空瓶

【日新新聞デジタル 二千二十三年八月十九日の記事から抜粋】


 今月十八日午後十一時頃、大阪府大阪市天王寺区大道六丁目にあるマンションの一室に住む須和恵子さん(72)の四十代の長女から、「母が突然倒れ、冷たくなっている」と百十九番通報があった。救急隊員が駆けつけたところ、通報をした長女も須和恵子さんと被さるように倒れており、その場でどちらも死亡していたことが確認された。

その通報を皮切りとし、翌日にかけて同マンションより何十件もの通報が相次いだ。その内容は右通報と同様のもので、不審に思った警察が現場へ急行する事態へと発展した。現在、全住民二百三十二名のうち、六十二名が死亡、三十六名が意識不明の重体、十五名がだるさなどの貧血に類似する症状、及び幻覚、幻聴を訴えている。未だ原因は不明であるが、警察は、「水道などのインフラ設備が原因と考えられるため、水道水を飲むなどの行為は控えるように」と同マンションの住民に呼びかけている。

屋上では、同マンションの一階に住んでいる古賀正人さん(20)が意識不明の状態で発見され、病院に搬送された。現在も意識は回復していない。この事件との関係は不明である。


        *


 蝉の声が止んだ。

 生への執着をそのまま音にしたような叫び。明日を人生最後の日にしようとしている僕からすれば、生に実直な彼らの姿勢はとても尊敬できたし、毎朝無条件に生命を感じられるという点で、とても有り難いものだった。だからなんというか、有り体に言えば寂しい。

 蝉がいなくなった朝は静かだ。寝転びながら、ふと最後の一匹に思いを馳せた。戦友も番いも居ない中で鳴かなければならない、哀れな一匹に。彼は孤独に鳴くのか、優越感に鳴くのか──。

 どちらにしろ、どうせ全力で鳴いていたんだろう。

 僕だったら諦めて鳴かない、と思いながら、寝汗にまみれた身体を起こした。カーテンの隙間から、刃のような陽光が四畳半を一刀両断している。このまま発火でもしそうな勢いだったので、右手を伸ばしてカーテンを開けた。

──ああ、全力だ。

 夏の太陽を浴びる度に、そう思う。全力で地球を照らし、それに蝉たちは全力で応える。その構図に、僕は決して参加することはない。

「大型で非常に強い台風八号は依然として暴風域を伴っており、勢力を保ちながら北上中です。このままの予報で行きますと、今週末に接近、上陸の可能性があります。該当地域の方は、引き続き最新の台風情報にご注意ください」

 点けっぱなしのテレビ。その中に、天気予報士の真面目くさった顔がある。堅い顔をしていると思ったら、直ぐに笑顔になるあの顔が。

 台風だと言われても、外はいじらしいほどに晴れている。きっと彼が言うんだから、今週末は土砂降りなんだろう。でも、僕には関係ない。

 台風が来る頃、僕はもうここにいない。


 生きているとお腹が減る。卵ご飯を作って、飲み込むようにかきこんだ。

 眼前に迫り来る黄色いご飯の向こう、背の低いちゃぶ台にぽつんと乗った、茶色い瓶が見える。昨日家に届いて、そのまま置きっぱなしにしていた。

──RBCdecreaser

 そう書かれた、茶色の瓶。パソコンの、無表情な字体が張り付いている。中には錠剤が、これでもかというほど入っていた。

 オロナミンCほどのそれを手にとって、なんとなく振ってみたりした後、蓋を開けて匂いを嗅いだ。無臭。

 この薬を届けてくれた、フィリピン系の顔が思い出される。きっと技術系で留学した女学生で、闇バイトか何かなのだろう。日本語は片言だったが、中々上手かった。

──おめでとございます。あなたはこれ買った、ちょうど百人目の人です。だから、いっぱい入れました。二個で死ねます。余った分は、捨てるか、色んな人、くばってください。

 そう言って手渡された瓶を見て、微かに手が震えたのを覚えている。俺が百人目。そういった偶然に、こんな時に見舞われるなんて。まるで運命に死ねと言われているようで、気色が悪かった。

 不思議なのは、この次に言われた言葉だった。

──気をつけてください。これ、効くのにきっかり一日かかります。飲んだ後に後悔しちゃうかもしれない時間、いっぱいあるので、覚悟して飲んで下さい。それじゃあ。

 そう言って、彼女は帰って行った。玄関のドアを閉じて、瓶に目を落とす。

 きっかり一日。死ぬのが確定してからの一日。それを過ごす、覚悟。

 これを買う時点で、もうそんなものは決まっている。高校に入ったあたりからだろうか。何度も思考を往復し、寄り道もした。もう行くところはない。僕は今、突き当たりで蹲っている。

もういいだろうと。


 人生最後のバイトに行って、帰ってきた。太陽は傾き始め、部屋はほんのり暗くなっている。疲れた身体を部屋の真ん中において、深い溜め息をついた。

 最後くらい、行かなくて良かったのかもしれない。でも、僕の中途半端な良心が許さなかった。人に迷惑を掛けてはいけないと、この世界に教え込まれたから。それで僕は、自分を優先して生きられなくなった。

 茜に染まった街を見ながら、蓋を開ける。左手に二錠だけ取り出して、右手にコップを持った。テレビは点けっぱなし。両手が塞がったまま立ち尽くしている僕の横を、コロコロと変わるニュースが通り過ぎてゆく。

──今日午前三時、大阪府枚方市の民家で火災が発生し、この家に住んでいる──。

──八月十一日、天王寺動物園で、ジャイアントパンダの赤ちゃんが生まれ──。

──タレントでお笑い芸人の葛西ひろきさんが命を絶って今日でちょうど一年──。

──当番組でMCを務めてくれている長野アナが、先日、第一子を妊娠致しました!──。

 今日も相変わらず、命が回っている。不平等と不条理が潜んだこのよく分からない世界を、今日も誰かが出入りしている。もしこの世界にもう一度入ることがあるなら、そのときは──。

 左の手の平をゆっくり口に当てる。小さな錠剤が口の中に入る。

 かすかな苦みと死の予感に、舌が収縮する。やっぱり無理か。

 くそう、くそうと頭が鳴る。満足に生きることも出来なければ、死ぬこともできない。自分に怒りを向け、半ば勢いでコップを無理矢理口に持って行った。ぐっと天井を仰ぐ。

 気付いたら、左手の二錠はなくなっていて、右手のコップは空っぽだった。

 足はびちゃびちゃで、その横に泡立って黄色くなった錠剤が一粒落ちている。

 僕は一錠だけ飲んで、あとは吐き出していた。

テレビの横の、電波時計を見る。時刻は十八時二十二分。同時に、僕のタイムリミットは明日の十八時二十二分に決まった。僕は死ねるのだろうか。望みは薄いだろう。今からもう一つ飲めばいいのに、もうそんな気にはなれなかった。

 僕はこんなときも、中途半端だ。


 外が暗くなったので、布団に潜った。電気を点けてまで、何かをしようという気は怒らなかった。

 目線の先。小さなこの部屋の壁一面を覆う襖。その上の天袋。暗くてよく分からないが、そこの襖が、ひとりでに開いた気がした。早まる鼓動を感じながら、じとっと目を凝らす。

「ねえ」

 天袋の中の暗闇から、女の声で呼び声がした。身体が飛び上がり、思わず半身の姿勢になる。心拍数が、胸を突き破るほどに上がった。

「誰?」

 開いた天袋を見つめても、顔はまったく見えない。ぼんやりと襖を掴む手と、天袋が吐き出したような髪の毛が見える。いつからいるんだと訊ねてみる。すると掠れた声で、

「まあ、ついさっきとも言えるし、ずっとここにいたと言えるし──」

 と返ってきた。暗闇に消え入るような声だ、と思ったら、今度ははっきりした声で、

「あなた、死のうとしたでしょ。でも失敗した」と言われた。

 夏だというのに、その言葉で身体が冷えた。見てたのか。あの、情けない僕を。

「辛いでしょ。そんな宙ぶらりんで生きてたら」

「そう……ですね」

 顔は見えないのに、親しげに話してくるから、素直に頷いてしまう。そして思わず、突飛な質問をしてしまった。

「あの、あなたはなんで生きてるんですか」

 言ってから、あまりの脈絡の無さに後悔する。女はうーん、とうなりつつも、そうねぇ、と話し出してくれた。

「端的に言えば、死ぬのは怖くて、生きるのは現状維持だからよ」

「現状維持ですか?」

「うん。生きることは、とりあえずは怖くないでしょ? ただそれだけ。死ぬ勇気はないの。だから生きる。あなたと同じね」

 生きることは、とりあえず怖くない。確かにそうだ。

「もし死後の世界があって、そこが楽しいところだって分かってたら、みんな死ぬと思うよ? 生きることが楽しいから生きるっていう人は、実際あんまいないんじゃないかな」

 その時、強烈に、彼女の顔が見たいと思った。あなたは普通だと言われたような気がして、たったそれだけの言葉に、安心を覚えてしまったのかもしれない。

「あ、あの……」

 そう言ったときには、もう天袋は閉まっていた。慌てて電気を点けて中を確認しても、そこには何もなかった。とても奇妙だが、恐怖はない。もう一度電気を消して、布団にもぐった。身体がだるくて、目を閉じた。

 

 気付いたら、カーテンから光が覗いていた。相も変わらず、太陽は部屋を焼こうとしている。

 いつの間にか眠っていたらしい。昨日のあれは──。

 ふらりと立ち上がって、あの天袋を覗いた。やはり何もいない。けれど、長い髪が数本落ちていた。幻覚の類いかと思っていたのに。これじゃあ割り切れないじゃないか。

 ふわふわした感情のまま、卵ご飯をかきこんで着替える。今日くらいは外に出よう。

 玄関ドアを開ける。中よりも外の方が涼しくて驚いた。そうか、僕の部屋は息苦しかったんだな。女の人に、悪いことをした。

 時刻はもう十時だ。タイムリミットまで、あと八時間といったところか。

 いつもバイトに行く道と、逆を行く。三回ほど曲がっただけで、自分の知らない道に出た。今までどれほど狭い世界に生きていたのか、ほとほと自分が嫌になる。

 それから二十分ほど歩くと、住宅街を抜けて、畑が現れるようになった。蝉の時期は少し過ぎて、名前の分からない虫の鳴き声がする。半分あぜ道のような道路を進んでいると、古民家が密集して建つ地区についた。

 いちばん手前の古民家を、ちらりと覗き込んでみる。生け垣と小さな庭の向こうは、壁一面が窓硝子になっており、中が丸見えだった。和室だ。中央に何かぶら下がっている、と思った瞬間、戦慄した。

 人だった。中年の男が、こちらに背を向けた姿勢で、首を吊っている。人とは思えないほど長く伸びた首。つま先から垂れる、泥のような液体。床に小さく出来た、茶色い水たまり。

 身体が左右にゆらゆら揺れている。明日は晴れと予言するときの、てるてる坊主を連想した。人が物に見えてしまった瞬間、肺から空気がすべて抜けた感覚がした。誰かに掴まれたように、足もまったく動かない。

 死体はまだ揺れている。揺れて揺れて、ゆっくりとこちらを向き始めた。ツーッと、頬に汗が伝う。見るな、こっちを見るな。そんな顔を見せられたら、顔を見てしまったら、死ぬのが怖くなってしまうじゃないか──。

 それでも死体は回り続ける。とうとう耳をこちらに向けた。その横顔に、少し違和感がある。頬が、つり上がっているように見える。まさか、まさか。

 死体がこちらを向いた瞬間、僕は走り出していた。古民家から離れるように、歩いてきたあぜ道を、全力疾走した。

 死体は、目を開けて笑っていた。


 どれだけ走ったのか、気付いたら、知らない公園にいた。ブランコやら、シーソーやら、滑り台つきのシャングルジムもある。そこで遊ぶ子供たちの生命力に、頭がくらくらした。

 ベンチに腰掛けて、頭を抱える。さっき見た、あの死体──。へばりついたような笑顔が、脳裏に蘇った。なんで笑ったのか。死の奇妙さが際だって、やたら怖い。半日後に来るかもしれない自分の死。それに対する恐怖が、膨れ上がるようだった。

「誰か、いませんか」

 長く下を向いて、やっと顔をあげたとき、ベンチのすぐ後ろから男の声が聞こえてきた。はっと後ろに目をやる。しかし誰も居ない。

「すいません、誰か」

 水分のない、掠れた声だ。助けを求めている様子なので、無視するわけにもいかない。そっと立ち上がり、周囲を見回してみた。声はどうやら下からする。ベンチの後ろには、大の大人が一人入れるほどの、側溝があった。まさか、この中にいるとでも言うのか。

 なんとなく、側溝に耳を近づける。公園の奥の方へ五、六歩進んだあたりで、声がはっきりとクリアに聞こえた。

「すいません」

 側溝には、蓋がついている。金網ではないから、中の様子は全く見えない。本当に、この下にいるのか。

「水を、水をくださいませんか」

 いよいよくっきりと聞こえる。蓋と蓋の間にある、少しの隙間を覗いてみた。すると、その隙間の中で、何かが揺れる気配がした。少し顔を近づけたその時、人間の指が、にゅっと穴から飛び出してきたのだった。

 思わずうわっ、と声を出してしまう。一瞬逃げようかと思ったが、「すいません!」という一際大きい声が聞こえて、ぐっと逃げ出したい衝動を堪えた。

「人がいるなら、お願いします。ここの隙間から、水を入れてくださいませんか」

 あまりに切実なその声色に、返事をしないわけにはいかなかった。「待っていて下さい、水買ってきますから」と口が先に喋っていて、それにつられるようにして、僕は自販機へと走った。

 水を買ってきて、側溝にしゃがみ込む。「じゃあ、入れますね」と言って、慎重にペットボトルを傾ける。飲めているのかもよく分からない。しばらく入れ続けていると、「ごほごほっ」という咳き込んだ声が聞こえたので、ばっと手を引いた。

「すいません、入れすぎましたか?」

「いやいや、大丈夫です。生き返りました。本当にありがとうございました」

「あ、いえいえ」

 一瞬このまま立ち去ろうとした自分に驚いた。この男の人を助けてあげなければいけない。こんなにも自分は他人への興味が薄くなっていたのかと、自分に呆れた。ペットボトルの蓋を閉めて、側溝の穴に語りかける。

「あの、なんでこんなところにいるんですか? もしかして、出れなくなってます? この蓋、全部取り外して──」

「いや、結構です」

 凜とした、芯のある声だった。思わず、「は?」という音が零れてしまう。

「あの、私、好きでここにいるんですよ。他人と直で対面するのが怖くて、こんなところにいるんです。家もないしね」

「好きでって……一日中ですか?」

「そうですね……。足が生きていたときは、場所を変えながら生活してたんですが、こうなってからは、もう三日間くらいここにいます」

 まさか、ずっとこの側溝で横たわっているなんて。後ろではしゃぐ子供とのギャップに、思わず我が目を疑う。こんなの子供からしたら、恐怖でしかないじゃないか。

「どうやって生きてるんです?」

「それは、あなたみたいな親切な人に、水とか食料とかを分けてもらうんです。だからあなたには、とても感謝している」

「そんな……正気じゃないですよ」

 側溝の中から、「ふっ」と、鼻で笑うような声が聞こえた。

「それもそうですよね。自分でも分かってるんです。人に会いたくないからって、家がないからって、こんなとこに居座るのは変ですもんね。じゃあ自殺すればいいのかって言うと、そうじゃないし、なんとか生きようと思った結果、ここに落ち着いてるんです。親切な人、結構多いですから」

「自殺ってやっぱ、駄目ですかね」ポロッと、そんな質問が零れていた。

「え?」

「実は僕、今日、自殺しちゃうかもしれないんです」

「そうですか……」

 少しの沈黙が流れた。こっちの会話が途切れた分、子供の笑い声が大きくなる。

「まあ、するかしないかは個人の自由ですし、他人かとやかく言うことではないと思いますけどね。自分が決めたことを実行する権利くらい、誰もが持っているはずですから」

 自殺を肯定するような発言が飛び出してきて、少し寂しくなったのはなぜだろう。

「あなたはなんで、そうまでして生きるんですか?」

「私ですか……」

 小さく頷く。蓋で見えないはずだが、僕の頷きを見届けたかのような、彼の視線を感じた。

「生きることしかできないから……ですかね。ちょっと、くさいセリフかもしれませんけど」

 そう言って、彼は笑う。

「死ぬまで生きるっていう、シンプルなことしてるだけなんです。僕は何の取り柄もなくて、学生時代は世界の隅っこにいるような人間でしたけど、最近は自分に優しくなったんですよ」

「優しく?」

「ええ。人間として百点は目指さなくてもいいよなって。生き物として、生きるためだけに生きればいいかなと……ネガティブなんだか、ポジティブなんだか」

 じゃあ逆に、と、側溝の中で音がした。太陽は真上から僕たちを照らしている。穴が照らされて、少しだけ彼の目が見えた。

「あなたはなんで死のうとしてるんですか?」

 その質問に、僕の思考はストップした。あまりにシンプルで、愚直で、考えたこともなかった気がする。漠然とした感情で動いていたことが、その質問ではっきりと分かった。

「うーんと、そのー。ああ、そうですね、うん」

 言葉の切れ端が見つかった。たぐり寄せてみる。

「大人になるってのが、よく分からなくなって。不安で。逃げようと思ったんです」

「そうか。『大人になる』か。それで?」

「親とか先生とかに、『そんなんじゃ社会でやっていけないよ。大人になりさない。社会は厳しいんだからね』って、よく言われたんです。それで、僕思ったんですよ。『社会は楽しいぞ、楽しめよ』って言ってくれる人がなんでいないんだろうって。そんなに希望のない世界なら、特になんの才能も持ち合わせていない僕ですし、もうここらで、社会に出る前に逃げてもいいんじゃないかなって思ったんですよね。僕は大人になれないし、なりたくないと思ったんですよ」

 そこまで吐き出すと、側溝から笑い声が聞こえた。

「ははっ、考えすぎですよ。世の中ちゃんと大人してる人なんて、あんまいないです」

「そうですかね……」

「うんうん。見た目が大人なだけ。みんな中身子供ですよ。違いなんて、お酒飲むか飲まないかくらいじゃないですかね」

 そのとき、うっ、と穴から聞こえた。

「どうしたんですか?」

「ああ、さっき足が悪い的なこと言いましたでしょ? だから三日間このままだって」

「あ、そうでしたね。大丈夫なんですか? 病院とか……」

「いや、いいんです。ちょっと生々しい話になるけど、私の足、もうないんですよ」

「ない?」

「ええ。側溝の中って、ネズミがいっぱいるんです。全然動かないからか、もう死んでると思われてるらしくて。もう膝下の感覚も全部ありません」

「……そんな」

 あまりに信じられないような話に思わず頭を振る。無意識に、側溝へと手が伸びる。

「あ、開けないで下さい」

 その諭すような話し方に、大人しく手を引っ込めるしかなかった。

「でも、このままじゃ死んじゃいますよ」

「いいんです。もう生き抜きました。足がないからもう歩いてどこにもいけないし、ここでいいです。あ、最後にいいですかね」

「はい?」

「天王寺区の大道六丁目にあるマンションの屋上に、僕の友人が住んでるんです。ちょっと様子見てみてくれませんか。大丈夫、別に私に伝えなくてもいいですから。見に行ってくれるだけで」

 そんな偶然があるのか。

「そこ、僕が住んでるとこです」

「うそ! 偶然ってあるもんですね。じゃあ、見に行ってくれませんか? 私の名前出したら分かると思うんで」

「名前は何て言うんですか?」

「ああ、古賀正人です」


 あの男は、僕と同じ名前だった。ダメ元で漢字も聞いてみると、これも同じだった。不思議な偶然で、正直気持ち悪い。

 ふと空腹感に苛まれて、寿司のチェーン店に入った。時刻は昼の二時で、出る頃にはもう四時になっていた。あと二時間二十分ほど。あとそれだけで、僕の人生は終わるかもしれない。終わらないかもしれない。

 自宅マンションの錆びた階段を上っていると、段々息が荒くなってくる。怯え、緊張、不安。似たような感情が、ごちゃ混ぜになる。

 六階建てのマンション。その階段を上りきると、硝子が嵌められたドアがある。ちょうど太陽が硝子を透けて、僕の顔を照らした。あの世への道みたいだと思った。

 ドアを開け、外に出た。生ぬるい風が通り過ぎ、汗ばんだ肌に心地いい。流れる車の音や、度々鳴くカラスの鳴き声も、これまた良いものだった。

 端まで行って、景色を眺めた。青空と、羊みたいな雲と、立ち並ぶ建物にぽつぽつある緑。地べたで生きているだけでは分からない、世界の広さを感じる。フェンスのない屋上で心底良かったと思う。あったら、とらわれているみたいで面白くなかっただろう。

 そういえば、ここに人がいるらしい。決してそんな様子はないが……。

 ぼんっと、音が聞こえた。続けてもう一度、ぼんっと鳴る。音がした方向を見ると、そこには貯水槽があった。コンテナ型で、何個も連なった仮設トイレにも見える。

 側溝に住む人の友人だから、もしかするかもしれない。上に登る梯子を登って、上にある扉を開けた。

「うわっ」

 僕も、中にいた人も、ほぼ同時に叫んだ。

「なんやねん兄ちゃん、なんでこんなとこにおんねん」

「あ、いや……あなたこそそこで何してるんですか……」

 長い髪に、無精髭を生やした中年の男が、全裸で水につかっていた。

「あんたに関係ないやろがい。出てってくれ」

「あの、古賀正人さんに様子見てきてくれっていわれて……」

「おお、古賀さんかいな」

 彼の名前を出した途端、その男はこっちを向いて、はち切れんばかりの笑顔になった。

「久しぶりに名前聞いたわ。どうやあの人、元気にしてんの?」

 想像でしかないが、足のない彼の姿が思い出された。言い出せずにもごもごしていると、男が諦めたような口調で言う。

「ああ、もう死ぬんやな。そうか、ねずみにでも食われてるんやろな」

「知ってるんですか……」

「まあ、なんとなく分かるわ。実は俺も死のうと思ってここにおるんやけどなあ」

 そうなのか、とすんなり入ってきた。自分も数時間後に死ぬかもしれない身だ。謎の親近感が沸く。

「あの、僕ももうすぐ死ぬかもしれなくて……」

 男の顔が、訝しげに歪む。

「そうなん? 飛び降り?」

「いや、服毒自殺というかなんというか……」

「お、まじで? ちょうどええわ。俺な、飛び降り自殺しようと思ってここ来てみてんけどさ、いざしようと思ったら、めっちゃ怖くてな。住んだら高さに慣れるかな思て、ここに住んでんねん。でも君がおるんやったら別やな。その薬、余ったりしてない?」

──余った分は、捨てるか、色んな人、くばってください。

 フィリピン系のあの顔が、脳裏に浮かんだ。何十錠も余っている。ズボンのポッケに入れていたあの瓶を取り出し、男に手渡した。

「うわ、めっちゃあるやん。何個飲めばいいん?」

「二錠です。あと、効くのに一日かかります」

「なんやそら。あんさん、こんな瓶持ち歩いて、何回死ぬつもりやねんな」

「ああ、いや……」

「もう飲んだんやったら、全部もろていい? どうせすぐ死ぬんやろ?」

 返答に詰まった。この瓶を持ってきたのは、どこかのタイミングで飲み損ねた一錠を飲めたらいいと思ったからだった。ここで全部渡せば──いや、もういい。死んでも、死ななくても、もういいかもしれない。

「じゃあ、どうぞ」

「ありがと」

 男は瓶を受け取って、それを眺め回した。

「なんか英語いっぱい書いてあるけど、分かるん?」

「いや、わかんないです。じゃあ、そろそろ時間なんで、いきますね」

「うん。ありがとうな。古賀さんにもよろしく言っといて」

 はい、といって、蓋を閉めた。あと一時間ほどで六時だ。人と話していると、時間がよく進む。

 足を外に放り出して、座った。太陽は傾き出す一歩手前。オレンジ色の街が、待ち遠しい。

 隣にカラスが止まった。

「とりあえずさ、死んだように生きてみれば」

 顔は、あの首つり死体だった。あの笑顔で、こちらを見上げてくる。

「うん。まあ、もし生きてたらね」

 カラスが膝にちょこんと座る。

「ほら、笑ってみろよ。俺みたいにさ。笑顔はいいぞ。色んな意味があるから。どうとでも解釈できる。人生みたいだろ」

 僕はニッと笑って、カラスを撫でた。

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