跪く仔犬の見えない首輪
配信終了後のスタジオには、独特の気だるさと熱気が同居している。
撤収作業に追われるスタッフたちの足音、機材を片付ける金属音、そして「お疲れ様でした」と交わされる業務的な挨拶。それらがBGMのように流れる中、私は天井付近に張り付いた意識体のまま、眼下の光景を凝視し続けていた。
ブースの外、調整室ではスタッフたちが忙しく動き回っているが、誰もブースの中にいる二人には声をかけようとしない。
それは単なる偶然か、あるいは真壁サキというマネージャーが放つ「今は近づくな」という無言の結界によるものか。おそらく後者だろう。
ガラス一枚を隔てた密室の中、レオはパイプ椅子に座ったまま微動だにしなかった。
ただ、その視線だけが書類を整理するサキの背中を追尾している。
主人の許可が出るまで餌を前にして「待て」を続ける忠犬の姿そのものだ。
やがて、最後のスタッフが調整室の照明を落とし扉が重い音を立てて開かれ――ガチャリと閉まる音が響いた。
完全なる静寂。
空調の低い駆動音だけが残された空間で、世界は急速にその色を変えていく。
「⋯⋯行ったわね」
サキがふと手元のタブレットから顔を上げずに呟いた。
その声は氷が水に溶けるように、わずかに柔らかさを帯びている。
「はい」
レオが即座に応える。
その瞬間、レオの身体からピンと張り詰めていた糸が緩んだのが見えた。
彼女は椅子の上で小さく身じろぎをし、パーカーの袖を指先でいじり始める。配信中の堂々たる態度は見る影もなく、そこにはサキの関心を引こうとする子供のような仕草だけがあった。
私はその光景を見下ろしながら心の中で合掌した。
尊い。あまりにも空気が美味しすぎる。
誰にも邪魔されない、二人きりのスタジオ。閉鎖空間。
このシチュエーションだけでご飯三杯どころか、コース料理のフルコースがいける。
サキはゆっくりと振り返り、レオの方へと歩み寄った。
ヒールの音が止まる。
レオの目の前、わずか数センチの距離。
サキはレオを見下ろし、レオはサキを見上げる。
その高低差が二人の関係性を残酷なまでに美しく可視化していた。
「さっきの話の続きよ、レオ」
サキの声色が仕事モードのそれとは異なる、より深く、より個人的な響きを帯びる。
「新しいルールを決めるわ」
レオの喉が、ごくりと鳴った。
恐怖ではない。私が《ユリ・スコープ》を通して観測したその感情の波形は、期待と安堵、そして「支配されることへの甘美な喜び」で激しく震えていた。
彼女にとって、サキからの「ルール」は拘束ではない。この不安定な世界と自分を繋ぎ止めてくれる、唯一の命綱なのだ。
「⋯⋯どんな、ルール?」
上目遣いで尋ねるレオにサキは淡々と、しかし逃げ場のない口調で告げる。
「最近、配信外での情緒が不安定すぎるわ。アンチコメント一つで呼吸を乱すなんて、貴女らしくない」
サキの手が伸びレオの顎に触れる。
指先で上を向かせ、瞳の奥を覗き込むように視線を絡ませる。
「今後、不安になったり、心がざわついたりしたら自己判断で抑え込まないこと。それがどんなに些細なことでも、夜中であっても、私が寝ていても関係ない」
一拍の沈黙、スタジオの空気が密度を増す。
「必ず、私を呼びなさい」
それは究極の過保護であり、同時に究極の束縛だった。
自分の感情処理さえも、一人で行うことを許さない。
全ての弱さを、全ての不安を、私に預けろという命令。
レオの瞳が揺れる。
一瞬、その唇が震え、何かを言いかけ――そして幸福そうに歪んだ。
「⋯⋯うん。呼ぶ。絶対、呼ぶ」
まるで呪文のように繰り返すレオ。サキはそこで済まさず顎に添えていた指を離し、冷ややかに告げる。
「もし守れなかったら⋯⋯分かっているわね? 『お仕置き』よ」
具体的な内容は一切語られない。鞭で打つわけでも罵倒するわけでもないだろう。
真壁サキという女が行う「罰」とは、おそらくもっと精神的な――たとえば「無視する」「管理を放棄する」といった、依存する側にとって最も耐え難い「放置」に違いない。
その言葉を聞いた瞬間、レオの行動は劇的だった。
ガタッ、と椅子が音を立てる。
レオは座っていたパイプ椅子から滑り落ちるようにして、床へと降りた。
そのまま、吸い寄せられるようにサキの足元へ。
両膝をつく。
両手を、自分の太ももの上に置く。
背筋を伸ばし、サキを見上げる。
それは完全なる服従の姿勢(ポーズ)だった。
(ぎゃあああああああああっ!!)
私の精神体(ソウル)が、スタジオ内でブレイクダンスを踊り狂った。
あまりの衝撃に、意識の解像度が乱れる。
(見た!? 今、見たよね全人類!?
登録者一〇〇万人の帝王が! 誰に命じられたわけでもなく!
自らの意思で! 跪いたァァァァッ!!)
暴力などない。
手錠も、鎖も、物理的な拘束具は何一つ存在しない。
あるのは「言葉」という楔と「信頼」という鎖だけ。
それだけで最強のVTuberは、一人の女性の前でただの「犬」になりたがっている。
これは飼育じゃない。
魂の救済だ。
自由という名の孤独に耐えきれない彼女にとって跪く場所を与えられることが、どれほどの安らぎか。
レオはサキのスカートの裾を指先でほんの少しだけ摘んだ。
すがるように。けれど汚してはいけない聖遺物に触れるように、慎重に。
「はい⋯⋯。サキのルール、守ります。だから⋯⋯」
捨てないで。
見捨てないで。
言葉にならなかった懇願が、湿った瞳から溢れ出している。
サキはしゃがみ込むことはしなかった。
立ったまま見下ろしたまま、跪くレオの頭に手を置く。
よしよし、と撫でるのではなく、ただそこに在ることを確認するように重みを乗せる。
その掌の温度を感じて、レオがうっとりと目を閉じる。
数秒の神聖なる沈黙。
「⋯⋯いい子」
その三文字が投下された瞬間、スタジオ内の百合波動数値が計測不能(エラー)を起こした。
私の視界が明滅する。
赤、青、黄色、極彩色のノイズが走り、脳内でファンファーレが鳴り響く。
尊い。無理。しんどい。
語彙力が蒸発し、ただ「ありがとう」という感謝の念だけが宇宙へ解き放たれていく。
サキは手を離すと、短く「行くわよ」と告げた。
レオは弾かれたように立ち上がり、尻尾が見えるほどの勢いでその後を追う。
ブースを出て二人は楽屋へと向かう通路を歩き出す。
私はフラフラになりながらその後をなんとか追尾する、鼻血で視界が赤い気がするが気のせいだと思いたい。
まだだ。まだ終わらない。
スタジオという「仕事場」での儀式は終わった。
次はよりプライベートな空間――「神域」での時間が待っている。
私は最後の力を振り絞り、二人の背中に向かって意識を再投影した。
さあ、見せてくれ。
その首輪の本当の締め心地を。
楽屋のドアが閉まる音は、世界の境界線が引かれる音に似ていた。
そこはスタジオの奥にあるVIP専用の控室。
照明は落とされ、間接照明のオレンジ色が革張りのソファや化粧台をぼんやりと浮かび上がらせている。
外の喧騒は分厚い壁と扉によって完全に遮断されていた。
私は意識体としての形を保つのも限界に近い状態で、部屋の隅の観葉植物(パキラ)に同化してその時を見守る。
ここから先は神の領域だ。
一歩間違えば尊さのあまり消し炭になるかもしれない。だが引くわけにはいかない。
サキは部屋に入るなりジャケットを脱ぎ、ハンガーにかけた。
その動作一つにも無駄がない。
彼女はそのまま部屋の中央にある黒い革張りのソファに深く腰掛けると、ふぅ、と小さく息を吐く。
そして、無言のまま――自分の隣のスペースを、手のひらでポンポンと叩いた。
言葉はない。
命令ですらない。
ただの「許可」だ。
レオはその合図を待っていたかのように動いた。
入り口で立ち尽くしていた身体が、流体のように滑らかにソファへと吸い込まれていく。
サキの隣、本来ならパーソナルスペースと呼ばれる絶対不可侵領域にレオは迷いなく侵入し、身体を預けた。
沈み込むソファ――二人の肩が触れ合い、重なる。
「⋯⋯サキ」
「ん」
「匂い、する」
レオがサキの肩口に顔を埋めるようにして鼻を鳴らす。
甘える猫のような、あるいは安心した子供のような仕草。
「香水なら、変えてないわよ」
「ううん、違う。サキの匂い。⋯⋯これ嗅ぐと、帰ってきたって気がする」
レオの声は砂糖菓子のように甘く、脆い。
あの「俺様系Vtuber」の面影は、もはや素粒子レベルで残っていない。
ここにいるのは、真壁サキという人間に依存し、彼女の一部になることでしか自己を確立できない、一人の弱い女の子だ。
(⋯⋯救心。誰か救心をください)
私はパキラの葉っぱになりきりながら、必死に精神を繋ぎ止める。
匂いを嗅ぐ。
それは生物として、相手を自分のテリトリー、あるいは安全地帯として認識している証拠だ。
物理的な接触以上の精神的密着。
この空間の酸素濃度が、百合成分で飽和していく。
サキは肩に寄りかかるレオを拒まない。
それどころか読んでいた台本をサイドテーブルに置くと、空いた手でレオの頭を抱き寄せた。
指が黒髪に絡み、そのままさらりと髪を耳にかけた。
露わになった、白く細い首筋。
そこには配信中は衣装のチョーカーで隠されていた、無防備な皮膚がある。
薄い皮膚の下で、トク、トク、と脈打つ血管。
急所だ。生物として最も守るべき場所。
サキの指がその脈動の上をツーとなぞった。
ビクン、とレオの肩が跳ねる。
けれど彼女は逃げない。
逃げるどころか、もっと触れてほしいとねだるように自ら首を傾けて急所を晒け出す。
「⋯⋯無防備ね」
サキが耳元で囁く。
その声は獲物の喉笛を前にした捕食者のように妖しく、低い。
「サキの、前だもん」
レオが夢遊病のように答える。
その瞳はとろんと潤んで、サキだけを映している。
「⋯⋯そう。なら」
サキの顔が近づき、私の《ユリ・スコープ》が危険数値を叩き出してアラートを鳴らす。
待って。
それは。
その距離感は。
サキの唇がレオの首筋――脈打つ頸動脈の真上で止まる。
触れるか、触れないか。
熱い吐息だけが皮膚にかかり、レオの白い肌が粟立つのを私は確かに見た。
そして。
はむ、と。
サキの唇が、レオの首筋を噛んだ。
(――ッ!?!?!?)
牙を立てて血を流すような野蛮な行為ではない。
甘噛み。あるいは吸血(キス)。
赤く跡が残るか残らないか、その瀬戸際の力加減で、サキはレオの肌に自身の唇を押し付け、味わい、刻み込む。
レオの声にならない喘ぎが静寂に溶ける。
彼女はサキのブラウスをきゅっと握りしめ、背中を反らす。
拒絶はない。そこにあるのは所有されることへの絶対的な快楽と陶酔。
サキが唇を離す。
わずかに赤らんだレオの首筋を、親指で愛おしげに摩りながら彼女は宣言した。
「ここ、私のだから」
――ッ!!
決定打。
致命傷(クリティカル)。
オーバーキル。
それは確認であり、宣言であり、そして不可視の「首輪」を嵌める儀式だった。
物理的な首輪なんていらない。
真壁サキが「私のもの」と定義した瞬間、獅子王レオは彼女の所有物となる。
その刻印は魂に焼き付いて一生消えない。
レオは頬を紅潮させ、潤んだ瞳でサキを見上げ――そして、蕩けるように微笑んだ。
「⋯⋯うん。全部、サキのものにして」
その瞬間。
二人の間に発生した「閉じた世界」の純度が、限界突破した。
観測者である私のキャパシティなど、とうに超えていたのだ。
(あ、これダメだ。死ぬ。
尊さが致死量。
ありがとうございます。良い人生でした――)
私の視界が真っ白に染まる。
脳内で「感謝」「合掌」「昇天」「BIG LOVE」の極太明朝体が乱舞する。
意識体が粒子となって分解されていく感覚。
最後に見たのは、再び重なり合おうとする二人のシルエット。
そして、サキがふとこちら(虚空)へ向けて流し目を送り――ニヤリと笑ったような、そんな幻覚だった。
プツン。
世界が、落ちた。
「ぶふぉっ!!」
現実世界。
深夜二十四時を回った都内のボロアパート、六畳一間。
安物のゲーミングチェアに座ったままの私の鼻から盛大な鮮血が噴出した。
PCのモニターには「NO SIGNAL」の文字。
頭に装着していた自作ヘッドギアから煙が出ている(ような気がする)。
《ユリ・スコープ》強制終了。
原因、観測対象の尊さによる情報過多および、出血多量。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯ッ!」
私は震える手でティッシュ箱を掴み、鼻に詰め込んだ。
心臓が早鐘を打っている。
汗が止まらない⋯⋯が、その顔には満面の笑みが張り付いていた。
「見た⋯⋯見たぞ⋯⋯!」
私は血まみれの拳を天に突き上げる。
「我が生涯に、一片の悔いなし⋯⋯ッ!!」
帝王の首には確かに首輪があった。
それは目には見えない。配信画面にも映らない。
けれどカメラが切れた後の暗闇の中でだけ妖しく、美しく輝く鎖だ。
私は真っ暗になったモニターを見つめる。
そこに映るのは、鼻にティッシュを詰めた間抜けな自分の顔だけだ。
でも私は知っている。
今この瞬間も、どこかの薄暗い部屋で、ソファの上で。
帝王は飼い主の腕の中に抱かれ、世界で一番安らかな呼吸を繰り返していることを。
そして飼い主はその所有物を愛でながら静かに微笑んでいることを。
――これ以上は、見てはいけない。
これ以上の観測は野暮というものだ。
二人の夜は、まだ始まったばかり。
けれど、その扉の鍵は内側から固くかけられている。
神様だって、読者だって、ここから先を覗くことは許されないのだ。
私はそっと、PCの電源を落とした。
部屋が漆黒の闇に包まれても私の胸の奥には、消えることのない尊い光が灯っていた。
観測終了。
ここから先は――二人だけの、秘密である。
百合の波動を観測します ~限界OL隅野ミキの命がけ報告書~ 抵抗する拳 @IGTMJ
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