第002話 欠落の産声

 意識が混濁する中、俺が最初に感じたのは、暴力的なまでの生命の胎動だった。


 先ほどまで耳元で鳴り響いていたパサージュの鍵束の音は、いつの間にか、誰かの規則正しい鼓動と、切実な祈りの混じった吐息へと変わっている。

 狭く、温かな闇。そこは、あの灼熱の地獄とは正反対の、絶対的な安寧に満ちた場所だった。



 不意に、視界を塞いでいた膜が弾ける。

 押し寄せる光の奔流に目を細めると、そこには豪華絢爛という言葉すら生温い、重厚な石造りの広間が広がっていた。

 天井には複雑な魔導回路を刻んだシャンデリアが輝き、壁には歴代の当主と思われる肖像画が並んでいる。

 だが、その場の空気は、およそ出産を祝うような晴れやかさからは程遠い、凍り付くような戦慄に支配されていた。


 産婆が震える手で、生まれたばかりの俺を抱き上げる。

 その瞬間、寝台に横たわる母親エレインの喉から、押し殺したような悲鳴が漏れた。

 傍らで見守っていた父親ガルド・ヴァルゼイドの強靭な体が、雷に打たれたように硬直するのがわかった。


 無理もない。


 俺の小さな身体には、本来あるべきものが欠落していたからだ。

 左肩の付け根から先、そこには五指はおろか、腕そのものが存在しなかった。

 断面は、まるで神の指先で抉り取られたかのように滑らかで、傷跡一つないまま、そこから先の世界が『失われて』いた。


 それは、パサージュが告げた通りの姿だった。

 前世の最後、崩落する瓦礫から子供たちの未来を支え抜いた代償。

 俺の魂が選んだ自己犠牲の証は、転生という理を越えて、ユウ・ヴァルゼイドという少年の欠損として現れたのだ。


 広間の奥から、一団が慌ただしく歩み寄ってきた。

 この国の頂点に立つ者たち――ヴァルゼイド王家の面々だ。


 父であるガルドの兄、つまり俺の伯父にあたる国王エドマンド、そして王妃イザベラ、従兄である王太子ウィンザーの三人が、弟の息子の誕生を祝うべく駆けつけていたのだ。


 エドマンド国王が重厚な足音を立てて近づいてくる。

 その瞳には、血を分けた弟の息子への慈しみと、同時に隠しきれない驚愕が宿っていた。

 傍らに立つイザベラ王妃は、扇を握る手に力を込め、痛ましげに俺を見つめている。


「おお、ガルド……なんということだ。我が一族の繁栄を象徴する、お前の末子が……」


 国王の言葉に、王太子ウィンザーも悔しげに拳を握りしめた。

 魔道を極めたヴァルゼイド一族において、肉体の欠損は、そのまま魔力の循環不全を意味する致命的な弱点になりかねないのだろう。

 伯父上も、従兄上も、俺の将来を、ひいては背負うであろう過酷な運命を案じて言葉を失っていた。


 だが、俺自身は不思議と悲しくなかった。

 赤子としての肺機能が整うにつれ、俺はただ、自分の左肩を見つめていた。

 物理的な腕はない。だが、そこには確かな『重み』がある。

 パサージュから託された、黄金の鍵。

 目には見えず、誰の指も触れることのできない『虚数解の左腕』が、銀色の粒子の渦となってそこに実在しているのを、俺だけは感じていた。


(ああ、父様も、母様も、伯父上も、そんなに悲しそうな顔をしないでくれ。俺はこの腕であの子たちをちゃんと守り抜いたんだ。だから、これは勲章なんだよ……)


 俺は、たどたどしい動きで右手を伸ばした。

 その指先で、泣き崩れようとする母様の頬に触れる。

 その刹那、部屋を満たしていた重苦しい空気が一変した。


 俺の左肩の『空白』から、目に見えない波紋が広がった。

 それはパサージュが言っていた『福音の揺り籠』の断片だったのかもしれない。

 絶望に染まりかけていた広間に、春の陽だまりのような温かさが満ち、人々の心から不安と悲哀が急速に吸い取られていくのがわかった。


「……泣かないのか。この子は」


 父様が、掠れた声で呟いた。

 彼は震える手で、産婆から俺を受け取った。

 筋骨逞しい父様の腕の中で、俺は精一杯の意志を込めて彼を見上げた。

 俺の瞳には、欠損を嘆く影など微塵もないはずだ。

 新しい家族に出会えた喜びと、溢れんばかりの愛着を伝えたかった。


「左腕がないなど、些細なことだ。見てくれ、兄上。この子は笑っている。この過酷な運命を、あざ笑うかのように堂々と……!」


 父様の言葉に、エドマンド国王が深く頷いた。

 国王は、自らの腰に差した儀礼用の剣を抜き、その柄を俺の右手にそっと触れさせた。


「ヴァルゼイドの血を引く者が、五体の不満足程度で挫けるはずもない。むしろ、神はこの子に、腕一本を捧げさせるほどの大きな使命を与えたのかもしれん。ガルドよ、案ずるな。このユウこそが、我が王国の新たな光となるだろう」


 王妃イザベラが歩み寄り、俺の額に優しく口づけを落とした。


「ええ、本当に愛らしい。この柔らかな肌、透き通るような瞳……。腕がないのであれば、私たちがその腕になれば良いのです。そうでしょう、ウィンザー?」

「もちろんです、母上、ユウ、お前が剣を持てぬなら俺が盾になろう。お前が何かを掴めぬなら、俺がこの手でお前の望むすべてを掴んでやろう」


 王太子は、幼い従弟に向けて、誇り高い誓いを立ててくれた。

 それは、選民思想とは無縁の、ただ純粋な家族の愛だった。


 双子の兄姉、ゼノンとサリアも、父様の腕の中にいる俺を覗き込んできた。

 幼い二人は、まだ事の重大さを完全には理解していないのだろう。

 ただ、自分たちよりもずっと小さくて、壊れそうなほど繊細な弟を本能的な庇護欲をもって受け入れてくれた。


「ユウ、僕たちがついているからね」

「そうよ、私たちが全部やってあげるわ。あなたはただ、笑っていればいいのよ」


 二人の無邪気な言葉に、俺は再び微笑んだ。

 パサージュの警告が脳裏をよぎる。

 この『見えない左腕』は、世界の理を書き換えるバグのようなものだ。

 もし一人で無双してしまえば、世界から恐れ慄かれてしまうだろう。

 だが、こうして家族に慈しまれ、『一人では何もできない無力な存在』として溺愛されることで、その監視を逃れることができる。


(……甘やかされれば甘やかされるほど、神に近い力がチャージされる……だったか。パサージュ、あんたの言う通りだ。これなら、いくらでも甘えられそうだよ)


 俺は、父様の逞しい胸板に顔を埋めた。

 前世では、常に守る側だった。

 火炎の中で、瓦礫の下で、子供たちの未来を支えるために、ただ独りで歯を食いしばっていた。

 だが、今世は違う。

 この温かな家族たちが、自分のために涙を流し、守ると誓ってくれている。

 その心地よさに身を委ねながら、俺は深い眠りへと誘われていった。


 外では、街を飲み込むような乾燥した強風が、嘘のように止んでいた。

 代わりに来たのは、大気を清める穏やかな雨。

 それは、失われた左腕の代わりに、神が授けた無数の鍵『世界の理を回す力』が、この地に根付いたことを祝福する調べのように聞こえた。


 王族と公爵家、国を支える最高峰の権力者たちが一堂に会し、一人の赤子の誕生を、文字通り国家的な慈しみを持って迎え入れてくれた。


 左腕のない赤子。

 だが、その不在こそが、最強の魔道一族を結びつける絆となり、やがて世界を根底から揺るがす奇跡の起点となることを、この時の彼らはまだ知る由もなかった。


 俺、ユウ・ヴァルゼイドの二度目の人生。

 それは、最も深い愛と、最も強大な『空白』を抱えたまま、静かに、そして劇的に幕を開けた。

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