白と黒

 ふっと沈んで、目が覚めた。

 パーンと軽快な音で汽笛が鳴っている。男は大きく欠伸をして、身体を伸ばした。血液が全身に巡り、なんとなく視界がクリアになる。まるで列車が男を歓迎するかのように、汽笛の残響が、心地よく男の耳をくすぐった。

 ふと横を向いて、窓の外を眺める。月の光を纏って、砂が白い。地平線の向こうまで広がるそれを見ると、どこか自分がちっぽけに思えてしまう。夜空と砂。黒と白。モノクロームなその景色は、現実離れしていた。砂以外なにもない。が、そのシンプルさ故に、洗練された印象を抱く。

 そのまま景色を楽しんでいると、やがて列車の前方から、うっすらと煙が流れてきた。どうやら今の時代には珍しく、蒸気機関車のようだ。

 男は、この景色の中を蒸気機関車が走る姿を想像してみた。絵画みたいだ。透き通った夜空の下、砂漠を蒸気機関車が駆け抜ける。自分がその絵の中にいると思うと、少し良い気分になった。

「おい、君」

 突然、隣からしわがれた声が飛んできた。男は驚いて、はじかれたように振り向く。そこには、全く見覚えのない老人が座っていた。黒と白のチェック柄のセーターに、茶色のコートを羽織り、黒いハンチング帽を被っている。その黒い帽子は見事な白髪と相まって、丁度窓から見える景色と同じような感じだった。

「君、名前は?」

「あぁ、私は、えーっと……あれ?」

 名前が、思い出せなかった。

 当惑した。名前は、自分の根幹を担う重要な要素に違いない。そんなものも思い出せないなんて。さすがに名前を忘れるのは寝ぼけているせいにできない。男はこれまでの人生で経験したことのない現象に、あからさまに狼狽えた。

記憶喪失。そんな言葉が脳裏をかすめる。男は頭を抱えて、必死に記憶をほじくり返した──が、一文字目すらも思い出すことはできなかった。

「まぁ、分からんよな。意地悪な質問をしてすまんかった」

 男は皮肉を言われたのかと思って、老人を怪訝な目で睨んだ。

「そんなに怒らないでくれ。決して馬鹿にしたわけじゃないから」

 老人はそう言うと、少しだけ眉を上げた。

「それにお前さんだけが名前を忘れた訳じゃない。かく言う私もだ」

「え? そうなんですか」

「ああ。一応言っておくが、私がぼけてる訳じゃないぞ。ちゃんと思考ははっきりしとるからな」

「はぁ」

 老人は、男の様子を気にもとめず、顔を近づけてきて言った。

「君は他のことも全然思い出せないか?」

 男は頭をひねる。他のこと……。

 自分の名前、年齢、職業、家族、故郷──色々と頭の中に浮かべてはみたものの、何一つとして思い出せるものはない。記憶がないと、自分が自分ではないみたいだ。

「何も……思い出せないですね」

「やっぱりそうか……」

 老人は落胆したように上を見た。

「ということは、おじいさんも?」

「ああ、同じくだ」

 老人は自嘲気味に言った。

 自分のことが何も分からない。奇妙な感覚だ。しかも、隣の老人も記憶喪失だときている。やはりここは、相当現実離れしているらしい。

 ここは一体どこなのか。この列車はどこに向かっているのか。そもそも自分はなぜ、この列車に乗っているのか。そして、自分と老人はなぜ記憶喪失なのか──男はまとまりがつかないまま、隣の老人に向かって、矢継ぎ早に質問をぶつけた。

「その質問全部に一言で答えるとすれば──」

「──すれば?」

 老人は少し間を置いて、男の目をみて言い放った。

「──分からん」

「なんじゃそりゃ」

 二人の間で、細波のような笑いが起こった。堅物そうな見た目とは裏腹に、意外と明るい人柄なのかもしれない。男は少し、老人にいい印象を持った。

「はは、冗談だよ。私はこの列車に乗って長いから、周りを観察していれば少しくらい分かることはある」

「長いって──おじいさんは、一体どこから乗ってるんです?」

「どこからとかは分からん。覚えてないからな。でも、私がここで目を覚ましてから、多分一ヶ月ぐらいは経っているような気がする。まぁ確認できる時計もないから、正確なところは分からないがな」

「嘘でしょ」

「いや、これは本当だ」

 頭が痛くなった。しかし驚く前に、もう一つ確認することがある。

「この列車は、その間に止まりましたか? 例えば──駅とかに」

「いや、ずっと走ったままだ」

 老人が食い気味に答えた。頭の痛みが増した。これが本当なら、自分は大変な状況にいるのかもしれない。こういう時は親とか子どもの顔を思い浮かべて助けを懇願するのだろうが、その思い出す顔が思い出せない。男は先が見通せない不安から、大きな溜め息を吐いた。

「まあまあ、今のところ死ぬようなことはないから、とりあえずは大丈夫だ」

 老人は笑顔で言った。なかなか楽観的な発言だ。そんな感じで大丈夫だろうかと思ったが、この老人のおかげで少し気が楽になった。

「あなたが横で良かったです。気が紛れます」

「それは良かった。実は私もずっと一人で座ってたから、話せる人ができて嬉しいよ」

「そうだったんですね」

 そこまで話をして、男は少し疑問に思った。

 自分がこの列車に乗り込んだ瞬間──というか、存在し始めた瞬間、この老人からは自分がどう見えたのだろう? 急に現れたのか、それとも、ちゃんと自分は真ん中の通路を通って、おじいさんの前を横切り、この窓側の席に座ったのだろうか。

 そんな疑問がなぜか老人には伝わったようで、こちらから質問をせずとも答えてくれた。

「私がまばたきした隙に、急に君が横に現れたもんだから、驚いて心臓が飛び出るかと思ったよ」

「まじか……」

 一番可能性が低いと思っていた回答が返ってきた。何もないところから急に現れる。そんな馬鹿なことがあるのか? どうやら、ここでは『常識』が通じないらしい。『常識』というのは、所詮人間が作ったものに過ぎないと痛感する。

 男はさらに質問を重ねた。

「さっき言ってた、『少し分かったこと』って?」

「ああ、それはな──あそこの席を見てみろ」

 老人は、通路を挟んで二つ前の座席を指さして言った。男も言われるままに目線を向けると、そこには白い花柄のブラウスに、ピンクのベストを着た小綺麗なおばあさんが座っていた。

「ちょっとおかしいと思わんか?」

「え? どこがです?」

 男がそう言った時、突然列車が大きく揺れた。身体が揺れて、老人と肩が当たる。

 その瞬間、どこがおかしいのかが分かった。全く動いてない。あのおばあさんは、先ほどの大きな揺れにもかかわらず、奇妙なほど動かなかった。まるでおばあさんの周りだけ、空間が固まっているかのような──

「確かに、ぴくりとも動きませんでしたね」

「そうだろ? でもな、私がここで目覚めた時は、まだ彼女は動いていた」

「え? それって──」

 男の言葉を遮って、老人が険しい顔で話を続けた。

「だから私は、こう考えている。この列車に長く居続けると、身体が固まって、人形のようになってしまうんじゃないかとな」

 男は、またまた頭が痛くなった。もしそうだとすれば、タイムリミットがあるということだ。早くここから出なくてはいけない。だとしても、一体どこから出れば……

「だとしたら、僕たちもじきに身体が一切動かなくなるってことですよね?」

 気が動転して、すぐに分かるようなことをいちいち聞いてしまう。

「ああ、そういうことになるな。実を言うと、私ももう下半身が動かない」

「嘘……」

「残念ながら、本当だ」

 老人が、神妙な面持ちで言った。

「さっき、『死ぬようなことはない』って言ってたじゃないですか!」

「そうだっけ?」

 これはまずい。おばあさんが動かないことが分かった時は、なんとなく他人事のような気がしたが、いざ隣の人が動かなくなってきていると、さすがに危機感を感じた。

 何か分かることがないだろうかと、男は改めて周りを見渡す。後ろと前には、自分が今座っているのと同じような座席が縦に二列、通路を挟んでもう二列が並び、天井では、質素な電球が頼りなく列車内を照らしている。窓は大きめで、なかなか開放感があった。壁や天井は木で出来ており、座席の布地部分の緑といい具合にマッチして、レトロな感じを醸し出していた。他には──特に何もないか。

 男は何も収穫がなかったことにがっかりして、もう一度老婆の方を見た。先ほどとは違う違和感がする。なんだろう。男は老婆の綺麗なお団子を凝視しながら考えた。

──既視感だ。

 俺は、彼女に会ったことがあるんじゃないか? 絶対とは言い切れないが、自分の直感がそう訴えている。男はそのことを老人に伝えた。

「やっぱり、君もそう思うか」

 どうやら老人も既視感を抱くようだ。

「おじいさんもですか」

「ああ。あの人を見ていると、なんだか懐かしいような、心がぎゅっとするような……とにかく、どこかで確実に会っていると思う」

 老人の抱く感情は、男が抱くものよりも強いようだ。

「もしかして、奥さんとかじゃないですか?」

「そうかなあ……実は話してみようと声を掛けたことがあるんだが、すでに彼女は固まってて、全く返事をしてくれんかったんだ」

「そうですか……彼女はもう手遅れってことですね」

「そうだな」

 彼女と話ができれば、もう少し何か分かることがあったかもしれないのに。男は脱出する糸口を見失ったような気がして、不安に駆られた。


 男がしばらく黙り込んでいると、唐突に老人が口を開いた。

「虚しいよな」

「んえ?」

 あまりに突然だったので、変な感じで返事をしてしまった。

「彼女のこともそうだが、自分のことすら何も思い出せない。こんなに虚しいことがあるか?」

 男はとりあえず同意したが、ぼんやりとしか理解出来なかった。

「まあお前さんはまだ若いから、そんなに虚しいとは感じないかも知れない。でも、私の歳くらいになると、虚しいんだよ。といっても、何歳までかは思い出せないんだがね。自分の手を見てなんとなく分かる。私は死ぬ寸前の老人だよ。分かるかな? 『死ぬ寸前』だ。今までいろんな人に会って、いろんなことをしてきて、いろんなことを積み重ねてきたと思うんだ。なのに、何も覚えていない。私の人生は、一体何だったんだろう。記憶に残らないくらい、薄いものだったのか。なんにしろ、全部記憶を失うと、今まで生きてきた意味が全て捨てられてしまったような気分になるんだ。この列車で私はずっと一人だったから、余計にそんなことを考えてしまう。君はどうだ?」

「僕は──怖いです」

 とても正直な感想だった。

「そうか。そうだよな」

 老人は頷いて、言葉を続けた。

「一人でこの列車の正体を考えていて、一つ思ったことがある」

 老人は、何か重大なことを言うように、少しためらっていた。

「なんですか?」

「この列車は、幽霊列車なんじゃないかな」

「幽霊列車?」

 この老人は、何を言っているのか。やはりぼけているんじゃないか?

「変なことを言っているのは分かるが、まあ老人の戯言だと思って聞いて欲しい」

「はあ、分かりました」

 黙って時間が過ぎていくよりはいいだろうと、男は頷いた。

「ありがとう。君は優しいな」

 老人は微笑んで続ける。

「まず幽霊列車というのは、君も知っているだろうが、あの世へと連れて行ってくれる列車のことだ。『連れて行ってくれる』のか、『連れて行かれる』のかは分からんがな」

「幽霊列車……ゲゲゲの鬼太郎とかで出てくるやつですよね?」

「そうそう。それで、私たちは今、生死の狭間にいるんじゃないだろうか」

 自分たちが死にかけている? 男は突拍子もない老人の考えにたじろぐ。

「と、言うと?」

「例えば、君は今、全身動けるだろう?」

「ええ、そうですね」

 この人は何が言いたいのだろうか。

「対してあのおばあさんはもう全く動けない訳だ」

 なるほど。なんとなく分かった。

「つまり、彼女はもう死んでいて、私は危険な状態にいるけどまだ一応生きているってことですね?」

 男は声のボリュームを一段階大きくして言った。

「そう。そういうことだ。だから私は今、半分死んでいるってことだ」

 老人は、冗談のように言った。

「それって、冗談になってないですよ」

 老人はふふ、と笑って、さらに続ける。

「私はもう下半身が全く動かない。もう死を待つのみなんだと思う。でも、君は違う。まだ動けるんだ」

 老人は語調を強めて、男の方を真っ直ぐに見ている。

「まだ……動ける」

「そうだ! 君はまだ間に合う。この列車から脱出するんだ!」

 老人は、男の肩を掴み、目を見開いて言った。

「でも、どこから出るっていうんです? そもそも、この列車は止まらないわけでしょう? 駅に着かないんだから、ドアも開かないし──」

 男は、自分でそう言って気付いた。

 ドアが無い。

 なぜ今まで気が付かなかったのか。自分の観察力の無さに、辟易する。

「じゃあ、あとは簡単だな」

 老人は、にやりと笑って言った。

「何がですか。諦めろってことですか? 自分から言っといて無責任なんじゃないんですか?」

「違うよ。窓だ」

「窓?」

 そう言われて、男はすぐ横にある窓に目を向けた。窓に映る自分の顔は、かわいそうになるくらい、疲れ切った表情をしていた。

──俺ってこんな顔だったっけ。

 しばらく自分の顔を眺めていると、老人が心配したように言った。

「おい、大丈夫か? ぼーっとして」

「ああ、大丈夫です。それで、窓から飛び降りろってことですか?」

「ああ。そうだ。ドアも何もないんじゃあ、窓からしか出られないからな。逆に言えば、窓が出口ですって言ってるようなものだ」

「ほんとに大丈夫ですかね……」

 男は疑心暗鬼になる。しかし、飛び降りることを渋っていても、結局は自分も人形になってしまうだけなのだ。

 男は、窓の外を今一度眺めた。相変わらず、幻想的な景色だ。

「綺麗だよな」

 老人が言った。

「砂と夜空しかないけど、ほんとに美しい眺めだ。質素ではあるが、いや、だからこそ、神秘的だ」

 男は、無言のまま老人の話に耳を傾ける。

「人間と同じかもしれないな」

 その台詞に何か感じるものがあって、男は老人の方を振り向いた。

「ごちゃごちゃしてる風景は、私はあまり好きじゃないんだ。この景色みたいに、簡素でシンプルな方が美しいと思う。多分、人間もそうだ。記憶とか、思い出とか、そういうものがない方が、純粋で美しいんじゃあないかな。歳を取ると、赤ん坊が、『かわいい』というよりも、『美しい』と感じるようになるんだ。多分、そういうことなんだと思うよ」

 それは違う、と男は思った。人間は、記憶があってこそ人間だ。思い出が、人間を作る。

 老人の台詞は、記憶を失ったまま死んでいく己に対しての慰めのようにしか聞こえなかった。男は自分の意見を老人に言ってやりたかったが、老人の状況を考えると、どうしても口が動かなかった。

 男は結局、そうですね、と小さく呟いた。

「一つだけ、頼み事をしてもいいかな」

 老人はそう言うと、座席の横に掛けていた鞄から、おもむろに赤いマフラーを取り出した。よく見ると、『幸子』と漢字で名前が刺繍されている。

「……幸子」

 男は、思わずその刺繍を見て呟いた。

「鞄の中に、これだけが入っていたんだ。多分、私の奥さんのものだと思う」

「それじゃあ、あの人の──」

 二人は、前方の老婆の方を見た。老婆は相変わらず、全く動かない。

「このマフラーはあの人の物かもしれないし、そうじゃないかもしれない。なんとも言えないな」

老人は、寂しそうに言った。

「私はこれを、彼女に──私の奥さんにどうしても渡したいんだ。それが私の人生の、最後の使命だと、自分で勝手に思っている」

「じゃあ、僕は一体これをどうすれば」

「持って行ってほしいんだ」

 男は一瞬意味を掴みかねた。

「もし君が無事にここから脱出できて、元の場所に戻れたら、私の奥さんを探して、これを渡して欲しい。もし、本当にあのおばあさんが私の妻で、もう死んでいたら、お墓を探して、供えてやってほしいんだ」

 老人は、真っ直ぐすぎる目で男を見ながら言った。

 男は、不安そうな顔で老人を見返した。本当にそんなことができるだろうか。名前しか情報がないのに、一体どうやって探す?

 老人は、そんな男の懸念もお見通しのようだ。

「もちろん、不可能に近いことは分かっている。邪魔だったら捨ててくれてもいいし、自分で使ってくれてもいい。でも、できれば──できれば、彼女に届けて欲しいんだ」

 老人は、眉尻を下げて懇願する。

「絶対に届けます」

 男は、強い口調で返答した。彼を好きになっていた。多分彼がいなければ、自分は不安に押しつぶされていたに違いない。それに、彼の状況に少し同情する部分もあった。素直に、彼を喜ばせてあげたいと思ったのだ。

「君は優しいな。よろしく頼むよ」

 老人は目に涙を浮かべて。優しく微笑んだ。

「さあ、もう行くんだ。急がないといけない」

「え? でもまだ僕全然動けますし、もうちょっとだけあなたと喋りたいですよ」

「駄目だ」

 老人は突っぱねた。

「どうしてですか」

「景色を見てみろ」

 男は窓の外を見る。そこには、先ほどの砂漠とは打って変わって、ただひたすらに水が広がっていた。

「海?」

 男は驚いて、窓に両手をついて外を覗き込む。

「いや、川じゃないか」

 老人は、顎に手を当てながら言った。

「川?」

「もっと言えば、三途の川かもしれない」

「はあ、これが……」

 途方もない大きさに圧倒されて、恐怖を抱く暇が無かった。

「もしこれが本当の三途の川なら、渡りきってしまえばおそらくもう戻れないだろう」

 老人は深刻な顔で言った。

「今しかない。さぁ、早く」

「分かりました」

 男は強く頷くと、窓を思い切り開けた。意外にも、鍵は掛かっていなかった。

 風が、勢いよく流れ込んでくる。男はマフラーを受け取って、窓の枠に足を掛けた。

「じゃあ、行きます」

「ああ。マフラー、落とさないでくれよ」

 老人が冗談っぽく言う。

「落とさないですよ。絶対に届けますから、安心してください」

「ありがとう。君と話せて、いい冥土の土産になったよ」

 老人は微笑んで、手を振った。

 男も手を振り返して、身体を窓の外に放り投げた。

 落ちる間際に見えた老人の顔は、とても穏やかで、いい笑顔だった。

 男は水に落ちる。その冷たさに一瞬縮こまるが、身体が全部飲まれてしまうと、すぐに水の温もりを感じた。身体が浮くことはなく、なぜか息苦しさを感じることもない。男はそのまま、ゆっくり沈んで、沈んで、沈んでいった。


        *


 ふっと沈んで、目が覚めた。

 体中が痛くて、思うように動かすことができない。人工的な白い照明が、男を照らしていた。頭を少し動かすと、自分の身体から伸びる管が見える。ああ、自分は病院にいるんだなと、男は勘付いた。

「おい、目を覚ましたぞ」

 隣から突然声が聞こえてきて、男はそちらを見た。そこには、スーツにコートを羽織った中年の男と、若い男が二人で座っていた。

「御子柴徹さんですね?」

「ああ……はい」

 若い男が、御子柴に確認した。そうだよな。俺は御子柴だよな。なぜか今まで自分の名前を忘れていたような気がする。名前を忘れるなんてことがあるはずはないのだが。

「お目覚めのところ申し訳ないのですが、少しお時間いただいてもよろしいでしょうか」

 若い男は、慇懃な態度だ。中年男の方は、腕を組んで御子柴の目を見つめている。

「大丈夫ですよ」

「ありがとうございます。自己紹介がまだでしたね。失礼しました。こういう者です」

 若い男が、何やら自慢げに警察手帳を広げた。

「私が斉藤で、こっちが──」

「武田です」

 若い方が斉藤で、中年の方は武田というらしい。というか、刑事? なぜこんなところに?

「刑事さん?」

「ええ。単刀直入に言います。あなたに、強盗致死傷罪で逮捕状が出ています。そのことで、色々尋ねたいことが」

 その瞬間、思い出した。俺は──。

「昨日の午後四時三十分頃、あなたは真藤勝さん、幸子さんの家に侵入し、通帳を窃盗した上、偶然買い物から帰ってきた幸子さんを包丁で刺殺。そのまま逃走し、飛び出し行為をして交通事故にあった──間違いないですね?」

「──はい」

 そうだ。俺は、空き巣をした。そして、突然誰かが帰ってきて、取り乱して──その先は、もう思い出したくない。

 俺は、金に困っていた。と言っても、別に父親がギャンブル狂いだとか、母親がホストに溺れたとかそういうわけじゃなく、ただ単に自分がクズなだけだ。仕事もせず、パチンコに入り浸り、金が無くなれば借金をする。その上犯罪に走って、人を殺す──か。

 自分が情けない。御子柴は、諦めたように目を閉じた。すると、瞼の裏に、『幸子』という文字が見えた。幸子? どこかで見たことがあるような──

「おい、それは何だ?」

 武田が、ベッドの掛け布団から少しはみでた、赤い布に目をとめた。そのままその布を抜き取る。それは、マフラーだった。

「これは──マフラーだな」

 武田がそれを手に取って広げた。

「おい! ここに『幸子』って書いてあるぞ!」

「え! 本当ですか?」

 斉藤がそれを覗き込む。

「おい、いつからこれを持っていたんだ!」

 武田は鬼のような形相で、御子柴を見つめた。

「いや、分からないです。気付いたら、ここに──」

「まあいい。おい、これは回収しておけ」

「はい。分かりました」

 斉藤がマフラーを受け取って、廊下に立っていた男に手渡す。御子柴はそれを眺めながら、何か心に引っかかるものを感じていた。

 ──俺はあれを、何かしなくちゃいけなかったんじゃないか。

 喉まで何かが出かかっていたが、それが出ることもなく、再び記憶の深層に潜っていってしまった。

 先ほどまで何かを廊下の男と喋っていた斉藤が、小走りでこちらにやってきた。

「ちょっと、武田さん」

 斉藤が、武田に耳打ちをした。が、ぎりぎり何を言っているのかが分かってしまった。分からないほうが良かった。

「あちらの奥で治療をされている方が、真藤勝さんのようです」

「何だと!」

 武田はそう叫んで、病室の奥に視線を向けた。御子柴もつられたようにそちらを見ると、一人の老人がベッドに横たわっていた。あれが、俺が殺した人の旦那。

 幸い、目は開けていない。あの管の本数と、酸素マスクからして、恐らく昏睡状態なのだろう。御子柴は少し安堵した。

「おい、部屋を移せないのか」

「駄目みたいです。コロナの患者さんで病床が埋まっているみたいで」

 武田が、悔しそうに眉をひそめた。

「私たちは少し席を外すので、その間にゆっくり休んでてください」

 斉藤がそう言うと、二人は部屋の外に消えていった。

 先ほどとは一転して、病室が異様に静かになる。聞こえるのは、自分の吐息と、ピーッ、という機械の音だけだ。あの老人が、機械の音を通して自分を責め立てているようだった。人を殺したという罪が、心に重くのしかかる。死刑か、無期懲役か。どちらかだろう。どちらだとしても、御子柴はしっかりと罪を償う気分でいた。

 後ろめたさに押しつぶされそうになり、御子柴は思わず老人の方と反対側に目をやった。そこには、絵が飾られていた。あれは、機関車だろうか。砂漠を走っているらしい。なかなか幻想的な絵だ。誰かが窓から顔を出しているようにも見えるが──。

 その時、ドアが開いて、看護師が入ってきた。

「目を覚まされたんですね。体調はどうですか?」

「はい。大丈夫です。あ、あの絵を取ってきてもらえませんか」

 御子柴は、飾ってあった絵を指さした。なぜか、間近で見たいと思った。というよりは、見なければならないような気がしたのだ。

 看護師は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに笑顔に戻って、絵を取ってきた。

「はい、どうぞ」

 御子柴はその絵を眺めた。そして、戦慄した。

 窓からこちらを覗く顔は、真藤勝その人だった。そしてその顔は憤怒を浮かべ、明らかな殺意を持ってこちらを睨みつけていた。



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