眼
友人の孝博が単独事故を起こしたという連絡が入ったのは、昨日の午後だった。生憎その日は仕事で忙しく、夜が明けた今日に見舞いへ行くことにした。
孝博とは高校時分からの友人で、社会人となり、お互いに所帯を得た後も、たまに飲みに行くほどの仲だった。今日までその仲が続いたのはおそらく、浮気性という特性が共通したからかもしれない。飲みの場でお互いの浮気話を語らいあうのは非常に愉快で、息苦しい結婚生活の、まさに息抜きとして楽しみにしていたものだ。
受付で友人の名を告げ面会を申し込むと、気の強そうな雰囲気のナースに、彼の病状を告げられた。どうやら孝博の担当らしい。
全身打撲に骨折、内蔵損傷など、意識がはっきりしているのは奇跡的といえる状態であるらしかった。故に、痛みに苦しんでいるとも。
そして不可解なのは、彼の眼が両方とも無くなっているということだった。切除したのか、と看護師に聞くと、彼女はいえ、と頭を振った。
「搬送されてきた時点で、すでに彼の眼窩に眼球は嵌まっていませんでした。現場にも落ちていなかったようで、おそらく潰れたか、野犬や鳥などに食べられたのではと──」
生々しい話を聞いていると、気分が悪くなる。病院独特のアルコールの臭が拍車をかけるので、もういい、と手で制止した。にも関わらず、厚化粧のナースはさらに続ける。
「不思議なのは、綺麗だったということです」
「……綺麗?」
「ええ。通常事故などで眼球が完全に取れてしまったとしても、神経や筋肉が繋がって無くなるということはあまりありません。衝撃で神経や筋肉が千切れたとしても、残骸などは眼窩に残っているはずなのですが──」
「なにも残ってなかった?」
「ええ。まるで手術をして摘出したかのようでした」
確かにそれは不思議なことだ、とは感じたが、だからと言って何が変わるわけでもない。タカ──大丈夫だろうか。気を病んでいなければいいのだが。
「すみません、いらないことまで話してしまいました。それでは病室までご案内いたします」
看護師は私に頭を軽く下げて、廊下へと歩いていった。リノリウムの床が鳴る音を追い、私も足を踏み出した。
タカにはもう、視覚がない。その事実が、胸にのし掛かる。私にできることはあるだろうか。私は、一体どう声をかけてやればいいのだろうか。
病室に入ると、空気の淀みが気になった。四人一部屋らしく、タカは一番奥の位置にいるらしかった。
おーい、タカ、と他の患者の迷惑にならない程度の小声で呼び掛けると、「もしかしてマサか?」と返答があった。努めて笑顔を作りながら仕切りのカーテンを開けると、そこには包帯でミイラのようになったタカが横たわっていた。
飲み屋での、彼の笑顔を思い出す。もう二度と、あの時間は過ごせないかもしれない。そう思うと、励ましてやろうと誓う心に、じわじわと影が差していく。
一度深呼吸して、気持ちを作り直した。ベッドのそばにあった丸椅子に腰掛ける。
「災難だったな」
そう声を掛けてみると、「全くだ。最悪だよ」と存外明るい声が返ってきた。包帯の奥で、口角が持ち上がったことが分かった。どうやら過度には落ち込んでいないらしい。胸を撫で下ろす。
それから二、三言交わした後、話題は自然に移り変わる。もちろん、事故のことついてだ。
「いつも安全運転のお前が、どうしたんだよ一体」
「それがなあ、気味悪いことがあったんだよ」
含みを持たせたその声が、低く響く。太陽が雲に覆われたのか、窓から差し込んでいた光が途切れ、視界に陰がかかった。
彼は思い返すように、天井辺りを見やる。その眼は何も見ていないのだと思うと、何とも言えない気持ちになる。彼は続けた。
「昨日、S市まで出張があってな、そこにいくには山を越えなくちゃならないだろ? その山道を車で走ってたんだよ」
ああ、と相槌を返し、先を促す。
「そしたらな、三つ目のトンネルがある少し手前のところに看板があったんだよ」
「この先トンネル、みたいなやつか?」
いや、と彼は首を振る。
「飛び出し注意の看板だったんだ」
「ああ、そっちか。鹿とかよくあるよな」
ここまではごく普通の話だなと考えていると、タカが「それがな」と言う。
「鹿のマークじゃなくて、眼が描いてたんだ」
「眼?」
「そう。飛び出し注意って書かれた横の長方形の上に、正四角形を斜めにしたような看板があって、妙にリアルな眼が描かれてたんだよ。涙黒子も見えた」
眼が描かれた、飛び出し注意の看板──。
とある可能性に思い当たる。眼。飛び出し。悪寒が背筋を駆け抜けた。タカの前でその話は避けようと思っていたのだが、我慢ならない。避けることは困難だろう。覚悟を決め、私は口を開いた。
「眼っていえば、タカ、お前、事故で、その……」
思わず口ごもってしまったが、タカがそうそう、と言って繋いでくれる。
「俺の目ん玉無くなっちまったんだよ。俺はな、多分、あの看板のせいだと思ってる」
やっぱりかと思ったが、よく考えればありえない話だ。その飛び出し注意の看板を見た人間は、眼を失ってしまう。俄には信じがたい。
タカは続けた。
「その看板を見た数分後にトンネルに入った。異様に長くてな、やっと光が見えたと思った瞬間、眼の奥に違和感を感じたんだ」
「違和感か」
「そう。内側から眼を押し出されるような感じだった。暗い場所から光をみて、ピントを調節してんのかな、なんて考えてたんだけど──」
タカはそこで口ごもり、身を震わせた。大丈夫か? と尋ねると、問題ないと彼は深呼吸した。
「怖かったよ」
彼はゆっくりと言う。
「車は一人で乗ってたんだ。なのに、突然後ろから手が伸びてきた」
「──は?」
突拍子もない話だ。タかは昔から、怪談話の類いは信じないタイプだったはずなのだが。
「そして俺は眼を覆われた。と同時に、奴の指が眼に入り込んでくる感覚もあった。思い出すのも嫌なほどの激痛で……」
「そんなことって……」
「それで視界が閉じられた。ガードレールを突き破って、そのまま崖から真っ逆さま。気づいたらここだったわけだ」
「はぁ……正直なところ……」
「信じられない、だろう?」
そうだな、と言うと、タカは苦笑して項垂れた。
「今もなにも見えない。視界は真っ暗だ。もう二度と景色を見ることができないとなるとな、やっぱ、堪えるよ」
私は何も言うことができなかった。励ますことも、笑い飛ばすことも。違う話に逸らすことさえも出来ない。これ以上何を言っても、安い同情になるような気がしたからだ。
そして、数秒の沈黙が通り過ぎたその時だった。
「何か見える」
タカが、言葉を取り零すようにそう言った。明らかにその場の雰囲気が変わって、彼は少し身を起こした。眼球はないはずだ。なのになぜ、一体、何が見える?
彼の目線は私を飛び越えて、向かいの病床の上にかかる絵画辺りを漂っている。砂漠を駆ける夜汽車の絵。彼はもちろん、その絵の美しさに気づくことはない。
彼を一瞥すると、ひどく震えていた。呼吸もどんどん荒くなっているようだ。「どうした、何が見えるんだ?」と聞いても、彼は聞く耳を持たない。
白い、明るい、とぶつぶつ言う。思わず立ち上がってタカを覗き込む。
「おい、本当に大丈夫なのか」
すると、彼の震えがますます強まっていった。
そんな、お前。
やめろ、やめてくれ。
なんで。
ここから、出してくれ!
熱い、熱い!
彼は叫ぶ。四肢を振り回し、世界から逃げ出そうとしているかのようにもがき苦しんでいる。
「す、すぐに医者を呼んでくる!」
私は走った。ナースコールがあることなど頭の片隅にもなかった。廊下に飛び出し二回曲がったところで、白衣を着た医者らしき人物が通りかかる。
「おい、タクが──二○三号室の斎藤が変なんだ!」
必死にそう訴えかけると、医者はなぜか怪訝な顔をした。
「……二○三号室ですか? 斎藤さん……」
こいつは担当じゃないのか。それでもいい。タクの命が危ない。
「いいから来てくれ」
医者は頭をひねりながら、軽い駆け足でこちらについてくる。「急いでくれ!」と呼び掛ける。もどかしさを感じながら、タカのいる病室へと戻った。
恐ろしいほど静かだ。まさかタカは──。
奥の病床へと飛び込んだ。眼に写り込んだのは、誰もいないベッドだった。
彼はいなくなっていたのだ。
が、タカの形に凹んだベッドには、そこに嵌まるようにして、黒い煤が夥しく散っていた。影だけを残して去ったようだった。
後ろからついてきていた医者が不審そうに口を開く。
「ここには元から患者はいませんよ。病室を間違えてはいませんか?」
「……なに?」
そんなはずはない。確かに二○三号室だったはずだ。動けるような怪我でもなかったし、逃げ出したとは考えにくい。しかも、医師はこの黒い煤に気付いていないようだった。
「いや、俺の友人がここにいたんだ。斎藤孝博だよ。分からないのか?」
医者は首を振る。
「じゃあこの黒いのは何なんだよ」
「黒いの?」
そんなものはありませんけど、と医者は言った。俺にしか見えてない? そんな馬鹿なことがあるか。
「これが見えないのか」
「あなた、疲れているのではありませんか? 良かったら心療内科を──」
もういいと言って、私はおぼつかない足取りで病室を出た。雲を踏んでいるようで、足元に感覚がない。
受付のところまで辿り着くと、先の看護師がいた。斎藤孝博のことなんだが、と話しかけると、そんな患者さんはおりませんよ、と返ってきた。
タカが存在ごと消えた。まだ現実感を伴わないが、脳裏に一つの言葉が浮かんでいた。
──飛び出し注意の看板。
確かめにいかなくてはならない。病院を出て空を仰いだ。ベッドにこびりついていた黒い煤。影送りのようにして、人形の影が、青空に薄く映った。それは私を、じっとりと見下ろしていた。
*
私は山道を走っていた。U市とS市をつなぐこの道は整備が行き届いているため、快適に走ることができる。
あの看板を見落とさないよう、注意深くあたりを見渡しながら、速度を気持ち抑えて走る。二つトンネルを抜け、そろそろ三つ目かと思ったそのとき、左手にその看板はあった。
「あ──」
視界がスローモーションになり、心拍が早まる。
飛び出し注意の文字。その上に、生々しい眼が描かれた看板が乗っている。一重なのにマスカラは濃く、眼の中に黒子があるところまで見えた。
瞬間思い当たる。
──あれは、京子の眼ではないか?
私の妻の京子。一重で眼の中には黒子がある。毎日顔をあわせているから分かる。あれは妻の、京子の眼だ。
一体どういうことだろうと考える間に、看板を通りすぎていた。すぐにトンネルの入り口が見える。無意識のうちに、ハンドルを握る手に力がこもった。
タカの話によれば、このトンネルは長い。確か、光が見えた瞬間に気を付けなければならない。視界が手に覆われ、眼を──。
恐怖を感じ、一瞬だけ振り返った。もちろん後部座席には誰もいない。普段は使っていないバッグが無造作に放り投げられているだけだ。
トンネルの黒い口が目の前に広がる。私はスピードを上げ、その中へ飛び込んだ。
確かに長かった。体感三十分は走っただろうか。このまま二度と日の光を浴びることはないのだという確信めいた不安が車内に蔓延した頃に、ようやく出口の光が眼に入った。
安堵。そしてそれは、油断の裏返しだった。
私はすっかり失念していた。後ろから、眼を覆われ、ほじくりかえされてしまうということを。
視界の隅に細長い指が見えたときには、もう手遅れだった。恐ろしい力で眼に異物が入り込んでくる。身体が裏返しにされるような感覚に襲われ、その激痛に、冷や汗が全身からあふれでた。
気づいた時には、暗闇しか見えなかった。エンジン音だけが耳を貫き、何かにぶつかる音がしたかと思うと、身体が浮遊した。轟音と共に全身をあちこちにぶつけ、私の意識はぷっつりと途絶えた。
*
何も見えない。私の意識は浮上を果たしたのにも関わらず、視界が戻らない。まさか私も、眼球を失ってしまったというのか──そんなの嫌だ。
と、暗闇が薄く明度を上げた。ゆっくりと右側から明るさが戻り、視界が開けていく。そうか、見えなかったのではない。視界を布か何かで覆われていただけだったのだ。
天井が見える。ここは病院だろうかと身を起こそうとする。しかし、身体は動かない。いや、少し違う。身体が動いている感覚はあるのに、視界では動かない。感覚と現実が一致しないのだ。
眼だけを動かしていると、視界の隅で何かが動いた。京子だった。
お見舞いに来てくれたのかと思うと同時に、脳裏に甦る光景があった。あの看板。京子の眼を、その身に描いていた、あの看板。
妻の横には、見知らぬ男がいる。京子の腰を親しげに抱いて、こちらを見て笑う。その笑みにつられて、京子も笑った。
そして、二人はキスをした。
──そんな、お前。
浮気をしていたのか。くそ、俺が見ていない間に、なんてことを──。
すると、もう一人、スーツを身に纏った男が現れた。私の右側に立つ。彼は京子と浮気相手の男へ、慇懃に頭を下げた。
「この度は御愁傷様でした。それではこれより、旦那様のご遺体を火葬いたします」
火葬──。ここは葬儀場なのか。俺は今から燃やされるのか。
──やめろ、やめてくれ。
「これであなたと結婚できる」
「良かった。旦那さんが死んでくれたおかげで、無駄ないざこざを避けられたよ」
「あなた、愛してるわ」
「僕もだよ」
──なんで。
視界が上方向へスライドしていく。真面目そうな葬儀場の男が、私の乗っている台を押していく。やがて、私は狭い部屋に入れられた。何も見えない。下の方で、ドアが閉じる音がした。
暗闇の中で、激しく後悔する。タカはこの光景を見ていたのだ。眼球を失った身体で彼は、妻の浮気現場と、自分が火葬される様を見つめていたのだ。
ガスの臭いと共に、視界が一気に明るく、紅くなった。
──ここから出してくれ!
炎は容赦なく身を包む。息もまともにできず、焼け付く痛みが全身に広がり、それが消えることはない。身体の奥へ奥へ、痛みは皮膚を裂き、筋肉を、骨を潰す。
──熱い、熱い!
あの看板。後ろから伸びてきた手。タカの最期。そんなことよりも、私は憎しみに燃えていた。許さない。浮気した京子を。
例え私が死んでも、ずっと監視してやる。この世のどこに行ったとしても、私はお前たちを逃がさない。
忘れるな。
特に、看板には気を付けた方がいい。私はそこから、お前たちを見ているだろうから。
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