第3話 真実と史実
立場としては、圧倒的に実行犯の方が不利だからである。
「動機を持った人間」
というのは、自分で手を下さなくて、自分に完璧なアリバイを作るということで、
「一番安全な場所にいる」
ということになるだろう。
しかし、
「実行犯」
の方は、
「縁もゆかりもない」
という相手、つまりは、
「何の恨みもない」
という人を手を汚して殺すということは、普通であれば考えられない。
だからこそ、
「捜査線上には上がってこない」
ということであるが、だからといって、
「何も殺人を行う必要性がどこにある」
というのか?
もしあるとすれば、
「動機を持った主犯」
という人間に、弱みを握られているということであろう。
ただ、殺人という最大級のリスクを負うのだから、少々の弱みでは、殺人を犯すということまでは、ありえない。
一番考えられるのは、
「誰かを殺してしまったことがかつてあり、それを動機を持った主犯に見られていた」
などということであれば、考えられなくもない。
普通であれば、
「最初に殺した相手に対しては、完全に動機があり、容疑者として捜査線上に浮かんだ」
ということであろう。
しかし、それでも逮捕に至っていないということは、
「状況証拠だけで、物的証拠は何もない」
ということになる場合であったり、
「他にも同じくらいに怪しい容疑者がいて。一人に絞り切れない」
ということがあるからなのかも知れない。
その被害者というのは、
「それだけたくさんの人から恨みを買っていた」
ということで、本来であれば、
「殺されても仕方がない」
という人だったのかも知れない。
こちらの時代には、
「史実」
の時代とは違い、法律が、若干違っていた。
刑法的には大きく二つであるが、一つは、
「殺人の時効というものが、当時は史実では15年であったが、パラレルワールドの世界では、10年」
ということである。
史実世界では、今ではその時効も、殺人などの凶悪犯であれば、撤廃された」
ということであるが。こちらの世界では、
「10年が15年になった」
ということであった。
つまりは、
「時効が短かった」
ということである。
しかし、
「5年という期間は結構長い」
といえるだろうが、最初から、
「10年と15年」
という形で決まっていて、実際に逃亡期間ということで味わったわけではなければ、それぞれの時代における時効の長さは、比較にはならないということになるのではないだろうか?
それでも、
「寿命の中の、10年と15年では、その後の人生を考えると、犯人にとっても、警察にとっても、意識以外のところで、その違いを感じているのかも知れない」
といえるだろう。
そういう意味で、
「時効」
というものの期間の違いというよりも、もう少しシビアなところで、決定的に違う発想があった。
というのは、
「史実においては存在している」
といわれる、
「一事不再理」
というものが、パラレルワールドの世界では、存在しなかったからだ。
これは、
「一度、一つの犯罪事案が裁判に持ち込まれ、その刑罰が確定したのであれば、再度その案件で、裁かれることはない」
ということである。
判決が無罪であったとしても、刑に服したとしても、新たな証拠が見つかったからといって、再審理を行うことを許さないということである。
しかし、
「パラレルワールド」
では、それをありだとした。
その理由としては、
「史実に比べて、パラレルワールドにおいては、かなり多い冤罪があった」
ということで、元々、パラレルワールドの世界でも、最初は、
「一事不再理の原則」
というものを貫いていたが、
「冤罪」
というものに重きを得たことによって、一事不再理の原則に対しての問題がクローズアップされたことで、一事不再理というものが撤廃されたのだった。
ただし、その場合の再審理や再捜査に対しては、
「ずるずる行っては、時間の無駄」
ということも言われるようになり、
「時効というものが、史実に比べて短い」
ということになるのだ。
確かに、
「パラレルワールド」
と、
「史実」
という世界には、何ら共通点というものはなく、実際に、この二つの世界の存在を知っている人は、ごく一部ということだ。
そもそも、パラレルワールドというものは、無数の可能性によって存在しているので、
「パラレルワールド」
と呼んでいるこの世界にいる人は、
「この世界のみが現実であり、史実なのだ」
と思っているに違いない。
ただ、それぞれの時代は、無意識ながらも、それぞれの時代のいいところ悪いところの辻褄を合わせながら、存在している世界だといえるだろう。
だから、
「それぞれ存在する世界」
というのは、
「どれも、真実であり、ただ、パラレルワールドというものの存在によって、史実ではない」
といえるだろう。
つまり、
「史実」
というのは、
「事実」
というものと同意語だといえるのではないだろうか。
史実の世界では、
「真実はひとつ」
といわれているようだが、それは、ヒーローもののドラマであったり、アニマなどで言われていることであった。
それは、
「真実というものを、事実と混同して考えるからではないだろうか?」
ということなのだが、
「事実というのは、実際に起こったこと」
ということであり、真実とは違う。
真実というのは、
「事実という結果が出るために、その過程において、時系列的に考えられることを真実」
と呼んだりするのが、
「事実に対しての真実の考えかた」
といえるだろう。
しかし、
「真実というものは、事実というものが前提でばかり考えるものではない」
といえるのではないだろうか。
その時々の事情によって、結果が変わるように、出てきた結果は一つしかないが、真実は、その時々によって、あるいは、それぞれの人間の見方によって違ってくるといってもいいだろう。
それを考えると、
「真実というのは、可能性というものの数だけ存在するもので、逆に事実は、その世界に、一つしかないものの代表」
といえるだろう。
だから、言い方を変えれば、
「真実というのは、無限の可能性を秘めたパラレルワールドすべてに存在する」
というものであり、
「事実は、その中の史実の世界に、一つだけ存在するもの」
ということで考えれば、
「言葉やニュアンスは似通っているが、実際には、違うものなのだ」
といえるだろう。
そもそも、似たような言葉が二つ存在するということは、
「どこかに違いを考えさせたいから、敢えて両方の存在を認めている」
ということで考えたのであれば、
「事実というのは、史実と同意語であり、真実は、まったく別の、広義の意味と、狭義の意味が存在する」
といってもいいだろう。
「真実は、それぞれの異なる世界に存在するという広義の考えかたと、人それぞれで違っているという狭義の考えかた」
ということになるのだ。
ただ、
「あくまでも、個人主義という考えかたのパラレルワールドが存在するとすれば、その世界においての真実は、その人にとって、一つしか存在しない」
ということになるのであろう。
「真実と史実」
という考えかたであるが、
この考えかたがあるから、パラレルワールドの世界において
「一事不再理の撤廃」
というのは、
「必然だった」
といってもいいのかも知れない。
この世界では、
「合理的」
ということを一番に優先される。
そもそも、戦前の世界においては、どうしても、
「精神論」
であったり、
「日本は神の国」
などということで、国民を洗脳し、誘導してきたということが、結局、
「日本国を亡国にまで追い込んだ」
ということであった。
ただ、それも、致し方ない歴史の事実ということで、考えられるべきであるが、その教訓を生かすという考えかたとして、
「すべてを合理的に考えることで、世の中を統制していく」
という方針が固まったのだ。
確かに、占領軍からの押し付けの民主主義という時代があったが、
「そんな民主主義というものが、史実とは違った」
ということである。
史実においては、あくまでも、
「社会主義」
というものに対して、立地的に日本を、
「民主主義の防波堤」
ということで、
「世界の社会主義化」
というものに歯止めをかけるということになったが、この世界では、
「そこまで確立した東西冷戦」
というものはなかった。
ただ、そのかわり、世界的な民主国家というのは、
「史実における日本の民主主義」
というようなものであった。
つまりは、
「政治とカネ」
といわれる時代であり、史実においては、
「日本独自の民主主義」
といわれていたのだが、実際には、それが、民主主義の代表のようになっていた。
だが、それらの民主国家と呼ばれる政府を、誰も断罪することができない。
もちろん、そういう制度はあるのだが、それを恐慌するだけの力が、国民にはないのだ。
表向きは、史実のような民主主義ということで、特に某国のように、
「国家元首」
というものが、最後はほとんど、悲惨な末路を描いている。
ということが、こちらの世界ではないのだった。
それは、あくまでも、
「政府というのが、国家で重宝されている」
というわけではないのであった。
「政府は形だけ」
ということで、まるでお飾りのような状態なのだ。
しかし、それは、国民に対しての力ということで、
「政府にいる」
ということでの、金銭的なことへの権力は絶大だった。
それこそ、
「政治家というものが、私利私欲のために暴利をむさぼる」
というのは当たり前のことであり、国民に無理強いができない分、
「国が乱れてくれば、力が弱い中でも、どれだけ国家運営ができるか」
ということでの、
「金の力」
ということになるのだろう。
そういう意味で、
「金の力が、法律の力と結びつく」
ということで、このあたりが、史実とはまったく違った世界だということになるのだろう。
そのために、世界は、
「合理性を重んじる」
という社会になってきた。
「精神論であったり、洗脳」
というものが、史実の民主主義のように、
「自由」
というものが最優先されるということでは、、結局は、そこに戻ってくるということになるだろう。
そもそも、史実での民主主義というのは、
「自由、平等、博愛」
といわれてきたが、実際には、
「自由と平等」
というものが共存することはできず、
「自由というものを最優先にするということから、平等というものが、犠牲になる」
といっていいだろう。
だから、
「自由競争」
というものを全面的に認めるということになると、
「貧富の差」
という問題が社会問題になるというのも、必然的なことであるといってもいいだろう。
だからこそ、
「自由に政治とカネというものを使える」
ということになると。
「貧富の差」
というものを、問題だとはしながらも、平等を犠牲にするということで、それこそ考えかたは、
「弱肉強食」
ということになる。
過去の歴史において、
「戦国時代」
というものが存在したが、その時代というのは、
「国家元首」
というものがおらず、中央集権だったはずの、
「幕府の力」
というものが衰えたことで、
「下剋上」
などという、
「自由に、天下を狙う」
ということから、無法地帯が出来上がり、その地帯を領主における
「群雄割拠」
というものが各地で起こってきたことで、
「国盗り」
という発想からの、戦国時代が出来上がっていったのだ。
そもそもは、
「幕府の力が弱まり、さらに、将軍が、政務に無関心になったことが、一番の原因」
ということであった。
「自由に国盗りができる」
ということで、誰もが天下を狙える時代。
それが戦国時代ということで、
「弱気領主は罪悪なり」
といわれるが、まさにその通りである。
「土地を守ってもらう代わりに、領主のために、戦に参加する」
という封建制度の意義が、戦国時代には、
「中央集権」
ではなく、
「群雄科挙」
という形で生まれてきたということになるのだろう。
幕府というものが、衰えたことで出てきた、
「群雄割拠」
というものは、必然といってもいいだろう。
しかし、群雄割拠の時代に入ってきたというのは、最終的な目標は、
「誰かが天下を握り、中央集権を築く」
ということで、
「それしか、戦のない世を築くことはできない」
ということになるのだ。
結局、
「中央集権」
というのが絶対であり、その絶対性があることで、
「戦のない世」
というものができあがり、中央集権を必要以上に強化するということでなければ、いつ何時、
「群雄割拠の時代になりかねない」
ということになるだろう。
しかし、
「いつの時代」
であっても、憂き目を見る人たちがいる。
特に、百姓などがそうであろう。
「群雄割拠の時代」
ということであれば、
「戦に駆り出される」
ということであり、さらには、
「戦で田畑が荒らされる」
ということになると、本当に踏んだり蹴ったりということである。
だから、群雄割拠の時代には、
「百姓のためにも戦のない時代に」
という発想もあったかも知れないが、
「いざ、中央集権」
ということになると、今度は、
「戦のない時代が訪れた」
ということであれば、次に考えるのは、
「その継続」
ということだ。
それは、
「中央集権の強化」
ということであり、そうなると、
「国家元首とそれ以外とでは、明らかな力の差がないといけない」
ということで、
「謀反などが起こせないようにしないといけない」
ということである。
武士に対しては、
「藩の取り潰し」
などによって、恐怖政治を植え付けたが、あまりにも、派手にやったため、浪人という失業者が増えることで、治安が乱れるという、副作用が起こってきた。
さらに、身分制度である、
「士農工商」
というものを作り、
「子々孫々と、その身分を受け継ぐ」
ということにして、世情の安定を図ろうとした。
さらに、農民に対しては、
「生かさず殺さず」
という精神で、徹底的に頭を押さえるということで、中央集権の力を示してきたのであった。
だから、農民からすれば、
「群雄科挙の時代」
であっても、
「幕府による幕藩制度」
であっても、どちらに転んでも、迫害を受けるということに関しては、変わりはないといえるだろう。
そんな時代において、大日本帝国の時代までは、
「中央集権国家」
というものは、封建制度の時代とはまったく変わってしまったのだが、その理由というのが、
「開国した」
ということで、諸外国との折衝というものが、大切になってきたということからであった。
元々、
「不平等条約」
というものを結ばされたが、それを撤廃するということを目標に、
「殖産興業」
「富国強兵」
ということを前面に出した。
つまりは、
「世界という中央集権に対して、群雄割拠の時代を迎えた」
といってもいいだろう。
ただ、戦国時代とは違い、
「元々、世界という中央集権が存在していた」
というわけではないし、日本という国は、明らかな小国であり、世界からも、進出には、鎖国という時代があったことで、かなり遅れてしまったということから、
「第一に国防」
ということでの、
「大日本帝国の国家としての意義」
というものが生まれたといってもいいだろう。
だから、
「アジアにおいて、列強の侵略から解放し、アジアに新秩序を建設する」
という、
「大東亜共栄圏の建設」
というものは、それなりに、説得力があるだろう。
そして、それをなしえるには、
「挙国一致」
ということで、国民が一丸となる必要があり、
「絶対的なスローガン」
というものが必要となる。
幸か不幸か、日本という国は、
「天皇制」
というものがあり、
「天皇を祀り上げることで、目的遂行を完遂する」
という目的に、
「挙国一致」
ができるということであった。
今の民主主義という時代から考えれば、まったく違う発想に見えることで、
「大日本帝国は侵略国家だ」
というような、発想を植え付けられることになるのだろう。
ただ、
「まわりから侵略を受ければ、それに対して、何らかの手段を取らなければ、侵略されてしまう」
という場合に取った政策というのは、当時としては、一番正しい考えだったということなのか、それとも、
「それ以外に手がなかった」
ということになるのか、考えかたとしては、
「それ以外に手がなかった」
ということで、
「大日本帝国の時代」
というのは、時系列で進むしかない時代といってもよく、
「筋書きのある見えないレールの上」
というものを進んできただけだといってもいいだろう。
日本には、そんな歴史が存在することで、
「敗戦」
というところまでは、可能性は、ほぼ他にない時代だったといってもいいのだろうが、
「連合国に占領されてから」
というのは、復興以降。特に
「独立国」
ということになってからの時代は、
「無限の可能性が広がる」
といってもいい時代に突入したのかも知れない。
それが、
「自由」
という発想であり、その発想が、
「無限に広がる可能性」
ということで、表に出てきたのであろう。
ただ、その無限の可能性というものも、ある一点から分かれているということを理解しておかないと、
「無限の可能性」
などというものは、発想として考えられるだけで、実際にはありえないものだということになるであろう。
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