第2話:散歩のついでに人助け
朝の一杯を終えた俺は、日課の『散歩』に出かけた。
片手には、くり抜いた竹で作った試作品の『テイクアウト容器』。
中身はもちろん、ホットコーヒーだ。蓋には小さな飲み口も空けてある。我ながらいい仕事だ。
森の空気は澄んでいる。
木漏れ日は優しく、小鳥はさえずり、草むらからは殺気立った魔物たちが俺を狙っている。うん、今日も平和だ。
「フンフンフ〜ン♪」
俺は鼻歌交じりに、飛びかかってきた『キラーウルフ』の群れをステップだけで躱(かわ)す。
右、左、半歩下がって、右。
コーヒーが揺れないように、上半身は固定したままだ。体幹トレーニングにもなって一石二鳥である。
「キャンッ!?」
すれ違いざま、足払いをかけると、ウルフたちはドミノ倒しになって転がっていった。
俺は魔物には基本的に優しい。殺意が高い奴以外は、痛い目を見せて追い返すだけにしている。
だって、死体の処理って面倒くさいし。
「さて、今日は『嘆きの渓谷』あたりまで歩くか」
村人が聞けば卒倒するような地名を呟き、俺はズズッとコーヒーを啜った。
うん、少し温度が下がって、酸味が際立ってきたな。これもまた良し。
◇ ◇ ◇
(……もう、駄目かもしれない)
セリーナ・バーンズは、荒い息を吐きながら大樹の根元に崩れ落ちた。
履き慣れない旅用のブーツは泥だらけ。
上質なローブは枝に引っかかってボロボロだ。
目の前には、三体の巨体。
豚の頭を持ち、鋼鉄のような筋肉に覆われた魔物――『ハイ・オーク』だ。
Bランク冒険者パーティーが束になっても苦戦する、森の中層の支配者。それが三体。
護身用の短剣と、少しばかりの攻撃魔法しか持たないセリーナに、勝ち目などあるはずがない。
「ブモオオオオオオッ!!」
オークが醜悪な唾液を垂らし、錆びた大斧を振り上げる。
(ああ……私の人生、なんだったんだろう)
王国の財務省に入省して九年。
『氷の才女』と呼ばれ、二十七歳という異例の若さで課長補佐にまで上り詰めた。
けれど、待っていたのは地獄のような残業と、派閥争い、そして上司の不正の尻拭い。
――『君は真面目すぎるんだよ、セリーナ君』
不正を告発しようとして、逆に閑職に追いやられた時、上司に言われた言葉が蘇る。
プツン、と何かが切れた。
辞表を叩きつけ、王都を飛び出し、気がつけばこんな辺境の森に迷い込んでいた。
(仕事して、寝て、仕事して……最後は魔物の餌、か)
悔しい。
まだ、美味しいものだって食べていない。恋だってしていない。
ただ数字と書類と格闘しただけの二十七年間。
――死にたくない。
セリーナがギュッと目を瞑り、死の痛みを覚悟した、その時だった。
「あ、ちょっとごめんねー。そこ通りまーす」
場違いなほどに能天気な声が、頭上から降ってきた。
ドガァッ!!
鈍い音と共に、地面が揺れる。
恐る恐る目を開けたセリーナの視界に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
振り下ろされるはずだったオークの大斧が、粉々に砕け散っている。
そして、三体のオークたちが、まるで『見えない壁』に弾き飛ばされたように、宙を舞って木々に激突していた。
「ブ、ブモ……?」
白目を剥いて沈黙するオークたち。
その中心に、一人の男が立っていた。
三十代半ばくらいだろうか。ボサボサの黒髪に、どこにでもある麻のシャツとズボン。
腰に剣すら帯びていない、完全なる無防備。
ただ一つ異様なのは、彼が片手に、竹の筒のようなものを大切そうに持っていることだ。
「ふぅ、危ない危ない。こぼれるとこだった」
男はオークを一瞥もしない。
筒の飲み口を覗き込み、「セーフ」と呟いている。
(な、なに……この人……!?)
セリーナは呆然と口を開けた。
魔法の詠唱も聞こえなかった。剣を抜いた様子もない。
ただ『歩いてきた』だけで、ハイ・オークを弾き飛ばしたというのか。
男がふと、こちらに気づいて振り返る。
人懐っこい、緩んだ笑顔だった。
「おー、大丈夫? 怪我はない?」
「あ、え、は、はい……」
「そりゃよかった。ここら辺は散歩コースにしちゃあ、ちょっとガラが悪いからな」
男は倒れているハイ・オークを『ガラが悪い』の一言で済ませ、手を差し出してきた。
厚くて、温かい手。
「立てるか? 顔色が悪いな。遭難でもした?」
「……は、はい。迷ってしまって……」
「なるほどね。まあ、生きてりゃなんとかなるって」
男はセリーナの手を引き、軽々と立たせる。
そして、竹の筒をクイッと揺らした。
「ちょうど俺の店がすぐそこなんだ。茶でも飲んでいくか? ……といっても、茶色くない『黒い水』しかないけど」
「店……? こんな魔境の森に、ですか?」
「おう。俺はイーズ。見ての通りのしがないカフェ店主だ」
(カフェ……? それに、見ての通り……?)
セリーナは混乱した頭で、瞬殺されたハイ・オークと、目の前の脱力系おじさんを見比べる。
どう見ても『しがない店主』の戦闘力ではない。
だが、彼から漂う不思議な香り――焦げているような、けれど何故か心が落ち着く香ばしい匂い――に包まれた瞬間、セリーナのお腹が「ぐぅ〜」と可愛らしい音を立てた。
「……ぷっ、あはは! いい音だ」
「っ! こ、これは不可抗力で……!」
「いいっていいって。腹が減ってるのは生きてる証拠だ。おごってやるから、来な」
イーズと名乗った男は、ニカっと笑って歩き出した。
その背中は無防備で、隙だらけに見えるのに、不思議と『絶対に安全だ』という確信を抱かせた。
元財務官僚のセリーナは、損得勘定が得意だ。
ここで行き倒れるか、この謎の強者についていくか。答えは決まっている。
「……はい、お邪魔します。イーズさん」
セリーナは泥を払い、男の背中を追った。
まさかその数分後、人生で最も衝撃的で、最も苦い飲み物と出会うことになるとは知らずに。
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