第003話 揺り籠の支配者
生後半年が過ぎ、俺を包む世界はより鮮明に、そしてより過保護な色彩を濃くするようになっていた。
視界を遮る揺り籠の天蓋、肌に触れる最高級のシルク、そして絶えず漂う、誰かが側にいるという気配。
ヴァルゼイド公爵家の末子として生まれた俺ことユウ・ヴァルゼイドの日常は、常に誰かの温かな視線の中にあった。
左腕が根元から欠落しているという事実は、家族にとって『この子は人一倍、目を離してはならない』という、鋼のように強固な義務感と、祈りにも似た慈愛へと姿を変えていた。
生後半年。
本来なら寝返りを打ち、ようやく座り始めるかという時期だが、俺が少しでも身を捩れば、給仕の手が止まり、母様のエレインは吸い寄せられるようにして俺を抱き上げる。
「ユウ、どうしたの?寂しくなったのかしら。それとも、左腕が痛むの?大丈夫よ、母様がずっと側にいてあげるからね」
彼女の瞳を覗き込めば、そこには前世、佐々木優真としての人生では一度も感じたことのないほど、深い愛情が濁りなく宿っている。
それは時に、俺の胸を締め付けるほどに甘い。
俺は子供らしい無垢な笑みを意識して浮かべ、残された右手で母様の柔らかな銀髪を握りしめた。
だが、その無邪気な仕草の裏側で、俺は左腕に宿るパサージュの鍵を微弱に起動させ、事象の歪みを整えていた。
物理的な質量を持たない銀色の粒子が、彼女の肩に溜まった凝りや精神的な疲れを、取り去って行く。
母様は不思議そうに目を細め、憑き物が落ちたような、幸せそうな溜息を漏らした。
家族が俺を不憫な宝物として愛してくれるなら、俺はその愛を糧に、この見えない腕で彼らの平穏を守り続けよう。
それが、二度目の生を得た俺が自分に課した最初の誓いだ。
夜、邸宅が深い静寂に包まれる頃、俺の訓練の時間が始まる。
窓から差し込む月光が、贅を尽くした室内を青白く照らし出す。
母様が俺の額に柔らかな口づけを残して部屋を去り、重厚な扉が音もなく閉まる。
その合図を待って、俺は意識の深淵にある鍵をゆっくりと回した。
乳児の肉体はまだ思うように動かない。
自力で立ち上がることも、歩くことも叶わない、無力な肉の塊だ。
しかし、左肩の欠落から伸びる、パサージュの鍵が形作る概念上の腕に、物理的な制約など存在しない。
俺は仰向けに寝かされた状態で、意識の軸を『外』へとスライドさせる。
数メートル上にある、精緻な彫刻が施された石造りの天井。
本来なら赤ん坊の短い手が届くはずのない、遥かな高み。
俺は、
存在しない腕で『そこにあるべき運命』を掴み、歴史を書き換える力。
それは視覚的な腕ではない。
空間そのものが俺の意志に従って延長され、触覚として機能する感覚だ。
見えない指先が天井の冷たい石の感触を捉え、刻まれたヴァルゼイド家の家紋をなぞる。
それは物理的な接触というより、世界を構成する方程式そのものに直接触れているような、全能感に近い不思議な感触だった。
俺は見えない指先を繊細に動かし、天井の隅に溜まっていた、清掃の行き届かない僅かな埃を捉えた。
さらにパサージュの鍵の一つ、
それは事象の抹消。
埃がそこにあったという記憶、質量、時間、それらすべてを世界の記録から消し去り、因果の彼方へと追放する。
銀色の粒子が爆ぜたかと思うと、埃は存在そのものを無に帰していた。
俺にとって、この深夜の密かな悪戯は、新しい力の制御を学ぶための大切な修練であった。
ふと、見えない腕をさらに横へとスライドさせ、窓際に飾られた陶器の置物に触れてみた。
それは父様が、『ユウが将来、退屈しないように』と、はるか南方の異国から取り寄せた精巧な鳥の像だった。
俺は虚数解の左腕で見えない指先を伸ばし、その羽をそっとなぞりながら、重力を事象から一時的に切り離す。
陶器の鳥は重力という軛を忘れ、音もなく台座から浮かび上がった。
俺の意志一つで、それは揺り籠の上を優雅に旋回し始める。
月光を反射して、壁には銀色に輝く鳥の影が踊る。
俺はそれを見つめながら、赤ん坊らしい、混じりけのない満足感とともに声を漏らした。
「あぅ……」
その時、廊下の奥から、軍靴特有の規則正しい、だが極めて静かな足音が聞こえてきた。
俺は瞬時にパサージュの鍵を解除し、陶器の鳥を寸分の狂いもなく元の位置へと戻す。
数瞬後、扉がわずかに開き、細い光が差し込んだ。
そこには、王国元帥という重責を担う武人、父様の姿があった。
鎧を脱ぎ捨てた部屋着姿であっても、その威圧感は隠しきれない。
だが、俺を見つめるその瞳だけは、北国の冬を溶かす太陽のように温かかった。
「ユウ、起きているのか?……ふむ、まだ目が冴えているようだな」
父様は大きな、節くれ立った掌で俺の頭を優しく撫でた。
彼の指先が、俺の空虚な左袖に触れる。
そのたびに、彼の強靭な精神の奥底には、言いようのない切なさと、自責の念が去来するのを俺は感じ取っていた。
彼は俺を不憫に想い、そしてその欠落を埋めるために、生涯を賭けて守ることを自分自身に誓っていた。
「心配するな、ユウ。お前がどんなに弱く、どんなに不自由であっても、この父が世界のすべてからお前を守り抜いてやろう。お前に剣を握らせ、泥を啜らせるような真似は決してさせん。 このヴァルゼイドの名は、お前という宝を愛するためだけにあるのだから」
父様の言葉は、あまりにも重く、温かかった。
彼は俺が、天井を自在に触り、物体を浮遊させ、世界の理を弄んでいることなど夢にも思っていない。
俺は父様の太い親指を右手でぎゅっと握りしめた。
そして、左腕に宿るパサージュの鍵を使い、物理的な手を使わずに、概念的な接触で彼の荒れた掌をそっと包み込む。
彼が背負う王国元帥としての重圧、数多の部下の命を預かる責任、その一部を、理の干渉によって緩和し、安らぎへと置換する。
父様は驚いたように目を見開き、やがて強張っていた肩の力を抜いて、柔らかな笑みを浮かべた。
「不思議だな。お前といると、戦場での荒んだ心さえも凪いでいく。ユウ、お前は我が家の、希望の光だ」
父様が名残惜しそうに去った後、俺は再び天井を見上げた。
家族の誓いは、俺を『無力な弱者』として箱庭に閉じ込める鎖ではない。
それは、俺が真の力を育み、この世界の理を掌握するための、最も安全で、最も愛に満ちた繭であるかこに間違いはない。
俺はこの過保護な愛を、甘んじて受け入れてやろう。
俺を不憫だと想い、守ろうとする彼らこそが、俺がその実力を隠し通し、陰から世界の敵を排してでも支えるべき対象なのだから。
翌朝、陽光がカーテンの隙間から差し込むと同時に、ゼノン兄様とサリア姉様が、嵐のように部屋に駆け込んできた。
「ユウ!おはよう!ほら見て、一番柔らかいクッションを持ってきたよ!これなら左肩も痛くないはずだ!」
「私がユウを抱っこして、お庭のお花を見せてあげる。ユウ、怖くないからね」
二人は俺を、まるで触れれば壊れてしまう精巧なガラス細工のように扱い、一歩歩くごとに大騒ぎをする。
もちろん、生後半年の俺に自力で歩く力などない。
サリア姉様が危なっかしい手つきで俺を抱き上げる際、俺は再び、左腕に宿るパサージュの鍵を起動させた。
実体のない虚数解の左腕を伸ばし、サリアの小さな背中を包み込むように添える。
それは、彼女が俺の重みでバランスを崩して転ばぬよう、また、俺という『荷物』が彼女の負担にならぬよう、無形の力で浮力を与える干渉だった。
「えへへ、今日のユウは全然重くないわ。なんだか、ふわふわ浮いてるみたい!」
彼女は自分の力が強くなったのだと勘違いして得意げに胸を張り、俺を中庭へと連れ出した。
中庭の噴水の前で、俺は水の粒子に意識を向けた。
虚数解の左腕の指先で、飛沫の一粒一粒を弾くようにして、空中に静止させる。
家族やメイドたちの目には、単に噴水の水が今日の陽光に反射して、いつもより美しく輝いているようにしか見えないだろう。
物理的な左腕がないことは、俺に『肉体という限界を超え、世界そのものに直接触れる自由』を与えてくれたのだ。
午後、俺は母様の膝の上で心地よいまどろみの中にいた。
彼女は俺の左肩、何もない空間を、まるであるべき腕が存在するかのように優しくなぞりながら、静かに子守唄を歌ってくれる。
その歌声は温かく、前世の辛い記憶を銀色の粒子で洗い流していくようだった。
俺は母様の胸に顔を埋め、再び見えない左腕を彼女の背中に優しく回して、そっと抱きしめ返した。
自分ではまだ寝返りすらままならない赤子であっても、この『パサージュの鍵』がある限り、俺は家族を抱きしめることができる。
家族には、ずっとこのままでいてほしい。
俺を不憫に想い、惜しみない愛を注ぎ続け、俺の欠落を自分たちの痛みとして共有してくれる、優しい彼らのままで。
そのためなら、俺はこの『空白の腕』を振るい、世界の理をいくらでも書き換えてみせる。
ヴァルゼイド公爵家の末子。
左腕のない、不憫な御子。
その小さな体の中に、神の如きパサージュの鍵が眠っていることなど、今はまだ、誰一人として知らなくていい。
俺は揺り籠の中で、銀色の夢を見ながら、深い眠りへと落ちていった。
明日もまた、家族の温かな声で目覚めることができる。
その当たり前の幸福を守り抜くことこそが、俺に与えられた、新しくも絶対的な使命なのだった。
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欠落の聖遺物(レリック) 〜神の鍵束は、僕の左腕に宿る〜 スフィーダ @sfida_wazu
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