【第一章:段ボールの中で、きみは息をしていた】

その日の空は、

春にしては少し冷たかった。


高校二年の四月。

新しいクラスにもようやく慣れ始めた頃で、

私はいつもより少し遅れて帰宅した。


「……あれ?」


玄関の鍵を開けて中に入ると、

家の中が妙に静かだった。


「未来?」


リビングに顔を出すと、

ソファに座った妹がテレビを見ていた。


「おかえり、お姉ちゃん」


「お母さんは?」


「まだだよ。お父さんも」


壁の時計を見る。

針は、いつもの帰宅時間を少し過ぎていた。


「珍しいね……」


胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。


妹は気にしていない様子で、

ポテトチップスを一枚つまんでいた。


「大丈夫でしょ。たぶん買い物とか」


それでも私は、

カバンを置くとスマホを手に取った。


陽菜:もうすぐ帰る?


数分が、やけに長く感じられる。


――既読。


由紀:今、家の近くだよ。もう少しで着くから待ってて。


その一文を読んで、

ようやく肩の力が抜けた。


「もうすぐ帰るって」


「でしょー」


妹は、またテレビに視線を戻す。


その時だった。


ガチャ。


玄関の鍵が回る、

聞き慣れた音。


「ただいまー」


母の声。


私は立ち上がって玄関へ向かった。


「おかえ――」


言葉が、途中で止まった。


父が、

見たことのない大きな段ボールを

両腕で抱えて立っていたから。


「……なに、それ」


思わず、低い声が出る。


父は、少しだけ困ったように笑った。


「陽菜」


「なに?」


「これ、プレゼントだ」


「……え?」


背後から、妹が駆け寄ってくる。


「プレゼント!? なになに!?」


段ボールが、

かすかに、揺れた。


「……今、動いた?」


私の心臓が、

どくん、と音を立てた。


父は、段ボールを床に置き、

しゃがみ込む。


「開けるぞ」


「ちょ、ちょっと待って」


息が詰まる。


ガムテープが剥がされる音が、

やけに大きく聞こえた。


ふたが開いた瞬間。


「……っ」


小さな、

ふわふわした塊が、そこにいた。


丸まった体。

震える鼻先。

こちらを見上げる、黒くて大きな目。


「……犬?」


声が、掠れた。


「子犬だ」


父が、短く言った。


一瞬、頭が真っ白になる。


「……ほんとに?」


何年も言い続けた。


「犬が欲しい」

「ちゃんと世話する」

「絶対、途中で投げ出さない」


でも、

本当にこの日が来るなんて。


母が、少し真剣な顔で言う。


「よく聞いて。

これは“可愛い”だけじゃ済まないの」


私は、必死にうなずいた。


「分かってる」


「朝の散歩。ごはん。病院。

全部、陽菜と未来でやるのよ?」


「やる!」


妹が、即答した。


「私も! 私もやる!」


子犬が、

「くぅん」と小さく鳴いた。


その音が、

胸の奥に、すっと染み込んだ。


私は、そっと段ボールの中に手を伸ばす。


「……触ってもいい?」


「いいよ」


毛は、

思っていたより、あたたかかった。


その瞬間、

私は確信した。


――この子と、

長い時間を生きるんだ。


「名前……」


妹が、きらきらした目で言う。


「レオがいい!」


私は少し考えてから、

ゆっくりうなずいた。


「……レオ」


その名前を呼ぶと、

子犬は、尻尾を一度だけ振った。


まるで、

「よろしく」と言ったみたいに。

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