百合の波動を観測します ~限界OL隅野ミキの命がけ報告書~

抵抗する拳

VTuberの裏側――観測対象:獅子王レオ、真壁サキ

カメラが切れたら、獅子は鳴く


 世界は今日も今日とて虚無で満ちている。

 満員電車という名の家畜運搬車に揺られ、オフィスという名の養鶏場でキーボードを叩き、愛想笑いという名の排泄物を垂れ流す。

 それが現代社会における「OL」というジョブの生態系だ。


 隅野すみのミキ、二十六歳。独身。彼氏なし。

 都内の築三十年、防音性皆無の木造アパート「メゾン・ド・エスポワール(希望などない)」の六畳一間で、私は死んだ魚のような濁った眼球をディスプレイに晒していた。


 時刻は深夜二十三時を回っている。

 明日も仕事だ。上司のハゲ頭に書類の角を突き立てる妄想をしながら、エクセルのマクロを組まねばならない。

 だが今の私に「睡眠」という概念はない。

 私の血管にはカフェインとタウリン、そして――『尊さ』という名のガソリンが流れているからだ。


「⋯⋯さあ、吠えなさいよ。帝王」


 カシュッとプルタブを開ける音が六畳間に響く。三本目の栄養ドリンクだ。

 私の視線の先、デュアルディスプレイの右側で、その「帝王」は極彩色の光を放っていた。


『――おいおい、まだビビってんのか? お前ら、俺についてこい! 今日も最強の景色を見せてやるよ!』


 腹の底に響くような、低く、それでいて艶のある声。

 画面の中で腕を組み、不敵な笑みを浮かべているのは、金髪にライオンの耳を生やした美青年――ではない。

 Vtuber界の頂点に君臨する『獅子王レオ』様である。


 性別、女性。設定、俺様系帝王。

 登録者数は先日、ついに一〇〇万人の大台を突破した。

 豪快なゲームプレイ、切れ味鋭いトーク、そして時折見せるファンへの不器用な優しさ(という名のツンデレ)。

 そのカリスマ性は、画面の前の有象無象(リスナー)たちを熱狂の渦へと叩き込んでいる。


『うおおおおお! レオ様最強! レオ様最強!』

『一生ついていきます兄貴!』

『今日のビジュも国宝級ですね踏んでください』

『スパチャ飛び交いすぎて草』


 コメント欄は秒速で流れていく。文字の滝だ。

 五色のスーパーチャットが乱舞し、画面は常にお祭り騒ぎ。

 

 一方、私といえばその熱狂には参加せずコメントも打たずスパチャも投げない。

 私はただ部屋の明かりを消し、モニターのブルーライトに顔面を焼かれながら、瞬きすら惜しんで「観察」を続けている。


 なぜなら私はファンではないから、私は――観測者だ。


(⋯⋯今日のレオ様、喉の調子はAマイナス。湿度が足りてない。開始五分ですでに水ボトルのキャップを開ける回数が、平均より二回多い)


 私は無言で手元のキーボードを叩く。

 仕事よりも速いブラインドタッチでメモ帳にログを刻んでいく。


(テンションは通常運転に見えるけど、アバターのまばたきの頻度と中の人の呼吸リズムがコンマ一秒ズレてる。⋯⋯何かあったな?)


 私の眼球は通常の人間とは違うモノを見ている。

 世間一般では、これを「百合の波動」と呼ぶらしい。

 いや、私が勝手にそう呼んでいるだけだが。


 宇宙には重力波や電磁波と同じように女性同士の魂が共鳴した際に発生する特異なエネルギー波が存在する。

 それは時として友情を超え、恋愛を超え、主従や依存、執着といった「クソデカ感情」の形をとって現れる。

 私は生まれつき、この波動に対する感受性が異常に高い。

 街中で仲良さげに歩く女子高生を見れば「あ、今の視線は友情じゃなくて独占欲ですね」と看破し、オフィスでお局様が新入社員を叱責していれば「これは歪んだ期待の裏返し、つまり広義の百合」と脳内変換して鼻血を吹く。


 そんな変態的特異体質の私が今、最も注目している「特異点」。

 それが獅子王レオだ。


『オラオラどうしたぁ! かかってこいよ雑魚ども! 俺が全部なぎ倒してやるからよぉ!』


 画面の中でレオ様がFPSゲームの敵を次々とヘッドショットしていく。

 快進撃。無敵の帝王。リスナーは彼女の「強さ」に酔いしれている。


 だが、違う。そうじゃない。

 私が観測しているのは、その「強さ」の裏側にへばりついている、湿度一二〇%の「弱さ」だ。


 その時は唐突に訪れた。


『――ッ』


 レオのアバターが硬直する。敵に撃たれたわけではない。回線落ちでもない。

 ほんの一瞬。人間が「息を呑む」動作をしたとき、マイクに乗るはずのわずかなノイズすら消えた、完全なる空白。


 私の脳内で赤い回転灯が激しく回り始めた。


『緊急警報(百合アラート)発令! 緊急警報発令!

 第四種接近遭遇! 座標、画面中央! 深度、計測不能!』


「⋯⋯今、見た?」


 私は誰もいない六畳一間で、誰にともなく問いかけた。

 興奮で指先が震え、飲みかけの栄養ドリンクが少しこぼれる。


 今、コメント欄に流れた、たった一行のノイズ。


『最近のレオ、なんか媚びてね? 牙抜けたんじゃねーの』


 辛辣なアンチコメント。

 一〇〇万人の登録者がいればアンチなど日常茶飯事だ。普段のレオ様なら「ハッ、雑魚の遠吠えが聞こえるなぁ?」と鼻で笑ってスルーするか、あるいは華麗にプロレスのネタにして消化するはずだ。


 でも違った。今、彼女の視線が「泳いだ」のだ。


 アバターの目は正面を向いている。Live2Dの技術では、眼球の細かな揺らぎまでは完全再現されない。

 けれど私には見えた。

 中の人の視線がコメント欄から外れ、画面の「外」へ向かったのを。


 助けを求めるように。

 あるいは、誰かの顔色を窺うように。


 その視線の動きに宿る感情は、帝王の「傲慢」ではない。

 それは――叱られることを恐れ、飼い主を見上げる「怯え」に近い色。


「⋯⋯来た」


 私の口角が、耳まで裂けそうなほど吊り上がる。

 体温が急上昇する。鼻の奥がツンとする。

 これは、ただの配信トラブルじゃない。

 これは「供給」だ。神が私に与えたもうた、極上の福音だ。


「来たァァァァァッ!! これだよ! これが見たかったんだよ!!

 この『虚勢で塗り固めた鎧の隙間から漏れ出る、ドロッドロの依存心』!!」


 私は叫びながら、頭に装着していたヘッドギア(自作の脳波同調装置・効果はプラシーボのみ)のスイッチを入れた。

 いや、そんなガラクタはどうでもいい。

 重要なのは、私の精神統一だ。


 私は目を閉じ、意識を集中させる。

 肉体という檻から精神を引き剥がし、電子の海を越え、波動の源流へとダイブする。

 これは私の固有能力(スキル)。

 名付けて――《ユリ・スコープ》。


「意識投射、開始シークエンス・スタート

 ターゲット、獅子王レオ。

 ――全速前進、壁抜け《ノー・クリップ》で突っ込むぞオラァッ!!」


 カッ、と視界が白く染まり六畳一間のカビ臭い空気が消えていく。

 私は飛んだ。観測者として帝王の「裏側」へ。


 ――着地成功。

 そこは都内某所にある配信専用スタジオのブース内だった。


 防音壁に囲まれた閉鎖空間。

 無数の機材、ケーブルの森、そして高価なマイクと複数のモニター。

 その中心に彼女はいた。


 獅子王レオ。

 画面の中で一八〇センチの長身を誇る金髪の偉丈夫は、当然ながらそこにはいない。

 そこに座っていたのは、サイズの合わない大きなパーカーに身を包んだ小柄な若い女性だった。


 私は透明な意識体となり、彼女の背後霊のように浮かびながら、その背中を凝視する。

 ボブカットの黒髪。首元には声をクリアに拾うための喉マイク。

 画面上のアバターは、まだ不敵に笑いながらゲームを続けている。

 ヘッドセット越しの声も変わらず勇ましい。


『おらよっと! ヘッドショット一丁あがり! 見たか? これが才能の差ってやつだ!』


 完璧な演技だ。声のトーン、間の取り方、少しの動揺も見せないプロの技。

 しかし――私の瞳 《ユリ・スコープ》は、机の下にある「真実」を映し出していた。


(⋯⋯足)


 彼女の細い足が小刻みに震えている。

 貧乏ゆすりとは別の寒さに震えるような、あるいは強烈なプレッシャーに耐えるような、制御不能の振動だった。

 パーカーの袖から覗く指先は、キーボードを操作しながらも、白くなるほど強くキーを叩いている。


 怖いのだ。さっきのアンチコメントがまだ彼女の心臓に刺さっている。

 「媚びている」「牙が抜けた」その言葉が、彼女の作り上げた「最強の帝王」という虚像を揺るがしている。


 彼女はただの弱い女の子だった。

 誰かに守られなければ、一秒だってこの過酷なインターネットの海に立っていられないような、華奢で、臆病な魂。


 では、なぜ彼女は立っていられる?

 なぜ、足の震えを声に乗せずにいられる?


 私は視線を上げてレオが見つめている先を見通した。

 コメント欄が表示されたモニターではなく、そのさらに奥。

 防音ブースを隔てる、分厚いガラスの向こう側。


 そこに、もう一人の人物がいた。


(⋯⋯出た。ラスボス)


 調整室(コントロールルーム)の薄暗い部屋の中で、腕を組みながら仁王立ちでこちらを見つめる女性――真壁サキ。

 獅子王レオの担当マネージャーであり、このプロジェクトの運営責任者。度々、配信にも名前が上がり界隈ではちょっとした有名人だ。


 黒髪のロングヘアを一つに束ね、仕立ての良いパンツスーツを着こなすその姿は、まさに「デキる女」の具現化、その眼鏡の奥の瞳は氷河のように冷たく、そして鋭い。

 彼女はモニターの数値など見ていない。ガラス越しにブースの中のレオだけを直視している。


 レオがチラリと視線を上げた。

 ゲームプレイの合間、コンマ数秒の隙を見てガラスの向こうのサキをみやる。


 それは確認だった。

 『私、大丈夫?』

 『間違ってない?』

 『ちゃんと出来ている?』


 言葉には出さない問いかけ。それに対してサキは微動だにしなかった。

 頷きもしない。笑いもしない。

 ただ冷徹な視線でレオを射抜いたまま組んだ腕の指先で、二の腕をトン、と一度だけ叩いた。


 ――続けなさい。


 音声など聞こえるはずもないのに、その意思だけがガラスを透過して伝播した。

 絶対的な命令、揺らぐことのない支配。


 その合図を見た瞬間にレオの足の震えがピタリと止まった。


『――ッシャア! 次! かかってこい! 全員まとめて地獄の底へ観光案内してやるぜ!』


 声に力が戻る。いや、さっきよりも強い。

 恐怖が消えたのではなく「飼い主が見ている」という事実が、彼女の恐怖を強制的にねじ伏せ、安堵へと変換したのだ。


 私は空中で思わず悶絶した。

 意識体でよかった。肉体があったら今頃スタジオの床を転げ回り、機材をなぎ倒して警備員に取り押さえられていただろう。


(素晴らしい⋯⋯! ブラボー! オー・マイ・ガッ!!

 何この関係性!? 何この主従!?

 画面の中では『俺様』? 『帝王』?

 笑わせるんじゃないよ!

 実態はご主人様の指先ひとつで震えが止まる、躾けられたチワワじゃねーか!!)


 尊さで脳が焼ける。

 サキの、あの一切の動揺を見せない「管理」の視線。

 レオの、その管理下に置かれることで初めて呼吸ができる「依存」の視線。


 二人の間には言葉なんていらない。物理的な接触すらも超えてガラス一枚を隔てたその距離こそが、その関係性を雄弁に物語っている。


 触れられない。

 けれど確実に繋がっている――見えない首輪と見えないリードで。


(ああ、間違いない。私の百合センサーは正常だ。いや、むしろ感度が振り切れている)


 私は確信する。

 震える指(意識体)で、空中にログを打ち込む。


 【観測報告書 No.1024】

 対象:獅子王レオ、真壁サキ

 判定:Sクラス(主従・共依存・隠蔽)

 備考:この配信はただの前座⋯⋯茶番だ。

 本編は、カメラが落ちた瞬間に始まる⋯⋯!


 配信時間は残り十分。

 エンディングトークへと向かうレオの声を聞きながら、私はスタジオの天井付近に張り付き、その時を待った。


 「お疲れ様でした」の声が響く、その瞬間を。

 仮面が剥がれ落ち、獣が本来の姿――ただの、愛に飢えた少女に戻る瞬間を。


 私の鼻腔の奥で鉄錆のような匂いがする。現実世界の肉体が鼻血を出しているのかもしれない。

 当然、帰還するわけにはいかない。

 なぜならこれから始まるのだ。誰も知らない、二人だけの「秘密の夜」が。



『――っつーわけで、今日の配信はここまでだ!

 アーカイブ残すから見返して復習しとけよ。高評価とチャンネル登録、忘れたら⋯⋯分かってるよな? 夢枕に立って噛みついてやるから覚悟しとけ!』


 獅子王レオの声が、ラストスパートに向けて加速する。

 BGMのボリュームが上がり、エンディングアニメーションの準備が整う。


『それじゃあ、また次の夜に会おうぜ。

 最強の夢を見ろよ、お前ら! ――解散ッ!!』


 ビシッ、とアバターが敬礼を決める。

 同時に配信画面が暗転し待機画面へと切り替わった。


 YouTubeの画面上ではチャット欄が「おつレオ!」「解散!」「愛してる!」の嵐で埋め尽くされている。だが現場(ここ)は違う。


 ブツン。

 スタジオの赤いランプ――「ON AIR」の文字が消灯した。


 その瞬間だった。


「⋯⋯⋯⋯は、ぁ⋯⋯⋯⋯」


 空気が、死んだ。

 先ほどまでの熱気が嘘のように、スタジオ内の温度が急激に下がったように錯覚する。


 ブースの中央でパイプ椅子に座っていたレオが、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。

 ヘッドセットをつけたまま、デスクに突っ伏す。

 肩が大きく上下している。


「⋯⋯こわ、かった⋯⋯」


 漏れ聞こえた声は帝王のそれではない。

 震える、か細い、今にも泣き出しそうな少女の独白。

 喉マイクはもう切れている。誰にも届かないはずの弱音が静寂な空間にポトリと落ちる。


(――観測した! 観測しましたァァッ!!)


 私は天井付近で、意識体としてガッツポーズを決めた。

 これだ。この「落差(ギャップ)」こそが現代社会に失われたオーパーツ。

 一〇〇万人の前で虚勢を張り続けた反動。

 鎧を脱ぎ捨てた瞬間の、剥き出しの皮膚のような無防備さ。


 レオは顔を上げない。

 自分でヘッドセットを外すことさえできないほど、消耗しきっているのか。

 あるいは――「誰か」が外してくれるのを待っているのか。


 答えはすぐに示された。


 カチャリ。

 重厚な防音扉が開く音がした。


 調整室から出てきた真壁サキが、ブース内へと足を踏み入れる。

 コツ、コツ、コツ。

 ヒールの音が規則正しく響く。

 その足音だけでレオの肩がビクリと跳ねた。


 突っ伏していたレオが、のろのろと顔を上げる。

 その瞳は潤み、焦点が定まっていない。

 怯えと、安堵と、そして強烈な「渇望」がない交ぜになった瞳。


「⋯⋯サキ」


 名前を呼んだ。

 「マネージャー」でも「真壁」でもない。

 呼び捨て。

 だが、そこに含まれるニュアンスは対等な友人のそれではない。

 親を呼ぶ迷子か、あるいは神にすがる信徒か。


 サキは無言だった。

 表情一つ変えず、レオの背後に回り込む。

 私は息を呑んだ(意識体なので肺はないが)。


(百合センサーがビンビンだ! 来る⋯⋯! 来るぞ⋯⋯! 『帝王解除』の儀式が⋯⋯ッ!)


 サキの手が伸びる。

 白く、細く、それでいて骨ばった指先。

 その指がレオの髪をかき分け、ヘッドセットのイヤーカップに触れる。


 丁寧な動作だった。

 高価な機材を扱う手つきではない。

 壊れ物を、あるいは「自分の所有物」を検分するような、湿度のある手つき。


 サキはゆっくりとレオの頭からヘッドセットを取り外した。

 レオの黒髪がふわりと揺れる。拘束具が外された瞬間だ。


 しかしその手はそこで止まらなかった。

 彼女は外したヘッドセットをデスクに置くことなく、その長いケーブルを――自らの左手に、くるくると巻き付け始めた。


 一度、二度、三度と黒いケーブルが、サキの白い手首に巻き取られていく。

 レオとサキを繋ぐ、黒い線。

 サキがそれを巻き取るたびに、二人の物理的距離が強制的に縮まっていく。


 レオは椅子に座ったまま、その様子をぼんやりと見上げている。

 逃げない。いや、逃げるという発想がないのだ。

 その光景は、どう見ても――


(リ、リード⋯⋯ッ!! リードだこれェェェェッ!!)


 私の脳内処理速度が限界を突破し、スパークする。


(ヘッドセットのコードを! 散歩紐みたいに! 巻き取って! 引き寄せている!?

 天才か!? 真壁サキ、あなたは演出の天才なのか!?

 いや、これは演出じゃない! これは彼女たちの『日常』だ!

 日常動作の中に無意識の支配構造が組み込まれているんだよ!!)


 サキの手が止まる。

 コードは短くなり、レオの顔はサキの腹部のあたりまで引き寄せられていた。

 レオは上目遣いで、サキを見上げる――その距離、わずか三十センチ。


 サキがようやく口を開いた。


「⋯⋯今日は、よく頑張ったわね」


 低く、落ち着いたアルトボイス。

 仕事上の連絡をするような事務的なトーンだが、その声色は先ほどまでの冷徹さとは微妙に異なっていた。

 甘さはない。けれど、そこには確かな「肯定」が含まれていた。


「アンチコメント、読み上げそうになったでしょう。喉まで出かかっていた」

「⋯⋯⋯⋯うん」

「怖かった?」

「⋯⋯うん。怖かった」


 レオが小さく頷く。

 先ほど「かかってこいよ雑魚ども!」と吠えていた姿は、もうどこにもない。

 ここにいるのは、雷に怯える子犬だけだ。


「偉いわ。ちゃんと飲み込んだ。⋯⋯私の指示通りに」


 サキの空いている右手がレオの頬に伸びていく、触れるか、触れないか。

 そのギリギリの距離で指を滑らせ、レオの顎の下をくすぐるように動かす。


 レオの喉が、ごくりと鳴った。

 彼女は目を細め、サキの手に自ら頬を擦り寄せようとするものの、すっと指が引かれる。


 焦らし――拒絶ではない、お預け。


「⋯⋯ぅ」


 レオが不満げに切なげに声を漏らす。

 その声を聞いた瞬間、サキの口元がほんの数ミリだけ歪む――笑み、嗜虐心と独占欲が滲み出る、支配者の微笑み。


 そして、レオが口を開いた。

 私の全神経がその言葉を聞き逃すまいと研ぎ澄まされる。


「⋯⋯褒めて、くれる?」


 ――ッ!!


 私の意識体(ソウル)が、スタジオの天井を突き破り、成層圏まで吹き飛んだ。


(言った! 言ったァァァァッ!!

 『褒めてくれる?』だとォ!?

 一〇〇万人の王が! 最強のプレデターが!

 たった一人の女の前で、『褒めて』とねだったァァァァッ!!)


 尊い。無理。しんどい。語彙力が死滅する。

 こんなの一般通過OL(※変態度極)がタダで見ていい光景じゃない。

 入場料五〇〇〇兆円払っても安い。国宝だ。いや、世界遺産だ。ユネスコは何をしている? 今すぐここを保護区域に指定しろ!


 サキはまだコードを握ったまま、静かに告げた。


「⋯⋯いいわ。スタジオを出たら、たっぷり可愛がってあげる」

「ほんと⋯⋯?」

「ええ。ただし――」


 サキの目が、すっと細められる。


「新しいルールが必要ね。⋯⋯詳細はみんなが行ってから」

「⋯⋯!」


 その言葉にレオの背筋がビクリと伸びる。彼女の瞳の奥に新たな「命令」を与えられることへの、暗い期待の炎が灯っていた。


 サキがコードを離しパラパラと黒い線が床に落ちる。

 物理的な繋がりは解けたが二人の間には、それよりも遥かに強固な、見えない鎖が巻き付いていた。


「撤収作業が終わったら、いつもの部屋に来なさい」

「⋯⋯はい。サキ」


(⋯⋯やばい。鼻血が出る)


 私は意識体でありながら現実の肉体の危機を察知した。

 興奮が致死量を超えている。

 このままでは観測中に失血死するという、前代未聞の事態になりかねない。


 でも、目を離せない。

 これから始まるのだ。

 カメラのない場所で。

 マイクのない場所で。

 「新しいルール」という名の甘美な調教しつけの時間がッ!!!


 私は意識を安定させるために、無理やり深呼吸をした(イメージ)。

 落ち着け、隅野ミキ。

 お前は観測者だ。歴史の証人だ。

 彼女たちの関係性がどこへ行き着くのか、最後まで見届ける義務がある。


 ――そして物語はより深く、より昏い、二人だけの深淵へと進んでいった。

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