら、高橋トリケラトプスとかで良かったのに。高橋パキケファロサウルスもいいな。なぜ、なぜ私の親はめぐみだなんてくそしょうもない名前を……。

 と、全国のめぐみさんに失礼を振りまいたところで、意識が現実へ引き戻された。理由は、私の目の前に鎮座している、最前列の高齢者ゲストだ──と、ここで彼の説明をする前に言っておこう。私のルーティーンはここで悉く崩され、もう二度と軌道修正することはない。

 弊衣蓬髪という言葉がしっくりくる彼は、素早い動きでぬるっと立ち上がり、こう叫んだ。

「わしはドラゴンと仲がいい! とってもとってもだ!」

 何を言い出すのかと思えば、それはなんとも意味不明な自己紹介だった。

 なぜ高齢者は、こうも腹から声が出るのか。これが戦争を経験してきたバイタリティーだとでもいうのか──などと冷静な分析を脳内でしているのとは裏腹に、身体は正直だった。中年以上の男性の声を聞くと、どうも膝が震えてしまう。おそらく、電車の中での痴漢(?)行為に端を発してるに違いない。

 他のゲストにも、ピリリとした緊張感が張り詰めた。船の上。逃げ場がないということだけで、危機感は何倍にも跳ね上がるらしい。

「わしはドラゴンと仲がいい! 特別な人間じゃ! お前らは凡人か!? 凡人なのか!?」

 軌道を回る惑星のように淡々と進んでいく船の上で、高齢者は(以後はドラゴンじじいと呼ぶことにする)、なおも支離滅裂な言動を繰り返し、アトラクションの雰囲気を台無しにしていた。

 ドラゴンジジイのすぐ後ろに座っていた先ほどの母親は、「見ちゃいけません」と、三太君の目を塞いでいる。さっきは気付かなかったが、彼女のお腹は、大きく膨れていた。どうやら、妊娠しているらしい。

 それを見て、私のどこかでスイッチが入った。やる気が無い私だって、腐っても船長だ。この場を取り持ち、客を楽しませて帰らせる。時給千三百円と引き換えに、私はこの使命を遂行する義務があるのだ!

「あ、あーっと、お爺さんはドラゴンと仲がいいんですねえ! う、羨ましいなあ! どうせなら、サメと仲がよかったらちょうど良かったのになあ! あ、まあサメは映画の世界の話だから、出ないんですけどね!」

「うるさい小娘!」

 一瞬で出鼻をくじかれ、心に灯った火種が、じゅわっと消え去った。くそう、『サメは出ない』という最大のフラグを立てつつもお爺さんを宥める、良い感じのセリフだったはずなのに。

 あわあわしている私を罵るように、ドラゴンじじいは口の端に唾液を溜めて、早口で捲し立てた。

「サメごときと仲良くなってどうする! ドラゴンこそ至高じゃ! わしは……わしはドラゴンと仲がいいんじゃ! それの何が悪い!」

 駄目だ。これはおそらく話が通じないタイプだ。これ以上、なんと言えばいいものか。

 とそのとき、三太君は母親の手を振り払い、その小さい身体を立ち上がらせた。

「ねえお爺さん」

 急に呼ばれたので狼狽えたか、ドラゴンじじい、かくかくした動きで振り返る。

「な、なんじゃこわっぱ。お前はドラゴンと仲がいいのか?」

「ちょっと止めなさい」と小声で三太君の袖を引っ張る母親を無視して、彼は追撃するように言葉を発した。

「お爺さんさあ、船長の鮫島さんが困ってるじゃん。人が困っちゃうまで騒いじゃ駄目なんだよ。義務教育で教わらなかったの? そんなことも出来ないなら、ドラゴンに嫌われちゃうよ。今のお爺さんは、サメ以下──いや、こんぶ以下だね」

 堂々と、それでいて淡々と。私には出来なかったそれが、彼には出来ていた。ドラゴンじじいは目を白黒させて、わなわなと震えだした。三太君はさらに続ける。

「楽しみにしてたアトラクションを、こんな台無しにしてさ。何? 楽しむなってこと? お前みたいなガキは一生息抜きせずに勉強だけして、息詰まって死ねばいいって言ってるんだ? 僕が全部悪いんだね。それで僕のお父さんとお母さんにも精神的なダメージを与えて、『この子を守ってやれなかった』って思わせて、自殺に追い込もうと思ってるんだ。はいはい。僕たち家族はみんな死ねばいいんですね。老い先短いだろうけど、僕らの人生の分まで頑張ってくださいね」

 七、八年くらい前に流行っただろうか、三太君はお母さんヒス構文を駆使して、さらにドラゴンじじいに追撃を加えた。この構文を聞くと思い出す。私の母親もこんなことを言っていた。だからお父さんは浮気をしたのだ。そうに違いない。

 ドラゴンジジイは完全に狼狽えて、「そ、そんなことまで言ってないぞ」とあたふたした。三太君が、「じゃあ黙ってくれない?」と言うと、

「わ、分かった。ドラゴンに嫌われたくないし、わしは黙る! 黙るぞ!」

 ドラゴンジジイはそう返答して、なぜか水の中へとダイブしていった。

あまりにも綺麗な飛び込みだった。飛び散る水しぶきは、燦々と煌めく陽光に照らされ、まるで小さな水の妖精たちが陽気なダンスを舞っているかのように──はっ!

「ちょ、ちょっと!」

 水に飛び込むなど、何て奇妙な奴だ。変な比喩などしている場合ではない。ゲストが水に落ちたとなれば、大問題である。

 私の焦りなどつゆ知らず、まさかの背泳ぎで、船が進んできた方向とは逆に、ドラゴンじじいはすいすい泳いでいった。見惚れるほど綺麗な背泳ぎだった。きっと六文銭など持っていなくとも、彼ならば悠々と三途の川を渡りきることだろう。

と、ここで、順番待ちをしているお客さんを想像して欲しい。アトラクションを楽しみにしてワクワクしながら列に並んでいると、船が行く方向から、背泳ぎで爺さんが泳いでくるのである。「わしはドラゴンと仲がいい!」と叫びながらだ。

 もっとワクワクしてしまうではないか。

 私はそんな思考を瞬時におこない、上司に報告はしないという英断を下した。楽しければ全てよし。今船上にいる客たちも、三太君に賞賛の拍手を送っている。よし、全て無かったことにしよう。ふう、これで、やっとルーティーンを取り戻せ──。

『──メーデーメーデー、緊急事態発生! こちらアミティースリー。救援を頼む! 何かが……何かが、ボートの下に……くそ、襲ってきた! うわああぁぁぁ!!──』

 手元の通信機から、いつもの音声が聞こえてきた。やばい! もうそんなところまで進んでいるのか!? 

 焦りながら周りを見渡すと、ちょうど視界が暗くなる。木製の大きな門をくぐるところだった。あと数秒の間に、沈没した船が見えてしまう。

「え、ちょ、は、はいっ! だだ、大丈夫ですか!?」

 焦りで、口が上手く回らない。じじいの余韻で、通信機を持つ手が震える。そしてこの時、私は悟った。

──ルーティーン化しすぎた。

 頭の中が真っ白である。毎日無心でやり過ぎたからだろう、ドラゴンじじいのようなイレギュラーが起こると、もう立て直せない身体になってしまった。次のセリフが出てこずに固まっている私の横を、いつものセリフが通り過ぎてゆく。

『こちらも受信した。君たちのすぐ近くからだ。航行中のアミティースリーからの遭難信号らしい。その付近を捜索してくれ。こちらはブロディ所長に連絡を取る』

 ああ、喋らなければならないのに、どうしても言葉が出てこない。

 とうとう船は、沈没しているアミティースリーの横を通り過ぎた。くそ、やばい。次は、次のセリフはなんだ? と、そのとき。

「鮫島さん! 頑張って!」

 はっと顔を上げると、三太君が声を張り上げてくれていた。母親はニコニコとこちらを眺め、他のお客さんに至っては拍手をしてくれていた。

 不意に人の温かさに触れ、涙がこみ上げてくる。三年目だというのに、なんてざまだ。

 ぐいっと目を袖で拭って、「ありがとうございます!」と腹から声を出した。視界がクリアになり、すっと冷静さが戻ってくる。ありがとう少年。なんとか続けられそうだよ。

 さあ、気を取り直していこう。次は、サメがやってくる。


         撮影スポットにて②


 筆者がアトラクションにて涙を拭ったちょうどその頃、バカップルが占領する撮影スポットでは、とうとう順番待ちをしているゲストの、堪忍袋の緒が切れた。強面の中年がサングラスを押し上げ、鬼の形相で叫び散らす。

「おいお前ら、いつまで撮っとんじゃボケ! はよどかんかい!」

 意外とここで根性を見せるのが、オタクというものである。たっくんは怯みながらも、果敢に反撃の姿勢を示した。

「な、なんなんですか? 拙者がみこりんと愛を育もうとしている時に、邪魔しないで下さいよ! 大人なんだから、空気くらい読んで下さいよ!」

「なんやとボケ! 空気読むのはどっちじゃ! 何分経ってると思てんねん!」

 一方みこりんはわざとらしく身体を竦め、たっくんの腹に顔を寄せていた。おまけとでも言うように、中年に向かって指を指している。

「たっく~ん、あの人怖いよ~♡ やっつけちゃって~♡」

「ふん、あんなこの世の底辺を這っているような奴、拙者の左足小指だけでコテンパンですよ」

 なんやとボケ! という怒号を、みこりんの奇声が遮った。

「キャー! かっこいいたっくん!──ん?」

 みこりんの顔が、あからさまに歪む。彼女はたっくんから手を離し、体制を少し低くしながら上を見た。その視線の先には、大きく開かれたサメの口がある。心なしか、鋭い歯がしっとりと濡れているような──。

「ねえ、いま、生ぬるい風が来なかった? なんか臭うし……」

「ええ? そうですかね? みこりんの吐息かと……」

「ばか! 私の息はこんな臭く──」

 次の瞬間、カップルの頭部が消えた。

 吹き出す血飛沫。降り出す血の雨。カップルは手足を痙攣させながら、後は人形のように崩れ落ちた。「ドチャッ」という音が、二つ鳴った。

 彼らは最後まで他のゲストに迷惑を掛けたことになる。長いことみんなを待たせた上に、服を血で汚し、おまけに首の断面を律儀にゲストの方へ向けて倒れたのだ。

 その甲斐あってか、すぐにゲストの甲高い悲鳴が上がる。それを合図にして、ゲスト達は逃げだし、サメはそれを止めようとするかのようにもがきだした。

 倒れた支柱に身体を潰される者。振り回された尾に当たり、首の骨を折って天国まで吹き飛ばされる者。死体を見て失神したところを、別の客に踏みつけられて上手い具合に絶命する者。どんな死に方をしても、その瞬間、彼らは五万という数字の中に埋もれてしまう。

 サメは一通りの惨殺を繰り広げると、怪物級の体躯を捻ってアトラクションへと突進していった。木造の建物を無慈悲に破壊し、破壊し、破壊し、やがてドバンと水に落ちた音がして──静かになった。

 残ったのは、夥しい量の死体と血だまり、もはやただの瓦礫になった建物、様子を見に来たキャストのみであった。血だまりに、彼らの吐瀉物が追加された。

 そして第二の被害者は、皆さんお察しの通り、ちょうどその頃にアトラクションを楽しんでいた運の悪い十名のゲストと、船長(筆者)の、計十一名である。

「はじめに」を読んで頂いた読者諸君ならもうお分かりだろう。このJAWSエリアで起きた事件を皮切りとして、ジュラシックパーク、ハリーポッターエリア、果てはスーパーニンテンドーワールドまで、大量殺戮が順次開始されていくことを。


         アトラクションにて②


 私は今、困惑している。

 つい数秒前に涙を拭い、新しく生まれ変わったような気持ちで意気揚々と前を向いたばかりだったはずなのだが。

「……えーっと、あれ?」

 これから現れる予定のサメを指さすために伸ばした腕は、頼りなくフラフラと宙をさまよっていた。そう、サメが来ないのである。水面は静かに凪いで、なんなら鏡の如く船の影を映し出している。

『アミティシックス、もう一度頼む──落ち着け、ライフルを使うんだ』

 あらかじめシステムされた音声が、ただ流れていった。サメがいない、というよりは、予めセットされた模型が動いていないのである。これはおそらく、故障だろう。

 これにはどう対応すればいいんだと脳内会議をしていると、突然、アトラクションの向こう側で、人々の叫ぶ声が聞こえてきた。一瞬ドラゴンじじいかと思ったが、どうも少しばかり方向が違う。ジェットコースターだろうか。いつもは聞こえないのに──。

 客の方を向くと、皆忙しなくキョロキョロしている。なんだ? と思って、やっと気付いた。

船が止まっていた。

その時、私たちの少し前で水しぶきが上がった。ライフルを撃つ予定だった場所だ。私はライフルを持っていないのに、水は律儀にライフルの弾を飲み込んだのだった。

「ねえ、止まっちゃったよ?」「大丈夫、船長さんがなんとかしてくれるよ」

 どうやらみんな一度は乗ったことがあるようだ。ここで停止するというシナリオはないことを知っているらしい。私は動揺する心を宥めながら、ゆっくりと口を開いた。

「だ、大丈夫です皆さん。ちょっと船が停まってしまったみたいですね。サメが来ていたら大変でしたが、幸い今日はいません! 本部と連絡を取るので、少々お待ちくださいね!」

 くるっとゲストに背を向けて、もう一つの、正規の本部へと連絡を取る。世界観を壊さないために、電話ではなく、トランシーバーになっている。

「──こちら三番船。船が停まってしまいました。対応をお願いします。どうぞ」

 そう言ったものの、トランシーバーからは雑音しか聞こえてこない。誰もいないのか? そんな訳ないだろ──。

突然、私たちが通ってきた門の向こうから、すなわち、スタート地点の船乗り場から、凄まじい轟音が響いてきた。と同時に、ゲストたちの悲鳴が上がる。何かが爆発した? いや、木をなぎ倒すような音だ。

ザザーーッ。雑音の向こうから、人の声の予感がした。

『──高橋、逃げろ! そっちにサメが行くぞ!』

 班長の声だった。後ろからは、人々のざわめきが聞こえる。この声音、尋常ではない。決して嘘を言っているような声ではない。まさか、本当に?

 不安な顔を浮かべているゲストたちの肩越し、その奥に、大きな背びれが見えた。水面を切り裂きながら、こちらに向かってきている。

──本物だ。

 それは確信に近かった。作り物ではどうやっても出せない、生物特有の光沢がある。

 緊張感を煽る、あの音楽が頭の中で響き渡った。私は咄嗟に腹に力を入れ、必死でゲストたちに呼びかけた。

「皆さん、サメが後ろから来ています! ぶつかってきたら、振り落とされるかもしれません。どこかに捕まって、身構えて下さい!」

 私の一声でゲストたちは振り返り、不安の表情を驚愕へと変えた。「本物だ!」という叫び声が、船上のデシベルを上昇させていく。口を動かしながら指を差す者。前の椅子に捕まり、必死に身を縮込ませる者。唖然とした表情を浮かべ、突っ立っている者。もうここに、秩序なんてものはない。

「大丈夫、大丈夫よ三太。お母さんが守ってあげるからね」

 背びれが近づく。距離は四、五メートルといったところか。動悸が速まってきた。

「こっちに向かってます。皆さん、頭を下げて!」

 あと一メートル。その瞬間、水面から、この世のものとは思えないほどの大口が飛びかかった。その上には、無表情な黒い目玉が、二つ乗っている。スローモーションになる視界の中で私は、サメの口内をまじまじと見た。地獄の入口だ。

ゲストたちの絶叫と共に、とてつもない衝撃が船を襲う。この時思い当たった。頭を下げても無意味だ。

 ふと目を開けると、サメは船体の後部に齧り付いていた。そのまま首を振り、水中へとひきづり込んでいく。船が傾き、前方が宙に浮いた。と同時に、後方が水に沈む。

「うわああああ、助けてぇ!」

 一番後部に座っていたヤンキーっぽい金髪男及びその他四名ほどのゲストが、水中に放り出されようとしていた。このまま落ちたら、サメの餌になってしまう。

 でも、私は動けなかった。振り落とされないように、必死にしがみつくことしか出来なかった。そのくせ、私の両眼は、いやらしいほど冷静沈着に、この惨劇を捉えている。

 まず、ヤンキーが水にずり落ちていった。彼は隣にいた女学生の服を掴み、彼女も道連れにしていった。そして彼女の彼氏であろう学生が、助けようと手を伸ばす。ヤンキーは女学生を沈め、彼氏の腕を乱暴に掴み、彼もバランスを崩して一緒に落ちていった。それとは関係ないところで、あとの二名はぽちゃんと落ちた。

 私は見た。底なし沼のようなサメの目が、水の中でもがいているゲストたちを睨んだのを。そして後は、目をつむった。サメが船を放したのか、衝撃は収まる。が、水を激しく打つ音だけは鳴り止まない。水しぶきの中から、人がもがき苦しむ音が途切れ途切れ聞こえてくる。

 私は必死に耳を塞いだ。それでも指と指の間を縫って、彼らの断末魔が鼓膜を揺らす。

──助けてくれ。お前はそこで何をしてるんだ?

 彼らが飲み込んだであろう水の味が、噛みつかれたのであろう痛みが、その叫びを通して私の中にも広がってくる。一分、三十分、一時間、十時間──。

 永遠にも思える時間の後、恐る恐る目を開けると、後部に座っていた五人ほどの姿が無くなっており、そこにはもはや船とは呼べないような何かの鉄の残骸だけが残っていた。その先に広がるのは、赤い水と、その中で悠々と泳ぐ大きなヒレだった。赤い絵の具か、プランクトンか、夕焼けに染まっているのか──人の血だとは、とても認識したくない。

 明らかに人の残骸と思えるようなものを愚弄するかのように、サメのヒレがくるくるとその中を泳ぎ回っている。思わず吐き気がこみ上げてきて、朝に食べたおにぎりを吐いた。海苔らしきものが喉にへばりついて、何度も何度もえずいた。

 吐き気がやっと収まり、ゆっくりと外に目を向けると、満足したのだろうか、サメはもういなくなっていた。束の間安堵が身体を支配するも、空になった後部の座席を見て、また吐きそうになった。

「ちょっとこれ、どうなってるのよお!」

 それまでは大人しく座っていたおばさんも、耐えかねて声を上げる。ヒョウ柄の服と顔一面は、赤く濡れていた。私も今、こんな顔なのだろうか。

「あんた船長なんでしょ!? どうにかしなさいよ! 今のうちに船動かして、早く避難してよ!」

 おばさんは声を荒げる。それはそうだろう。こんな状況だ。パニックにならない方がどうかしている。

 私は切れた息を整えながら、なんとかおばさんを宥めようとした。

「そうしたいのはやまやまなんですが……エンジンとかじゃなくて、レールの上を電気で動いてるので、私は何も出来ないんです」

 それを聞いて、はぁ……と、おばさんは大きく溜め息をついた。

「それじゃあ、警察よ警察! こんなに人が死んだのよ!? 早く通報しなきゃ! 私は携帯落としちゃったから、誰か通報してよ!」

「あ、私がします。ちょっと待って下さい」

 三太君の母親が声を上げた。ドラゴンじじいを撃退したあの時の雄姿はどこへやら、震えてうずくまっている三太君の背中を撫でながら、彼女はスマホをバックから取り出した。耳に当て、数秒後、彼女の顔が歪んだ。

「あれ? ここ、圏外になってますね……」

 圏外? そんなはずはない。USJは園内に基地局があるから、圏外になどなるはずがないのだ。電波が何かに妨害されているのか……?

「もう、じゃあどうするのよ! あんた、さっきから何にもしないで! それでも船長!? 上と連絡取りなさいよ! さっきトランシーバーか何か使ってたでしょうが!」

 そう言われて、はっと気付いた。トランシーバーがない。おそらく、さっきの襲撃で落としてしまったのだろう。

「すいません……落としちゃいました」

「はぁ!? なんでこんなに使えないのかしら! じゃあ何、連絡手段はないわけ!? 誰も助けに来てくれないってこと!?」

力なくうなづいた私は、自分の中から何かが抜け落ちてしまっている感覚に苛まれていた。おばさんとやりとりする自分自身の姿を、どこか違う世界から無感情に眺めている私がもう一人居る。そして彼女は、へたり込んでいる私を、心底蔑んでいる。

 おばさんはへなへなと膝をついて、一際大きな溜め息を漏らした。泣いているようだ。濃いマスカラが、頬に黒い筋を作っていた。

「このままサメに食べられて死ぬなんて……。そんなの嫌よ……」

 彼女はじゅるっと鼻を啜って、地面に倒れているライフルを指さした。金属製で、黒い塗料が塗られている。パークがオリジナルで作ったものである。

「せめてライフル持っときなさいよ。まあ、どうせ作り物なんでしょうけど」

 冗談を言いたくなるのも分かる。私はおばさんに寄り添うような気持ちで、なんとなくライフルを手に取った。と、明らかな違和感を感じた。重いのだ。

「あれ?」

 構えてみると、中からジャキジャキと音がする。まさかと思い、あちこちを触ってみると、いつもは開かない弾倉が開いた。中には、なんと弾が二つ入っている。

「これ、本物だ……」

「変な冗談よしてよ。面白くないわよ」

 おばさんが顔を上げたのと同時に、進行方向、ボートハウスの扉がゆっくりと開きだした。妙に嫌な予感がする。船は動いていないのに、あの扉は開くのか。

 まるで、私たちを陥れるために、誰かが意図的にこのアトラクションを操作しているかのような……。

「……っ!」

 声にならないような声で、小さくおばさんが叫んだ。震えながら、指をボートハウスに向けて指している。眼を凝らしてその方向を見ると、そこにはボートハウスの暗闇がある。それを睨んでいるうちに、その暗闇の一点が、ぬっと膨れ上がった。そのまま分裂して、こちらに向かってくる。その瞬間気付いた。あれは、サメだ。黒いサメ。

 そのサメは紛れもなく、アトラクションの最後に出てくる、感電死するサメに間違いなかった。ということは、作り物が動き出しているということになる。

 いつの間にか、先ほどのサメもどこからか戻ってきていた。私たちの様子を窺うように、二匹のサメは、船の周りをぐるぐると泳ぎだした。

「はや、早く撃って! 早く撃ってよ!」

 その一声で、一気に私の中の緊張感が高まった。三太君の泣き声が、それに拍車を掛ける。

 サメはもう近くまで来ていた。弾は二発。どちらも一撃で仕留めなければならない。

「い、いきます」

 今やサメは、船の周りをぐるぐると回っている。私ははやる気持ちを抑えながら、黒い方のサメを狙った。

 右人差し指を引き金におき、見よう見まねで添えた左手をガシャコンとやる。ジャキンと音がして、引き金が堅くなった。

「皆さん、耳を塞いで下さい!」

 自分はどうすればいいのだと思わないでもなかったが、そんなことはすぐに頭から飛んでいった。息を吐ききり、一気に引き金を絞った。

 鼓膜が破れるほどの爆音と共にとんでもない衝撃が右肩に乗り、思いっきり軌道がぶれた。甚だ見当違いなところに着弾し、ちょこっとだけ水が跳ねた。

「何やってんのよあんた! あと何発!?」

「あと一発です……」

 おばさんの顔が、絶望の色に染められてゆく。

「そんな……一匹に当てても、もう手遅れじゃない」

 私は気付かないうちに、屋上から飛び降りてしまったようだ。もう後は、死を待つのみ。焦りなど通り越して、諦めという感情で胸が詰まった。私のせいで、三太君や、お母さんの命までもを道連れにしてしまった。ああ、私は、なんて頼りない。なんて情けない。

 黒いサメは銃撃に腹を立てたのか、ぐるっと旋回して船と距離を取り、一気に助走をつけて突撃してきた。とてつもない衝撃に、身体がぐらりと揺れた。

 と、横で悲鳴を上げたのは、三太君だった。

「うわっ!」

 先ほどからずっと椅子に捕まっていた三太は、サメの突撃で体勢を崩し、一度目の襲撃でボロボロになった後部から、滑り落ちそうになっていた。その先には、もう一方のサメがぐるぐると泳いでいる。

──落ちる。

 そう思ったとき、彼の母親が彼の名前を叫びながら、ぐっと腕を伸ばした。見事三太君の服を掴み、ぐいっと引き寄せ、見事難は逃れたように思えた。しかし。

 その大きなお腹のせいだろうか、彼女はそのままバランスを崩して、ふらりと水の中へと落ちていった。私は落ちていく彼女をぼうっと見ることしか出来なかった。三太君の、「お母さん!」という悲痛な叫び声だけが耳朶を揺さぶった。

彼女と一瞬目が合ったことを、私は今でも覚えている。というよりは、忘れることが出来ない。様々な感情が入り交じったあの表情。大事そうにお腹を抱えた、あの右腕。

 目を閉じることも出来ず、ただ彼女が食べられてゆく様を、どうもおかしくなってしまった感情を放し飼いにしたまま、私はただの風景を眺めているかのように見つめた。泣き叫びながら、必死で母を助けようと水に飛び込もうとする三太君を、私はなんとか引き留めた。

「ああ、いや……」

 三太君の動きが鈍り、強く抱きしめることができたのも束の間、後ろでひ弱な呟きが聞こえた。後ろを振り返ると、そこには、ライフルの銃口を口の中に突っ込み、涙を流しながら引き金をまさぐっているおばさんがいた。

 手を伸ばそうとしたのと、おばさんが引き金を引くのが同時だった。ふらふらと空を切る手の向こうで、おばさんの頭から血飛沫が飛び散った。目をこぼし、バタンと倒れた彼女の頭から、ストロベリーソースをかけた果実のような、生々しい物体がどろりと零れている。生きているようだった。

 三太君に見せないように、私は一層彼を強く抱きしめた。

「なんで……なんで……」

──なんで、守ってくれなかったの?

 彼はそう言いたいに違いない。今、自分を抱いているこの女が、心底憎いはずだ。乗客の一人も助けようとせず、ぼうっと眺めているだけで、ちゃっかり自分だけは最後まで生き残っている。彼の気持ちは、もっともだ。私には、こうやって彼を抱く資格もない。

 自分のふがいなさに打ちひしがれながらも、ゆっくりと視線を上に上げた。サメは私たちが落ちてくるのを待っているかのように、ゆうゆうと泳いでいる。やがてしびれを切らして、この船を襲ってくるのは、時間の問題か──。

「めぐみー!」

 遠くから、わたしの名を呼ぶ声がした。この声は、まさか──。

「いけ、エラスモサウルス! かみ砕く!」

 水の中を、こちらに向かってきているのは──夢だろう、夢に違いない──エラスモサウルスだった。その背中で仁王立ちしているのは、ダイナだ。サメに向かってピンと指を指しているその姿は、どこぞのポケモントレーナーを彷彿とさせた。

「ダ、ダイナ!?」

 エラスモサウルスはぐんぐんとスピードを上げていく。とうとうサメに届く距離まで近づくと、その長い首をぐんと伸ばし、電光石火の早業で、二匹のサメに噛みついた。

 そこからは早かった。もがくサメを力でねじ伏せ、一度宙に浮かしてどんと水面に叩きつけた。みるみる血が流れ出ていき、あたりの水面は赤一色に染まった。

「めぐみ、大丈夫!?」

 唖然と口を開けている私と三太君に、ダイナはふっと微笑みかけ、

「とりあえず、生きてはいるわね」

 と、その青い眼で私たちを見据えた。逆光になって、長い金髪がオーラを纏い白く光る。私たちにとって彼女は、ヒーロー以外の何者でもなかった。ミラジョヴォヴィッチかと思った。

 彼女はすっと手をこちらに差し出し、こう言った。

「さあ、逃げるわよ」


        *


 エラスモサウルスの背中は、案外乗り心地のいいものだった。ぬるぬるしてて、磯臭いのを除いては。

「ねえダイナ、ありがとう」

 私がそう言うと、ダイナは惚けたような顔で、「いいよそんなの」と笑った。

「めぐみが上手く逃げてるとは思えなかったからね。あんたはどうせ運も悪いだろうし、ちょうど船長として業務中なんだろうなと思って来たら、案の定そうで笑っちゃったよ。でもほんと、生きてて良かった」

 運がなくて悪かったな、とは思ったが、ダイナがいてくれて心底良かった。彼女がいなかったら、今頃どうなっていたか──。私が見放してきた大勢のゲストたちがフラッシュバックしてきて、思わず頭を振った。もし船長が私じゃなくてダイナだったらと思う。きっと彼女なら、全員助けていただろうに。

「ねえ、その子は?」

 ダイナは私の後ろで小さくなっている三太君を見つめ、そう訊ねた。

「この子は、三太っていうらしくて……。アトラクションに乗ってた子」

「そう……」

 三太君は、顔を上げようともせず、水の中の一点を見つめている。思えば、あの惨劇が起こってからろくに言葉を発していない。母を失って、きっとショックを受けているのだろう。泣いていないだけ、彼は強い子だった。

「お母さんは?」

 突然のダイナの質問に、私は目を伏せた。しばらくそのままでいると、ダイナははっとしたような顔をして、「ごめん」と言った。

「そうだよね。私がバカだった。今のは忘れて」

 気まずい沈黙の中で、私は三太君の母親の顔を思い出していた。あの、なんとも言えない、慈愛に満ちた表情。それでいて、恐怖や悲しみも混ざったような、あの表情。

 彼女は、三太君ではなく私を見ていた。それの意味するところは──。

「……託された」

 ぼそっとそう言った私を、ダイナは不思議そうに見つめた。

「ん? 今なんか言った?」

「いいや、何でも無い」

「あ、そう」

 私はそのまま、三太君を覗き込んだ。彼はまだ、気の抜けた顔で水を見つめている。

「三太君、私が絶対守ってあげるからね。生きて帰ろう」

「……うん」

 その声色には、疑惑の念が混じっていた。それもそうだ。私は誰一人守らず、ぼうっとみんなが死ぬのを見ていただけ。「守ってあげるからね」なんて、私に言う資格は無いのかもしれなかった。

 暗くなった雰囲気を壊すように、ダイナが努めて明るい声で言った。

「さあ、早くここから脱出しましょ。船乗り場から戻って、ハリウッドエリアから入場口に直行するのがいいと思うけど、めぐみどう思う?」

 意見を仰がれたので、私はさっきから思っていたことを聞いてみた。

「私もそれしかないと思うけど……これって、JAWSエリア以外でも起こっていることなの?」

「……うん。残念ながら」

 髪を左手に掛けながら、ダイナが暗い声色でそう言った。

「ここもそうだけど、他のエリアも地獄絵図よ。ジュラシックパークは恐竜が動き出してね。二度とあそこには戻りたくない──けど、助けてくれる恐竜もいた」

 彼女はエラスモサウルスの背中を撫でた。

「まるで原作と同じだよ。あっちはラプトルだけど、現実はエラスモサウルス。めぐみを助けに行けってことだと思ったわ」

「そうだったんだ……。ほんとに、ありがとうね」

「もういいって言ったでしょ。とにかく、怪物に殺される前に、早く脱出しなくちゃならない。エラスモサウルスと別れて、三人だけになったら、かなり慎重に進まなくちゃならないわ。見つかったら、終わりだと思った方がいい」

 ダイナの真剣さに、突然緊張感が舞い戻ってきた。本当ならこの瞬間も、気を抜いてはいけないのだ。USJの外に逃れるまでは。

「さあ、着いた」

 いつの間にか、船乗り場についていた。そこに、いつもの面影はない。あちこちが崩され、巨大地震が起きた後のようになっていた。水に落ちないよう、慎重にエラスモサウルスから降りる。地面に降り立つのが、何年かぶりのような気がした。

 そのとき風が吹き、髪を揺らした。生ぬるく、水臭い、ダクトから吹き付ける風のようだ。それは確かに死の匂いを巻き込みながら、そうっと私たちの頬を撫でた。


        3.脱出


 地上に降り立ったあの記念的瞬間から十分ほど。私たちはアミティ・ヴィレッジを無事に抜け出し、ハリウッド大通りを闊歩していた。そしてここに至るまでの道のりで、様々な物体を視界に入れ──あるいは様々な声を耳にして──心の支柱が崩れていった。

 もはや風が吹き抜けただけで、全身の毛穴からねっとりした冷たい汗が滲んでくる。そこの物陰から、そこの曲がり角から、ただひたすらに並ぶ店の中から、または空の果てから、奴らが襲いかかってくるのでは──。奴らの爪痕が残るこの大通りを歩きながら、私たちはそんな想像にとらわれてしまうのだった。

 それも仕方ないと思う。なぜなら、そこら中に死体が散らばっているからだ。そして今もなお、逃げ惑う人々の、生にすがりつくような、悲痛な叫びが木霊している。ときおり、全身の産毛が逆立つような、奇妙な鳴き声が思いもよらぬところから聞こえてくるのである。そんな声が鼓膜を揺さぶる度、私たちは耳を塞ぎ、しゃがみ、それが取り過ぎるまでただひたすらに身を寄せ合う。そんな十分間を過ごせば、どんな強靱な心を持った者だろうが、恐怖に屈するしかないはずだ。

 この十分で、色んな怪物を見た。「マンマミーヤ!」と連呼しつつ、手の平から火の玉を出す、オーバーオールの男。(建物を燃やし、その中に隠れていたのだろう人間が火だるまと化して外に飛び出てくる様は、まさに地獄と思われた)

 立ち上る黒煙と、それに纏う火の粉が彩る青天には、プテラノドンやら、怒り顔が印象的な石の塊やら、黒い布を纏った幽霊やら──確かディメなんたらといった気がする──色んな生物が飛び交っている。いつそれが急降下してきて、私たちを襲うのか気が気でない。

 今歩いているこの道にも、怪物が残したであろう痕跡があちこちに見受けられる。建物を一つまるごと覆うほどの巨大な蜘蛛の巣。天井を覆うドームからつり下がるのは、何百にも上る、人間大の白い繭だ。奴に捕まれば、きっと私もあの中の一つになってしまうのだろう。

 そんな奇妙な光景が広がるドームを恐る恐る見上げながら、三人で入場口を目指していたが、私たちはぴたっと足を止めた。ダイナが、何か声がすると言ったからだ。

「どうしよう……かなり近い」

 彼女はそのまま周りを見渡す。私たちが歩くこの道路を挟むように、お土産屋などの建物がずっと並んでいる。ほとんど一本道と言ってもいいような通りだ。他の建造物といえば、小さめの街路樹や、何のためにあるのか分からない信号、ポップコーンを売っていたのだろう小さめの屋台しかない。これでは、ほとんど隠れる場所がないと言っていいだろう。ドーム状の屋根が覆っているからか、少し薄暗いのも、窮屈さを感じた。

 確かに、何かの音がする。人の呻きのような声が。ただ奇妙だ。出所がつかめない。近いということはかろうじて分かるが、それだけだ。声に包まれているかのよう、振動として、全身に響いてくるかのようだ。そして、それが地面の中から響いてくるものだと気付くのは、長い時間を要さなかった。

 それまでは白い繭しか動いていない視界だったが、突然アスファルトがその静寂を破った。十メートルほど先、ちょうどドームが無くなったあたりで、地面がぼこぼことうねりだした。それを見て、私はニキビを思い出した。私の顔に、赤い星座を描く、あの醜いニキビを。

 咄嗟に駆け出すことも出来ずその様子を見ていると、膨れ上がったアスファルトの頂点から──ちょうどニキビが破裂して飛び出す膿のごとく──人間の腕が飛び出した。気が狂いそうになる恐怖の中で、私は思い当たった。ゾンビだ。

 奴らは這い出してくる。かろうじてくっついた髪を振り乱し、右に左に揺れ、こちらへ歩いてくる。奇妙なことに、ゾンビとは思えないようなキレた動きで踊っているものもいた。死のダンス。狂気じみた踊り。私の手を握る三太の握力が、ぐっと強くなる。

「逃げなきゃ!」

 そう言って振り返ったダイナの眼に、またもや絶望が滲みだした。

 二度あることは三度あるとよく言う。付け足そう。一度あることも、よく二度起こる。だから、三度起こるのだ。

 つまるところ、私たちの後ろでも同じ事が起こっていた。幾十ものゾンビたちがふらふらと私たちを追い詰めてくる。腐臭が、ふっと鼻を掠めた。

 ゾンビとゾンビの間に、横へ逸れる道はない。まさに絶体絶命といった様相で、全身が硬く硬直した。どうしようと、ダイナは必死に周囲を見渡している。腐臭と彼女の髪の香りが混じって、吐きそうになった。

 ヘビに睨まれたカエルとは、このことを言うのだろう。死が、両側から迫ってくる。思わずしゃがみ込んでしまったそのとき、視界の隅に、とあるものが映った。

 ちょうど横にあるお土産屋。客に開放感を与えるためか、はたまた何を売っている店なのか分かりやすくするためか──少なくとも、この仕様に私たちは助けられたのだ──壁一面がガラス張りになっており、中の様子が丸見えになっていた。カチューシャ、ストラップ、お菓子。その横に、ピエロの仮面がぶら下がっていたのである。それも、ゾンビ仕様。

 私は普段思い浮かべもしない神様に軽く心の中でお辞儀をしてから、そちらに指を指した。「あれ見て! あの仮面で、ゾンビのふりをするしかない!」

私が指した方向をダイナはちょっと見て、訝しげな顔で「本気で言ってるの?」と私に向かって言った。じゃあ他に何か案がある? という視線で(実際には言っていない)真剣に見つめると、彼女はこくりと頷き、店の中へ走り出していった。

 これで助かるわ、と光明が差した瞬間、舞い戻ってきたダイナが握ってるものを見て、思わず頭を抱えた。ピエロの仮面は、二つしかなかった。ああ神様、なぜあなたはそんなに試練がお好きなのですか?

「ごめんめぐみ、仮面、二つしか見つからなかった」

 泣きそうな顔で、彼女は続ける。

「三太君には絶対被せるとしても、あと一つはどうする? このままじゃあ、どっちか死んじゃう」

 彼女の謝る姿を見て、私は思い当たった。そうだ。私は、ゾンビに似ていると。そうだ、私は、バイトの帰り道、ホラーナイトのゾンビに間違えられて、必死に謝られるという、壮絶な経験をした女なのだと。重要なのは、素顔だったというところだ。

「お面はダイナが被って!」私は叫んだ。「それじゃあめぐみが……」と不安そうな顔で言うダイナに、私を信じるよう強く言うと、今にも私が死んでしまうかのような悲しい表情をして、ゆっくりとお面を被った。三太君にも同じように促した。彼もまた、ダイナと同じような表情をした。

 それから私たちは、努めてゾンビを模倣した。両手を前に突き出し、うあー、と気の抜けた声で、私たちはもう死んでますよと、ああ、人間を噛みたくて仕方がないわ、といった想いを込めながら、呻きに呻きまくった。横に踊っているゾンビが通りかかったときなんかは、一緒にダンスを踊ってみたりもした。ゾンビの視線に、一種の哀れみが浮かんだような気がしたのは、きっと気のせいだろう。

 おそらく五分ほど。私たちは腐臭渦巻くゾンビの群れの中で、ひたすらに耐えた。我を忘れて。恥も外聞も忘れて。はっと気付くと、腐臭がなくなっていた。周りには、人っ子(ゾンビっこ)一人居ない。私たちは生き残ったのだ!

 ひとしきり生存を喜び合った後、息を切らしながら仮面を外した二人は、やはり不思議そうに私を見つめる。やがてダイナが口を開いた。

「なんで、めぐみは大丈夫だったの? 特段、変なことしてるわけでもなかったし」

 私は意気揚々と、ゾンビに噛みつかれなかったその訳を話した。彼女と三太君はふむふむとうなづいて、「それだけ?」と声を合わせて言った。それだけだ。それだけで何が悪い。

「そんなに似てるとは思えないけどな……」ダイナは言う。

「もしかしたらあいつら、元から襲う気なんて無かったんじゃない?」

 言われて、初めてその可能性に思い当たった。確かに、ただの杞憂だったのかもしれない。こんな馬鹿げた状況も、全て私の杞憂だったらいいのにと、ぼんやりと考えた。

「さ、行きましょ」

 ダイナは颯爽と先を行く。「行こっか」と三太君に言うと、にこっと微笑み返してくれた。それまであまり感情の見えなかった彼が、少しずつ元に戻っている。胸の中に、ほんのちいさな隙間に──例えば左心房に──母性という名の小さな花がぽっと咲いたようだった。と同時に、彼の母親の顔が思い浮かんだ。水に落ちていく、あの、なんともいえない表情が──。

 するとその顔が、突然崩れ始めた。目の玉が片方飛びだし、鼻は腐り落ち、唇のなくなった口から、乾燥した舌がだらんと垂れ落ちる。自分以外の何かが、自分のイメージを操っているような、そんな感覚に陥った。嫌な予感がする。

 そんな私の様子を、とある店の中から眺めている、醜い顔をしたピエロがいた。私の杞憂が杞憂でなくなってしまう発端を握っているのは、いや、確実な原因となったのは、このピエロだった。まさにそれだった。


 頭を支配した気持ち悪いイメージをなんとか取り払って、いざ歩を進めようとしたその時、異様によく通る、青年の声が聞こえた。

「おーい、君たち! ちょっと待って!」

 奴は優しい声色で(今思えば、反吐が出そうだ)、先ほど仮面を取った店の中から、そう呼びかけた。私たちはもちろん身体を硬直させて、奴の方に眼を向けた。その時はまだ、警戒心を持っていたのだ。なんで、なんであんなことに──。

「あいつ……めぐみ、逃げよう」

 ダイナは私の袖を引っ張る。三太君を側に寄せて、私たちはじりじりと後ずさりをした。それはそうだろう。皺だらけでの顔に大きく陣を取る、巨大な目、鼻、口。奴の顔は、ピエロであり、ゾンビだったからだ。虹色のアフロと、丸いボタンが並ぶオレンジの服はかろうじて見ていられたが、とても友好的な生物だとは思えなかった。

「いやいや、大丈夫ですから」奴は言う。「私はゾンビじゃなくって、従業員です。ただメイクしてるだけですから、安心してください」

 その醜い顔の奥にのぞく、にこやかな表情。私たちはそこで緊張の糸を緩めてしまった。色んなことがありすぎて。疑いというものを持つ体力が無くなってしまっていたのだ。あのとき、私に少しでもその体力があれば、今こんなに、こんなに悩むことなど、なかったはずなのに。

「とにかく。生きてて良かった」奴は身振り手振りを加えながら、陽気に続ける。「さあ、こっちです。このお店の中から、園外へ出る道があります。まずは、小さい子から」伸ばされた異様に長い腕が、三太君へと近づいていく。

 そのあまりにも唐突な展開に、ダイナは「ちょっと」と声を漏らした。

「そのお店から出れるなんて、聞いたことないですよ。入場口から出ますから、私たちは──」

「駄目です」奴はダイナの言葉を遮った。

「入場口は逃げようとした人たちで詰まって、とても出れない状況です。人が集まったところを、色んな怪物たちが襲ったものですから……あまり、あそこに近づかないほうがいい。あの店には、従業員用の出口があるんです。これはもう、信じて貰うしかありませんけど……」

 信じてくれというその真剣な口調。半ば押し切られるような形で、私たちはうなづいた。今私は、この時の私に言いたい。愚かだと。その判断は、世界で一番愚かなものであったと。

 奴の大きな手は、三太君の手をがっしりと掴み、お土産屋の方へと引っ張っていく。その後ろから、私たちはついていった。あっという間にドアに到着し、まずは奴と三太君が中へと入っていった。その瞬間、私たちと三太君を引き離すかのように、バタンとドアが閉まった。途端、中から身の毛のよだつような、痰の絡んだ笑い声が響いてきた。

「お前ら、ほんとにバカだよなあ。こんな簡単に、おちびちゃんが手に入れられるなんて。世界中の、飢餓に苦しんでいる生き物たちに教えてやりたいよ! 狩るより騙すだって!」

 この時になって、やっと私は事態に気付いた。あまりにも遅すぎる。本当に、私は馬鹿だった。

 私とダイナは顔面を蒼白にして、閉じたドアを狂ったように叩いたが、それも後の祭り。奴の笑い声だけが、虚しくドアの隙間から漏れるだけだ。

 いつの間にか、奴は一面ガラス張りの壁に移動していた。安全なところから、私たちを煽りたいのだ。そうに違いない。

 奴は三太君の首にその真っ白な腕を回して、逆の手の平で頭を鷲掴みにしていた。大きく笑った口の中には、黄色く尖った、猛獣の爪のような歯が敷き詰められている。思わず、恐ろしい考えが頭をよぎる。その歯が、彼の首に突き立てられる様を。ズブズブと、沈み込んでいく様を。

 ガラスを、何度も何度も叩いた。殴った。蹴った。顔面をぐちゃぐちゃにしながら喚く私たちを、奴はニヤニヤと笑ってみていた。やがて奴は、大きく口を動かして、何かを私たちに伝えるかのように、一文字一文字口を閉じたり開いたりした。いの形。あの形が二回。またいの形。あの形。最後にうの形。

 ああ、なんてことだ。あの時は分からなかったが、今冷静に考えてみたら、なんとも明白じゃないか。いただきますだ。奴は、いただきますと言ったんだ!

 奴は大きく口を開いて、泣き喚く三太君の首にその汚らわしい歯を近づけていった。その白い額に、緑色の血管が浮かぶのを、私はまじまじと見た。私たちはガラスを叩くのも止め、「やめて」と呟くことしかできなかった。

 数瞬の間に、視界が激烈な赤に染まってゆく。ガラスに吹き付けた三太君の血液は、奴と三太君自身を隠すように、びっしりと私たちの視界を覆ったのである。

 私の記憶は、この赤い景色で止まっている。眼を閉じて太陽を見たときの、あの鮮烈すぎる、血液のように赤い光の中で。


        *


「めぐみ、起きて! めぐみ!」

 ぼんやりとした声に誘われ、私は目を開いた。視界は空の青一色。身体を撫でる風はひんやりとして、私の体温を心地よく奪っていく。あまりのショックに、私は気を失っていたらしい。

「起きたか」しゃがれ声が、足元でした。聞いたことのある声──。

「見てみろ、これでわしとドラゴンがとっても仲がいいということが分かっただろう」

 驚くなかれ、それはドラゴンじじいの声だった。背泳ぎしていなくなったっきりの、不思議な不思議なお爺さん。彼は私に背を向けたまま、ドラゴンの頭の上で、行く先をじっと眺めている。

 私はばっと起き上がり、状況を理解した──理解したくもない状況だったが。錆びた鉄のような茶色の、ゴツゴツとした背中。両隣で大きく動く巨大な翼。その向こうに広がる、地平線。私はドラゴンに乗って、空を飛んでいたのだ。

「おい、あんまり動くなよ」ドラゴンじじいが言う。「みんな、お前の後ろにいるからな。さあ、弁解してみろ」

 いきなり冷たく変わった彼の声。すると後ろに、気配を感じた。

「鮫島じゃない……」

 か細い、女の声だ。ばっと振り返ると、血まみれになり、首を九十度に曲げた三太君と、彼を大事そうに守る、あの母親がいた。彼女もまた血だらけで、水死体のように膨れ上がっている。ぱっかりと開いた腹からは、何かが──肉の塊のようなものが──ぶらぶらと揺れていた。逃げ場のないこの場所。膀胱が何かの手で乱暴に掴まれる感覚に襲われる。

「高橋さんね。あなた、私たちのことを書いて、そんなに楽しい?」

 女は冷たい声色で言う。

「私たちのことを小説にして、お金もらって、いい身分よね」

「ち……違います」

「何が違うの?」彼女の目が、大きく開く。三太君の頭をさする手がどんどん早くなっていく。

「私たちは死んで、あなたは生きた。水に落ちていくみんなをぼうっと見つめたまま、何もしなかったあなたが、なんで生き延びているの? 未来のある子供が、水に沈んで死んでいく様をだしにして、あなたは金儲け。死んでしまえばいい。あのとき、死んでしまえばよかったのよ。ねえ鈴? そうよね?」

 彼女のお腹からぶら下がった肉の塊が、びくっと痙攣した。三太君はじっと私を見る。責め立てるような、とげのある視線で。

「この子が、どれだけ痛い思いをしたか──あなたがしっかりしてれば、この子はあんな目に遭わずに済んだの。死なずに済んだの。未来に向かって、今も歩み続けてたはずなの。分からないでしょうね。あんたみたいな腰抜けには」

 いつのまにか、私の周りには、首をなくしたあのカップルや、頭を吹き飛ばしたおばさんや、ヤンキーや、学生や──私が見捨てた人たちが──私を囲い込むように佇んでいた。死ね、死ねと、へたり込んでいる私目がけ、何度もそう呟く。

 ヤンキーが、私の胸ぐらを掴んだ。もの凄い力。私を落としたいという意思が、その表情に、その握力に、はっきりと感じられた。

 そのときふと、殺されたいと思った。彼らの言っていることは何も間違っていない。いいことなど何もない人生だった。これを書いている今も、あのピエロの顔が、三太君の死に際の顔が、机の下に、布団の中に、棚の上に、瞼の裏に、あらゆるところに浮かび上がってくるのだ。

 もうここらで、人生を終えても良いのかもしれない。そう、死ねば良いのだ。死ねば、この苦しみから解放される。うん、そうしよう。このまま後ろに身を投げだして、空の中に飛んで、地面に身体が叩きつけられるのを待とう。そしてこのままパソコンの電源を落として、手頃な縄をドアノブにくくりつけよう。輪っかにして、首を通して、あとはすとんと落ちるだけ。そしたらもうすべてが終わりだ。


 うん、そうだ。それがいい。


        終わりに


 まず、ここまで読んでいただいた皆さん、本当にありがとうございました。最初に申し上げておきます。この『終わりに』を書かせていただいているのは、筆者の高橋めぐみではありません。彼女の代筆として、私、ジュラシック・T・ダイナが筆を執らせて頂いております。まずは、こういう形をとる経緯を、読者の皆様にお伝えしなくてはなりません。

 筆者の高橋めぐみは、二ヶ月ほど前、このノンフィクション小説本編を書き終えた日に、自死してしまいました。遺書などはなく、自宅で首を吊って亡くなっていたということです。

 私はちょうどその頃PTSDという病気にかかっており、彼女の死を理解するという余裕はありませんでした。が、一ヶ月前ほどでしょうか、病気の症状が軽くなり、なんとか日常生活を送ることができるまでに回復することが出来ました。そして、彼女の自殺を知り、彼女がこのノンフィクション小説を執筆していることを知りました。

 編集担当の方とお話をし、この終わりの部分だけ、彼女の親友である私が代筆するという形をとることになりました。

 皆さんももうお気づきのように、はじめにで掲載されていたインタビューは、紛れもなく私のものです。本当にああ言ったのかは、あまり記憶がありませんが。

 病気から立ち直った頭で、改めて彼女の書いた本編を読むと、気になる点がいくつか出てきました。かなり、真実と違う点があるのです。大きく二つほど、取り上げたいと思います。

 まず一つ目は、私の描き方についてです。作中で私は、エラスモサウルスに乗って颯爽と登場し、見事にめぐみを救出しました。しかし、そんな事実はありません。本当は逆なのです。とある理由から、私はJAWSのアトラクションに向かったのは本当ですが、彼女を救出した訳ではない。

 私はJAWSのアトラクション周辺で、バーナーナ、バーナーナナと歌う怪物に襲われていました。発狂しながら走っている私を見つけた彼女は、その手を取って、安全な場所まで連れて行ってくれた。助けにいこうとしたのに、私は助けられたのです。本当に、お恥ずかしい話です。それ以後も、本当の私は、作中に出てくる私よりずっと臆病で、正直な所、足手まといだったと思います。無事にUSJを出られたのは、紛れもなく彼女のおかげ。泣き叫びながらでも、他の人を弾き飛ばしながらでも、なんとか生き延びることが出来たのは、彼女のおかげなのです。

 二つ目は、そこに関連してきます。私が彼女と出会ったとき、彼女は一人だった。そう、三太なる人物は、少なくとも私と出会ってからは、一度も目にすることはありませんでした。アトラクションに乗っていた子供なのかもしれませんが、私には、それを知るすべはありません。

 そうなると、疑問が浮かび上がります。なぜ彼女は三太君を連れ回し、結局は守り切れないという小説を書いたのか。なぜ、私を頼りがいのある人間として描いてくれたのか。

 彼女には、自分自身を過小評価するくせがありました。きっとそれが、この小説にも表れてしまったのだと思います。私たちは、USJから脱出する過程で、様々な人間の死を間近に見ました。時には、他の人を蹴落としてまでも、生きながらえようとしたこともありました。泣き叫ぶ子供の声を、また子供を探す親の虚しい叫び声を、今も忘れることはありません。

 そんな風にして生き延びてしまったら、心優しい彼女が、普通の精神で生きていけるわけがないのです。事実を改変し、自身を自虐することで、逆説的に、自分以外の人間を救おうとした。自分が責任の全てを負うことで、心に折り合いをつけようとしていたのかもしれません。彼女は現実逃避をすると共に、現実と闘っていたのです。

 それではこれは、フィクション小説ではないかという意見もあるかとは思います。しかし、それは違うと私は思っています。彼女の気持ちから生まれた物語は、彼女を描いたノンフィクションなのです。この事件に傷つけられた彼女の、確かな物語です。

 実は私は、この事件の原因について、思い当たることがあります。このことは、編集者さんにも、誰にも言っていません。言っても、おそらくだれも信じてはくれない、突拍子もないことだからです。だから、まず私がその原因を探る。確かな証拠を得ることが出来たら、改めて皆さんに伝えたいと思っています。

 それではこのあたりで、締めくくらせて頂きたいと思います。最後に、これだけは言わせて下さい。未だ原因不明の事件ですが、現実に起こった、実際の事件です。多くの人が悲しみ、打ちひしがれた、令和最恐の事件なのです。どうか、この事件を心のどこかにとどめておいてもらいたい。失意の中で亡くなっていった方々を、少しでも想っていただきたい。それだけで、彼女は、亡くなった方々は、浮かばれると思いますから。


        *


         エピローグ


▼二千三十一年十月三十日・火曜日・午後零時十二分

 暴動から半年と一ヶ月後

 某遊園地・某城・地下会議室にて


「クソが! なぜ、なぜなんだ!」

 相変わらず獣臭い会議室に、甲高い怒鳴り声が響き渡った。丸いテーブルに嵌まった鏡。それを、鬼の形相をしたミッキーが叩き割る。写っていた彼の顔に、幾筋ものひびが入った。

「せっかくUSJをぶっ潰したって言うのに、なんで客が来ない? もう半年以上もこのままだ! 日本のテーマパーク業界は、俺たちの独占市場になったんじゃなかったのか!? ああ!?」

「そのことですが……」

 ネズミを刺激しないように、アヒルは恐る恐る手をあげた。そのクチバシは震え、不規則にカタカタという音が鳴っている。

「なんだアヒル、お前、なんで客が来ないか分かったのか? 早く言ってみろ!」

 彼はネズミの大声に引っ張られるように起立し、背筋をピンと張って答えた。

「お、おそらくですが、あのUSJの一件以来、客のテーマパークへの信頼度が低くなったと思われます」

「そいつは、どういうことだ」

 ネズミの質問に、アヒルは続ける。

「はい。つまりは……私たちのテーマパークでも同じ事が起こるのではないかと客は恐れているのだと思います。USJで起こったことが、ここでも起こるのではないかと……」

 うわ~おぅ、と、リス二匹が口に手を当てて唸った。犬も、その涎にまみれた口をむちゃむちゃ言わせながら、力なく項垂れている。

「なんだと、うちは安全だ! 安全に決まってる! 人間はそんなことも分からないのか、このクソ野郎共め!」

「まあまあ、落ち着いてあなた」

「うるせぇ、落ち着いていられるか! メスの分際でイキがってんじゃねぇ!」

 優しく宥めたメスネズミの発言も虚しく、彼女は強めにひっぱたかれてしまった。しゅんとした表情を浮かべて、彼女は俯いた。チャームポイントであるリボンがどことなくしおれている。

 会議室に気まずい沈黙が流れたとき、突然ドアが開き、ボロボロの服を着た女が入ってきた。足元は、ガラスの靴だ。

「失礼致します。お茶を淹れさせて頂きました。しっかりと皆様好みで用意しております。是非お召し上がり下さい」

 静かな微笑を称えた女の手には、盆が乗せられ、さらにそこに六つのお茶が乗っていた。彼女の長い金髪を、白い湯気が撫でていく。

「ああ、気が利くな。そこに置いておいてくれ」

 女はネズミの指令を聞くと、依然微笑を称えたまま、流れるようにお茶を並べていった。時計回りに、するすると。氷上を滑っているかのように。

 女がお茶を置き終わり、ドアの手前に立つと、ネズミは間髪入れずにお茶を一気に飲み干した。他の者も、それを見て次々とお茶を喉に入れてゆく。

 と、その瞬間──。

「──ぐっ!」

 突然ネズミが苦しみだし、喉を押さえた。それ続くように、まずはアヒルが、次に犬が、メスネズミが、リス二匹が、呻きだした。中には泡を吹いて卒倒している者もいる。

 ネズミは苦しみながらも、なんとか口を開いた。

「お、お前……何を入れた……?」

 優しかった女の微笑が、醜く広がる。盆を投げ、鋭い視線で、彼女は口を開いた。

「毒リンゴの毒よ。私がアンダー・ザ・シーの刑を受けたあと、人魚に相談したの。『それってパワハラなんじゃない?』って言ってくれてね。知り合いの魔女に連絡とったりとか、この計画に協力してくれたわけ。まあ、色々あって半年以上かかっちゃったけどね」

 彼女は目を閉じ、何かに想いを馳せるように続けた。

「あなたたちのせいで、どれだけの人間が亡くなったか、どれだけの人間が、今も苦しんでいるか、それは分かっているの? あなたの私利私欲のために、どれだけの命が犠牲になったか……私の親友だって、自殺しちゃった」

「なぜ……」

 ネズミは息も絶え絶えに言った。

「なんで俺たちだと分かった? あの計画を話していたとき、お前はここにいなかったはずだ。たかが給仕係のお前に、あの事件と俺たちを結びつけられるはずは……」

「そのアヒルのせいよ」

 彼女は泡を吹いて机に突っ伏しているアヒルを見つめて、淡々と言った。

「私がアンダー・ザ・シーの刑からとぼとぼ帰ってきた時、この会議室の中から、アヒルと、そのリス二匹の声が漏れてきてたわ。扉がぼろぼろすぎるのよ。

おそらくあのとき、リスたちは私を人魚のところまで連れて行ったから、計画を聞いてなかったんでしょう。アヒルは真面目に、後でリスたちにも計画を伝えてたのね。極秘事項は、徹底的に隠さないと。それでも経営者? 笑わせないで」

 女の勝ち誇った顔を見て、ネズミは悔しそうに顔を歪めた。もう意識が飛びかけているのか、チカチカと白目がのぞく。

「くそったれ……があッ」

 その言葉を最後にして、ネズミは息絶えた。他の者も全員机に突っ伏したまま動かない。興奮した女の呼吸だけが、会議室に充満していく。

「やった……やったよめぐみ!」

 こうしてダイナは、令和最恐の事件に終止符を打った。

 事の経緯は、案外あっさりとしている。大事なのは、彼女が双子だったということだ。

 彼女の妹は、この某遊園地で働いていた。獣たちの、給仕係として。ダイナは妹のふりをしてこの計画を遂行したが、実際、あのとき会議室にいたのは妹の方である。

 ある日、ダイナに妹から連絡が入った。

──明日、USJが危ないかもしれない。

 最初は冗談だと思って聞き流していたダイナだったが、彼女の真剣な口調を聞いているうちに、本当のことではないかと不安になったのだった。妹は、そんな馬鹿げた冗談を言う奴ではない。

 不幸なことに、明日はシフトが入っていた。確かめぐみもそうだ。しかし、前日に仮病で休みを取るのは気が引けるし、めぐみにも忠告しようにも、本当のことか分からないから、ただ不安にさせてしまうだけかもしれない。

──もし起きたら、めぐみを助けに行こう。

 そんなふわっとした気持ちで、ダイナは電話を切ったのだった。今思えば、あのときめぐみに電話を入れて、休みを取っておくべきだったのだ。USJにも、明日は臨時休園しろと言うべきだったのである。たかがアルバイト一人の発言では、さすがに休園にはならなかっただろうが。

 そして遂に暴動は現実に起こり、かくしてUSJは破滅へと向かった。

 その後、彼女は半年弱をかけPTSDを克服し、一月でこの計画を企て、妹のふりをして獣たちを殺処分したのである。

 長い緊張から解き放たれたからか、ダイナは大きく欠伸をして、その美しい金髪をかきあげた。

「ああ、疲れた……。これで、めぐみの気持ちも晴れたかな……」

 ダイナは遠くを見つめ、ふるふると頭を振った。そして朝の光を浴びたときのように、気持ちよさそうに微笑を浮かべ、腕をぐるぐると回した。

「さ、帰りにチュロスでも買って、家でそれ食べながら楽しみにしてた『JAWS』でも見ようかな! こんなときはやっぱり、好きなことして身体をリラックスさせなくちゃ!」

 その時、ダイナの頭に一行の言葉が浮かんだ。

──好きこそもののJAWSなれ。

 ふふっ、とダイナは一人で笑って、めぐみの顔を思い浮かべた。めぐみにこれを言ったら、笑ってくれただろうか。

 いや、ないな。しょうもないもん。

 ダイナは気を取り直して、颯爽と会議室を飛び出していった。スキップをしながら「ジュラシックパークのテーマ」を鼻歌で歌う。彼女の可愛らしい歌声が、長い廊下を満たしてゆく。

 彼女が去った後、シンデレラ城は再び静寂に包まれた。スキップしずらかったのだろう。地下の廊下には、まるでゴミのように、ガラスの靴二足が脱ぎ捨てられていた。

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