雲の糸

「黙祷!」

 草木も項垂れだした盛夏。蒸し暑い体育館に、静寂がこだました。蝉時雨だけがやかましい。

 汗で額を発光させた校長が、少しぶっきらぼうに喋り始めた。

「皆さんもご存じの通り、この輪南中学校に通っている森口咲さん、並びに母親の由美さんが、不慮の事故によってお亡くなりになりました。このような惨事を二度と繰り返さないためにも、皆さん、不審なものには極力関わらないようにしてください」

校長の言葉は、わずか十秒で終わった。

「黙祷!」

 短すぎる自身の言葉を取り繕うかのように、校長は二度目の黙祷を命じた。

 依然、蝉時雨だけがやかましい。


        *


 だらしなく体育座りをして、先生の話を聞き流す。空が綺麗だ。

 この輪南中学校に入って、もう二年が過ぎようとしている。未だ友達のいないこの学校生活は、なんとももどかしく、一本だけ頑として消えないロウソクのようだ。

経験者として断言する。一人で過ごす学校生活には、敵がたくさんいる。まずは、クラスカースト上位のキャピキャピ女子。

「咲っているのかいないのかよく分かんないよね」

 私は以前、こんなことを言われた。確かに私は影が薄いが、わざわざ正面切ってそんなこと言わなくても。嫌いだ。

 次に、自称生徒のこと考えています先生。

「おい森口、お前友達いないのか? 良かったらみんなに仲良くしてもらえるように言ってやろうか?」

 余計なお世話だ。鬱陶しい。そんな感じで仲良くしてもらっても、気まずくなるだけということが分からないのか。

 最後はラスボス。母親だ。

「あなたお友達はいないの? 休日なのに一回も遊びに行かないし……。お昼は? 一人で食べてるの? かわいそうに」

 うるせぇババア! 反抗期だったら口に出して言っている。

 本当に心配してくれているならまだいいが、最後の『かわいそうに』からして、侮蔑や同情の念が見え隠れしているところがいけ好かない。

しかもきっと、私を心配しているんじゃなくて、友達のいない娘を持っている自分が    嫌なだけなのではないか? それはこじらせすぎだろうか。

 反抗期には絶対になりたくない。反抗期の子どもは、とてもダサい。一人でいる時間が長いからだろうか、私は自分を客観的に見つめることが多かった。そして、自分の憧れと反面教師を選り分けて、自分の軸を一本作ることに成功していた。群れて自分の意見が言えないダサい奴だけにはなりたくない。

 でもなんやかんや言って、一人は寂しかった。いや、寂しいというよりかは、周りの視線が痛い。やはり同調圧力というのか、一人でいると、自分が異分子だということを痛感させられた。

 そんなときに私は妄想をする。自分の妄想に潜り込んでしまう。そうすれば、もう周りを気にすることもない。だから私は、今日も妄想をする。

いざ妄想の世界へ! と右拳を心の中で突き上げた瞬間、先生の声がそれを制した。

「今日から試合だったな? ルール説明するからしっかり聞いとけよー」

 4回目となるサッカーの授業は、いよいよ試合をする段階に入ろうとしていた。クラスの男子という名のわんぱく小僧たちは、先生の説明をBGMにしながらざわつく。まさに馬の耳に念仏、猫に小判、豚に真珠、わんぱく小僧にルール説明である。

 私はそんな小僧たちを視界の隅になんとか押しやり、妄想の世界に再突入する。

あぁ、今日はなんとも空が綺麗だ。大きな水色のステージの上で、太陽のミラーボールの下、積乱雲たちが踊る。こんな景色を眺めていると、空から何かが降りてくるような気がした。

 例えば、今未確認飛行物体が飛んできたらどうなるだろうか? 先生が吸い込まれていって、みんなは大パニック。でも授業が中止になってちょっぴりテンションが上がるのだ。中坊の危機感なんてそんなものだ。晴れて自由の身になったクラスメート達は、宇宙人と一緒にドッジボールなんかをするんだろう。異星間交流。もちろんそこに私は入っておらず、コートの外でぼんやりとボールを目で追いかけているだけ。妄想の中でもひとりになっている自分に辟易として、小さくため息をついた。もうこんな居心地の悪いところから抜け出してしまいたい。例えば白馬(羽つき)の王子様が空から私を迎えに来てくれたらどうだろう? うん。テンプレの権化のような案だがなかなかいい。時間など気にせず、空を飛んで世界旅行に行くのだ。究極の現実逃避じゃないか! ただよくよく考えてみれば、普段からあまり話さない私が、王子様と会話できるだろうか? 旅の途中で気まずくなって会話がなくなる場面を想像してみる。地獄じゃないか。空なのに。

 やっぱり私は一人で旅に出たい。タケコプターが落ちてくるとか、最悪紐みたいなのがプランと降りてくるだけでいい。それに掴まって旅を始める。そう、ちょうどこんな感じの!……ん?

 そこには、糸がぶら下がっていた。一体いつからそこにあったのだろうか。まるで学校設立当初から存在していたと言わんばかりの威圧感がある。先端にはつり革に似た取っ手がついているようだ。今日は砂埃が舞うほど風が吹いているというのに、その糸が風に揺られる気配は一切ない。自分たちとは違う次元の物体であるということを、その無機質さが証明していた。ふと上を見上げると、それは空に向かってずっと伸びている。いや、空から降りてきているのだ。隣を見ると、鼻を垂らした男子が口を半開きにして、不思議そうにその糸を見つめている。私は妄想が具現化していることに驚きながらも、この世に生を授かった瞬間のように興奮していた。

「ん?なんだあの糸?どこから降りてきてるんだ?」

 先生が糸の存在に気づく。それを追うように、クラスメートたちが一斉に振り返り、それを視界に捉えた。

「なにあれ?」 「怖―い」

 得体の知れないものに人は恐怖を抱く。そのルールはこのクラスにも当てはまるようだ。

 私は糸に対しての恐怖というよりは、他人に自分の妄想に入ってこられることのほうが怖かった。ここで自分から動かなければ、私の妄想が誰かに横取りされるのではないか。妄想の具現化という僥倖を無碍にしてしまうのではないか。そう思ったとき、私の小さな未発達の手は、無意識のうちに、しっかりと糸の取っ手を掴んでいた。

 次の瞬間、糸がとてつもない速度で引き上がり、一気に町はミクロになる。ビル15階分ほどの高さまで急上昇すると、ゆっくり停止した。下を見ると、先生とクラスメートは唖然として上を見上げている。思えばクラスメートと目が合ったのはこれが初めてかもしれない。まぁそんなことはどうでもいい。さぁ、現実逃避旅行の始まりだ!



 横田武人は、2年という短い教師生活の中で最も狼狽していた。そして24年という人生の中で、最も天を仰いでいた。その目線の先には、自分が受け持つ女生徒がいる。糸に掴まって空に飛んでいくタイプの。学校の先生になるにあたって、教師の心構えについて書かれている本を片っ端から購入して読み漁った。そこには、「おとなしいタイプの子は段階を踏め」とか、「やんちゃタイプはむやみに怒るな」など、様々なタイプの生徒に対する接し方が綴られていた。おい! 糸に掴まって飛んでいくタイプがないじゃないか! 後で星1レビューをつけてやるからな!

 とそこまで文句を吐いた後(もちろん心の中で)、こんなことをしている場合ではないことに気づく。とにかくまずはざわざわしている生徒たちを落ち着かせなくてはならない。咳払いをして、下腹部に力をいれる。

「おい! 静かにしろぉぉぉぉぉ!!!!」

 一瞬で生徒たちは口を閉じる。焦りのせいか、想定の3倍ほどの声量で怒鳴ってしまった。早くもあんなに読んだ本に書いていたことを破ってしまう。いまにも泣き出しそうな生徒を見ると、なんだか申し訳ない気がしてくる。そうか、こうやって先生は嫌われていくのか。

 ともかく生徒たちは静かになったので、次にとるべき行動について思案する。5秒ほど考えを巡らせた後、とりあえず警察に連絡することにした。生ビールと同じ思考だ。

 スマホを取り出すために、右ポケットをまさぐる。素早く取り出そうとするが、ポケットに引っかかりなかなか出てこない。焦りは焦りを生み、それは怒りを生み出す。ポケットを引きちぎりながら無理矢理スマホを取り出した。すぐに指紋認証でのロック解除を試みるが、こういうときに限ってそれは開かない。「んに~!」とかろうじて文字として表せる音を発しながらパスワードを打ち込む。1234にしといてよかった!このときばかりは自分の怠惰さに感謝する。

 警察が119だったか110だったかしばし逡巡した後、110を押す。コール音が鳴り出すと同時に電話がつながった。さすが日本の警察! 仕事が早い。

「事件ですか? 事故ですか?」

 いきなりの質問に一瞬たじろぐ。さてはて、生徒が糸に掴まって飛んでいくのは事件なのか? 事故なのか?

「えっと、事件かな? いややっぱり事故かもしれないです。あ、どうだろう?」

 質問に全く答えられていない。教師失格だ。

「はぁ。では状況を詳しくお聞かせ願えますか?」

「は、はい! えっと、う、うちの生徒が糸に捕まって飛んでいっちゃったんです!」

「は?」

「だ、だから生徒がトンデッチャッタンデスッテバ!」

 焦りすぎて片言になってしまう。

「とりあえずその生徒さんは危険な状態にいるんですね?」

「は、はい! とっても!」

 語彙力が一気に下がる。

「分かりました。それでは場所を教えてください。」

「わ、輪南小学校です」

「はい。それでは至急警官を向かわせますので、到着するまでは生徒さんから目を  離さないようにしてください」

「はい! お願いします!」

 一息つきながらスマホを耳から離す。ふと空を見上げると、そこにはただ青天が広がっていた。

 しまった! どっかいっちゃった!

 再び焦りを身に蓄えながら生徒の方にゆっくり目をやると、呆れを纏った視線が山口を貫いた。



 限界だ。

 守口咲は、よく分からない糸と自分の握力だけを頼りに命をつないでいた。

 最初はよかった。すべてを無為に帰すほどの青天は、私を空の世界に歓迎してくれているようだったし、妄想が現実になった高揚感は、高所による恐怖を麻痺させてくれていた。しかし糸が移動し始めて10分もした頃には、じりじり無くなる握力とじわじわにじみ出てくる手汗によって、咲に高揚感と引き換えに死の予感を感じさせ始めていた。

 あのとき糸を掴んでいなければ、と後悔する。結局いつもそうだ。なにか勇気を出してしたことは必ず空回りする。授業中頑張って手を上げてみたときも、自分が手をあげたという奇怪さに、クラスメートの驚嘆と慢侮の入り交じる視線を向けられた挙げ句、決死の回答は的外れのもので、その弓矢は嘲笑によって打ち落とされる。私はその視線に打ち抜かれ、死んだように席に座り込む。そして授業が終わるまでは手を挙げてしまった後悔が息を詰まらせるのだ。

 そこまで考えたところで頭に浮かんだのは、なぜか母の顔だった。母がいつも作ってくれたシフォンケーキに似た雲が想起させたのだろうか。私はほとんど母としか話したことがない。いくら最近会話していなかったとしてもだ。もしこのまま私が転落死しても、きっと泣くのは母だけだろう。そう思えるのも、母がしっかり私に愛情を注いでいてくれていたからだ。その思考は、母の愛が私の潜在意識にまで届いているということの何よりの証拠なのだろう。母に会いたい。お母さんにもう一度会って話がしたい。気取った反抗期を振りかざし、母を無視していた自分に嫌気がさす。そして後悔する。私の人生は後悔してばかりだ。もし生きて帰れたら、お母さんに謝ろう。もう二度とババアなんて言わない。そして、笑顔でみんなに接してみよう。前を見て生きよう。そう決意すると、心の暗雲が少し晴れたような気がした。

 最初はこの景色を心から楽しめていたのだが、時間がたち死の可能性が垣間見えてくると、途端に恐怖が押し寄せてきた。怖い。今度は黒雲がかかる。

 宙ぶらりんの状態で風が吹き付ける中、頼りになるのは己の幼い手だけなのだ。怖いに決まっている。下では死が大口を開けて私を食らおうとする中で、焦りと恐怖は身体の奥底から溢れんばかりに吹き出て、涙を押し出してくる。流れた涙と汗は、風によって熱とともに蒸発し、身体を死体の温度に近づける。助けてお母さん。掠れた声で小さくそう叫んだとき、遠くからパトカーのサイレン音がかすかに聞こえた。


        *


「なんじゃありゃ!?」

 深くアクセルを踏みながらハンドルを握る警官はそう叫んだ。

 フロントガラスを介して見えるのは、いつも巡回する見慣れた街並み、目眩がするほど晴れた空、そこに浮かぶ一人の少女の姿であった。あまりにも異様な光景に少しハンドルを持つ手が緩んだが、気を取り直して再び力を入れる。一刻も早くあの子のもとまで辿り着かなければならない。その一心でアクセルを踏む足が力む。そのとき、カーステレオから流れる曲が、円広志の「夢想花」に切り替わった。本来カーステレオの使用は禁止されているが、つけている方が悪いと思う。曲は、あの印象的なサビに差し掛かった。警官はそのサビを聞きながら、偶然はあるものなのだなぁとしみじみ思う。

 いや、しみじみしとる場合かぁ!

 自分に完璧なツッコミを入れて、気持ちを引き締める。早く到着しなくては。

 そう意気込んだ警官とパトカーの行く先には、様々な困難が立ちはだかっていた。長い赤信号、ふらふらと側道を自転車で進む死にかけのジジババ。歩道をあるいているものの、ひょこっと車道に飛び出してきそうなくそガキ。低い知能を言い訳にして車道に居座る動物たち。カビゴン。幾多の試練を掻い潜り、目的地に到着した警官は、かっこよくドリフトして停車する様子を想像しながらパトカーを停めた。相棒の扉をバタンと派手に閉め、空を見上げる。本当に少女が糸にぶら下がって空を飛んでいるじゃないか。いや、しがみついているといった方がいいだろう。しかもかなり高い。しばしその光景の前で立ち尽くしたあと、パトカー、いや、相棒に乗せてあったメガホンを取り出して、少女に呼びかけてみる。

「おーい大丈夫か! もう安心だぞ!」

 実際は安心じゃない。少女が少し下を見た気がするが、何も応答はない。やはりこれだけ距離があると聞こえないのだろう。

 どうすればいい? こっちが地上にいる限りは何も手出しができない。応援が来ても焼け石に水だろう。とすればこちらも空中からアプローチするしかない。おもむろに無線機を取り出し、本部へつなぐ。ザーッというノイズとともに、応答が聞こえた。

「こちら本部、こちら本部。どうしましたか? どうぞ」

「えーこちら斉藤。深沢市桃花町4丁目付近の上空に、糸に掴まって降りられなくなった少女発見。至急ヘリコプターでの応援お願いします」

「よく分かりませんどうぞ」

 よく分かりませんどうぞじゃねーよ。

「少女が上空約30メートル付近で危険な状態にあります。至急ヘリコプターでの応援をお願いします。どうぞ」

「あぁ分かりました。じゃあ手配するんで目を離さないように」

 なんでちょっとしぶしぶなんだよ。無線を切る前にすこし舌打ちをしてしまったが、ノイズがかき消してくれたことを願おう。そういえば親御さんに連絡するように言うのを忘れてしまった。あの体育教師、新人ぽかったからなぁ。きっと言わないと連絡はしてくれないだろうな。まぁいい。全部終わってから連絡するように伝えよう。

 警官は自分の役目を一旦終わらせたことに安心して、相棒に手を置いた。


        *


 だらしない姿勢でソファーに座り、テレビの向こう側を見つめる。

 最近早くも反抗期に入った娘との二人暮らしは、停電時に灯す最後の一本のロウソクのような、どこかに不安が孕んでいるようなものだった。というのも、娘にはどうやら友達がいないらしい。休日にはどこにも遊びに行かないし、学校の話を全くしない。明らかに楽しんではいないように見えた。見えたというのは、最近娘とも言葉を交わしていないのだ。これはいけないと思って、友達を作るきっかけを与えてあげようとよく話しかけるのだが、全く反応してくれない。シングルマザーというのが悪いのだろうか。やはりいろいろ話を聞いてくれる父親というのは人格形成に必須のものなのであろうか。近頃は専らシングルマザーのブログを読み漁る日々を送っている。それ以外の時間は、パートに行って家事をするか宝塚のDVDを見る。やっぱりどれだけ家庭状況が悪くても、娯楽は必要だ。

 今日も空いた時間に宝塚を見る。力強い歌と踊りを堪能していると、それよりも力強い固定電話の叫びが耳をつんざいた。まだ電話に出ていないのにも関わらず、「はいはい」と独特なリズムを口ずさみながら、電話に小走りする。

「もしもし、守口です」

「もしもし、守口さんのお宅ですか? 田井小学校で体育教師をやらせていただいております。山口と申します」

 こんな昼まっただ中に学校から電話? なにか娘がしでかしたのだろうか。不安が胸の中で産声を上げる。

「あ、娘がいつもお世話になっております。どうなさいましたか?」

「落ち着いて聞いてください。咲さんが今とても危険な状態にいます。正直に言って命が危ないです。一刻の猶予もありません。至急学校まで来ていただきたい」

 先ほど産声を上げた不安は、むくむくと大きく成長していく。

「咲が!? 一体なにがあったんですか!?」

「詳しい説明は後です! 強いて言うなら空にいるということでしょうか。とにかく早く来てください!」

「わ、分かりました!」

 不安にせかされるようにバンッと受話器を置き、ろくな身支度もせずに部屋を飛び出した。空にいるというのは全く分からなかったが、娘が危ない。足をもつらせながらも懸命に足を踏み出す。もし娘がいなくなってしまったら、これから何を頼りに生きていけばいいというのか。もう別れはいやだ。もう旦那が交通事故で死んで8年が過ぎようとしているが、いまだ傷は開いたままだ。さらに娘が逝こうものなら、一体私はどうなってしまうというのだ。無意識に涙が溢れてくる。それと同時に、娘を守らなければという母性本能も、咲が生まれたときのように溢れ出ていた。

 小学校までの道のりで最後の目印となる喫茶店を曲がる。その先には、多くの人だかりと警察官が密集していた。どうやら皆そろって上を見上げているようだ。何かと思い、息を切らしながら皆の視線の先を見ると、なんと少女が空に浮かんでいた。よく見てみようと目を凝らしたその瞬間、心臓が衝撃に押しつぶされた。咲だ。頭が混乱でぐちゃぐちゃになる。なんで咲があんなところに? 信じろと言う方が無理な話だ。長距離を走りふらふらになった足で、近くに突っ立っていた警官に近づき話しかける。

「あの、あの子、私の娘なんです! 早く、早く助けてください!」

今までの人生で一番大きな声で訴えかける。

「え、お母さんですか!? 見ての通り、娘さんが大変な状況です。先ほどヘリでの応援を呼びましたが、燃料が切れていて離陸までに時間がかかるとのことです」

「そのヘリはどこにあるんですか!?」

「へ?」

「だからどこにあるかって言ってるの!」

「警視庁本部の屋上にあると思いますが……」

その答えを聞いた瞬間、礼も言わずに走りだす。走っていては間に合わないので、途中でタクシーを捕まえた。 

「警察庁本部までお願いします! 急いで!」

「かしこまりました。10分ほどかかりますが宜しいですか?」

「なんでもいい! はやく!」

 運転手は気迫に押され、慌てた様子でアクセルを踏みしめた。

 10分後、警察庁本部前にタクシーは止まった。しまった! お金持ってくるの忘れた! 仕方が無い。乗り逃げしかない。タクシーの扉が開いた瞬間に勢いよく飛び出した。後ろからの怒号をものともせず、警察に駆け込む。端から見れば世界最速の自首にみえるだろうが、そんなことは今関係ない。娘の命がかかっている。

 警察署に飛び込むやいなや階段を探す。警官の人が近づいてくるが、振り払って階段を駆け上がる。既に何個か犯罪を犯している気がするが、全て終わってから考えよう。疲労困憊の両足に鞭を打って、一歩ずつ娘の元に近づいていく。やっとのことで屋上に到着すると、燃料を補給し終えたヘリコプターが、離陸準備に入るところであった。

「お願いします! 乗せてください!」

 突然入ってきた中年女に、パイロットと警官が困惑の表情を浮かべる。

「いや、突然入ってこられても困ります。そもそもあなた誰です?」

「今からあなたたちが助けに行く子どもの母親です! お願いします乗せてください!」

「親御さんでしたか。しかしいくら親といえども乗せるわけにはいきませんよ」

「そんな……、娘に、娘に会いたいんです。私が助けてあげなくちゃなんないんです!」

 自分でも驚くほどに涙と嗚咽を漏らしながら、切々と訴えかける。

「お気持ちは分かりますけど……」

 そのとき、運転席から情けない泣き音が聞こえた。

「あぁ、あぁぁぁ~(泣)」

 なんだこいつ。私より泣いてるんじゃないか。

「乗せてあげましょう!」

「は?」警官は素っ頓狂な声を上げる。

大チャンス! 涙もろいタイプの操縦士だ!

「お願いします!娘を助けられるのは私しかいないんです!」

ここぞとばかりにダメ押しする。

「あんたは子供を助けたい親の気持ちが分からんのか! この人でなし! このスカポンタンヌ! とにかく早く乗せてください!」

 ナイス操縦士。

「はぁ、分かりましたよ。責任はあなたがとってくださいね」

 操縦士はいっちょまえに拳を握り親指を突き立てた。

「それじゃあこのヘッドホンをつけてそこに座ってください」

 よし! これで咲に会いに行ける! なんとかうまくいきそうな雰囲気に安堵し、涙を拭う。

 絶対にあなたを助けてみせるから。守口由美は、亡くなった旦那の優しい顔を思い浮かべながら、強く拳を握った。



 限界だ。と思い始めて、そろそろ20分ほど経つだろうか? 限界だと感じても、意外と本当の限界は遠いものである。先ほどから下には警官やら野次馬やらがいて、私を見上げているが、そんなのに意識をもっていけるほど、今の私には余裕がない。さっきパトカーのサイレン音が聞こえたときはようやく助かるのかと安堵したが、結局何も進展はなかった。

 今にも手が離れてしまいそうだ。吹き付ける強風は、まるで私を嘲り笑うかのように体力を奪い去っていく。この糸が揺れなくてよかった。もし風に揺られていたとしたら、今頃の私は地面でぐちゃぐちゃになっているところだろう。

 もうほとんど手の感覚が無い。この状況に絶望して、頬を涙が伝う。死にたくないという一心だけでかろうじて命をつなぎ止めていた。これまで私は何をしてきていたのだろうか。誰とも話さず、教室の隅で寝たふりをして、妄想に逃げる毎日。そんなの生きていないのと同じではないか。しかも皮肉なことに、今その妄想に命を奪われようとしている。自分の短い人生にほとほと愛想が尽きたか、懲りずにまた現実から目をそらそうとしたか、無意識にゆっくりと目を閉じる。ほんの十分前は人生に前向きになっていたのが、今はそんな気持ちも風と一緒に飛ばされてしまった。だんだんと視界の上下から黒い布がかぶせられる。このまま暗闇の中でじっとしていたい。

 そう思ったとき、ヘリコプターのうるさいプロペラ音と風が、視界を覆う黒い布を吹き飛ばした。

 やっと助けが来た!

 身体全体を安堵感が包み込み、またしても涙を誘発する。ヘリはゆっくりと近づいてきて、私に側面を向けるように静止した後、バンっとドアが開いた。

 そこには、母がいた。

 あまりの驚きに思わず手を離してしまいそうになる。なぜか母を見たとき、安心感というよりも、恥ずかしさの方が少し勝った。母は機体から身を乗り出し、顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、なにかこっちに叫んでいる。しかし、その声はヘリのプロペラ音でかき消されてしまう。

 とにかく、やっと助かる。その事実が、咲の握力をなんとか保たせていた。無事に家に帰れたら、たくさんお母さんと話そう。家事も手伝ってあげようか。一度風に飛ばされた前向きな気持ちは、ブーメランのように咲の元に返ってきていた。

 ヘリコプターから梯子が横に延びてくる。最初、そんなものでは私の重みで落ちてしまうだろうと思ったが、よく見てみると、ヘリの内部に頑丈に備え付けられているものらしい。どうやら私が乗っても大丈夫なようだ。やはり日本の警察は凄い。様々な状況を先読みしている。私は安心して、その梯子に恐る恐る足をつけた。

 そのとき。

 その日一番の強風が吹き、ヘリコプターはバランスを崩した。機体が斜めになり、咲の方へとじりじりと近づいてくる。だめだ。それ以上近づくと……

 ヘリコプターの羽は、まるでチェーンソーのように回り、咲の命綱である糸を無慈悲に一刀両断した。

 咲はその瞬間、世界がスローになるのを感じた。糸が切れゆく様を、家での映画鑑賞のように、落ち着いて眺めていた。ゆっくりと咲の身体は重力に引き寄せられはじめ、だんだんと周りの景色が大きくなってくる。ふとヘリのほうを見やると、糸の姿はどこにもなく、殺したくなるほどの青天が広がっていた。しかし、その空から何かが落ちてくる。

 それは母だった。きっとヘリから振り落とされてしまったのだろう。優しい顔の母は、空を飛びながらだんだんと近づき、咲を静かに抱き寄せた。咲は久々に感じる母の温かさに涙をためる。そのぬくもりは、空から落ちているこの状況と、確実に迫る死を少し忘れさせてくれた。

「ごめんね。怖かったでしょう。辛かったでしょう」

「なんで謝ってるのよ。謝るのはこっちの方だよ」

どちらも涙に声を震わせながら、久しぶりの親子の会話を楽しんでいた。母と一緒にいるからだろうか。不思議と恐怖は感じない。

「ごめんね。もっと私がしっかりした母親だったら、もしかしたらこんなことにはなってなかったかもしれないのに」

「お母さんのせいじゃないよ。私がおかしな意地を張っちゃったの」

二人の間には、明らかにこの世界とは違う時間が流れていた。しかし、それでも地面はどんどん近づいてくる。

「もう疲れたでしょう。ちょっと眠らない?」

「そうだね。こんなに疲れたの初めてかも。おやすみ。大好きだよ、お母さん」

「おやすみ。愛してる」

 二人は重力に身を任せ、ゆっくりと目を閉じる。

 二人の視界は、まるで死人の顔に被せるような布に、だんだんと覆われていった。

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