欠落の聖遺物(レリック) 〜神の鍵束は、僕の左腕に宿る〜

スフィーダ

第001話 絶望の扉をこじ開けた男

 その日は、街全体を飲み込むような乾燥した強風が吹き荒れていた。

 佐々木優真(ささきゆうま)は、この春から下町の路地裏に建つ小さな保育園『ひだまり園』で働き始めたばかりの、三十歳の保育士だった。


 身長百九十センチ、プロレスラーと見紛うばかりの筋骨逞しい体躯。

 一級建築士を取得し、かつては国内最大手の組織設計事務所で若きエースとして鳴らした彼が、この小さな園でエプロンを締めている姿は、傍目にはひどく不釣り合いな光景に映っただろう。


 彼が退職を切り出した際、会社側の引き止めは常軌を逸していた。

「ふざけるな、佐々木! お前が今抜ければ、あの百階建ての湾岸タワーの構造計算は誰がやるんだ!」

 専務は顔を真っ赤にして机を叩き、社長自らが白紙の小切手を差し出してまで彼を繋ぎ止めようとした。

「年収を三倍にしよう。専用のチームも個室も思いのままだ。君は歴史に名を残す建築家になる男なんだぞ。それを、子供の泥遊びの相手で一生を終えるつもりか!?」


 同僚たちも呆れ、あるいは必死の形相で彼を取り囲んだ。

 だが、優真の意志は岩のように動かなかった。彼が建築士としての栄光を捨ててまで保育士を志したのは、ある『構造上の欠陥』に気づいたからだった。


 きっかけは、彼が設計した巨大複合施設の建設現場でのことだ。

 最先端の耐震構造を誇るそのビルの中心で、一人の迷子の少年が泣いていた。優真は歩み寄ったが、効率と数字だけを追い求めていた当時の冷徹な眼差しに、少年はさらに怯えて泣き叫んだ。

 その時、彼は気づいてしまった。自分は数百年崩れない強固なを作ることはできるが、目の前の一人の子供を笑わせるすら持っていないことに。


(俺が本当に作りたいのは、雨風を凌ぐ建物じゃない。その中で笑う子供たちの心の『土台』なんだ)


 数百億円の国家プロジェクトよりも、砂場で作る泥団子の完成度に目を輝かせる子供たちの隣にいたい。冷たい鉄骨ではなく、体温のある場所を設計したい。それが、彼がすべてを捨てて見つけた、命の設計図だった。


 当初、保護者たちからは『本当に大丈夫かしら』と不信と不安の入り混じった視線を向けられていたが、その強面の巨体に子供たちが蟻のごとく群がり、満面の笑みで懐いている姿を見て、周囲の認識は一変した。

 加えて、整った目鼻立ちを持つ美形であったこともあり、今や送迎時のママさんの間ではアイドル的な人気を誇っている。


「ゆうま先生! また砂場に山作って! 壊れないやつ!」

「おう、任せとけ。元設計士が作る『配合どろあそび』と『構造計算たたき』の凄さを見せてやるよ」


 そう言って優真が大きな手で子供の頭を撫でると、その場がパッと明るくなる。



 そんな平和な午後は、隣接する化学薬品倉庫の不慮の爆発によって、一瞬で地獄へと変貌した。強風に煽られた火の手は、猛り狂う獣のような速さで、瞬く間に木造の園舎を包囲した。


「佐々木先生! 避難経路が!」

 叫んだのは、主任の松下先生だった。彼女は自身の服が焦げるのも厭わず、子供たちを一人でも多く外へ逃がそうと、燃え盛るカーテンを引きちぎって道を切り拓いていた。


「松下先生、ここは俺が! 年少組をお願いします!」

「頼んだわよ、佐々木先生! 死ぬ気で守りなさい!」


 園庭へ続く廊下では、若手の佐藤先生が泣きじゃくる園児二人を両脇に抱え、火の粉の中を必死に駆け抜けていた。


「佐々木さん、奥の教室にまだ子が! 梁が落ちて、入り口が……!」


 佐藤の顔は煤で汚れ、必死の形相だった。彼女たちが繋いだ命のバトンを、ここで絶やすわけにはいかない。優真は、火炎が渦巻く奥の教室へと飛び込んだ。そこには、腰を抜かして震える五人の子供たちがいた。


「大丈夫だ……先生が来た。絶対に出口を作ってやる」


 優真は、現場仕事で鍛え上げた鋼のような腕で、崩落し出口を塞いだ瓦礫の山を突き崩しにかかった。建築士としての知識が、どの残骸を動かせば連鎖的な崩落を防げるかを瞬時に弾き出す。

 素手で真っ赤に熱した鉄骨を掴み、皮膚が焼ける異臭が立ち込めても、彼は手を止めない。


 だが、非情な運命が彼を襲った。

 轟音と共に天井のメインフレームが崩壊した。優真は咄嗟に子供たちを庇うように覆いかぶさり、崩れ落ちる巨大な梁を『左腕』一本で突き上げた。


 グシャリ、と嫌な音が響く。


 百九十センチの巨躯を支える筋肉さえも悲鳴を上げる。左肩の関節が外れ、火の粉が直接筋肉を焼く。骨は炭化し、神経はとうに焼き切れている。

 それでも、優真は叫ばなかった。ここで自分が声を上げれば、子供たちの心は完全に折れてしまう。


(掴め。この腕で、子供たちの未来という名の『構造』を支えろ。絶対に離すな!)


 松下先生たちが外で子供たちの点呼を取っている声が聞こえる。


「佐々木先生は!? 優真先生がまだ中にいるの!」


 という絶叫が、遠くで響いた。救助隊が壁をぶち破り、光が差し込む。


「子供たちを……頼みます……」


 隊員に子供たちが渡され、最後の一人が外へ消えたのを見届けて、優真は初めて口元に安らかな笑みを浮かべた。

 直後、全ての重みが彼を押し潰した。意識が急速に遠のき、視界が白く塗り潰されていく――。


(あぁ、やっと保育士になったばかりなのにな……。でも、最後に最高の仕事ができたかな……)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 意識の深淵、暗闇の底で、優真は自らの最期を確信していた。

 全身を苛んでいた灼熱の痛みは、いつの間にか霧散している。重苦しい瓦礫の圧迫感も、今はもう遠い過去の出来事のように感じられた。


 ただ、一つだけ残った感覚がある。最後まで子供たちの命を支え、守り抜こうとした左腕の、痺れるような熱い疼きだった。


 ふと、視界が開ける。そこは、果てしなく続く回廊だった。

 左右の壁には、等間隔に無数の扉が並んでいる。その異様だが静謐な光景に、優真は呆然と立ち尽くした。


「……ここは。俺、本当に死んじまったんだな」


 優真は自らの体を見下ろした。火傷ひとつない綺麗な体。しかし、あの時、最後まで瓦礫を突き上げていた左腕だけが、肩の付け根から先が透き通り、陽炎のようにゆらゆらと揺れている。


「――その腕、その魂。実に、眩しいばかりの輝きです」


 穏やかで、深く響く声が回廊に満ちた。振り返ると、そこには数万の鍵束を腰に下げた銀髪の男が立っていた。


「はじめまして。佐々木優真。私は次元を管理するパサージュと申します」

「パサージュ……神様ってことか。それより教えてくれ。あの子たちは、園の子たちはどうなった!?」


 パサージュは優しく微笑み、静かに頷いた。

「ご安心ください。あなたが守り抜いた五人の子供たちは、全員が無事に救助されました。あなたの左腕が支えたのは、ただの天井ではなく、彼らのこれからの数十年という歳月だったのです」


 その言葉を聞いた瞬間、優真の全身から力が抜けた。安堵が熱い涙となって頬を伝う。

「……そうか。よかった。みんな、助かったんだな」


 パサージュは一歩、また一歩と優真へ歩み寄った。

「佐々木優真。次元の管理人として、あなたの魂をここでただ消え入らせることはできません。あなたの失われた左腕の場所に、私の持つ最も古い鍵のひとつ――『世界の理を回す鍵』を封じ込めてはいかがでしょうか」


 それは、あらゆる可能性を具現化し、閉ざされた運命をこじ開ける力。

 物理的な左腕を失った代わりに、優真は神の魔力が渦巻く『空白の領域』を手に入れることとなった。


「新しい世界フェリタスで、あなたはヴァルゼイドという公爵家の末子として生まれます。そこには、あなたを誰よりも愛し、守り抜こうとする家族がいます」

「……俺なんかが、そんな贅沢していいのか?」

「あなたは世界を救った。その対価が幸福であってはならない道理はありません。……ああ、ひとつだけ注意が。あなたが使う力の影響で、家族の過保護は相当なものになるでしょう。ですが、甘やかされれば甘やかされるほど、神に近い力がチャージされるのですから、思いっきり甘えなさい。まぁ、それも向こうの世界での成人、十五歳になるまでです」


 パサージュが白亜の扉を開く。

 そこからは、生命の源流から湧き上がる祝福の光が溢れ出していた。


「行ってらっしゃい、勇気ある魂よ。あなたの新しい生に、幸多からんことを」


 意識が……加速していく。肉体が……再構成されていく。

 狭く、温かな闇の中。外側からは、自分の誕生を待ちわびる家族たちの、泣きそうなほど切実な愛の声が聞こえてくる。


(……ああ、パサージュ。あんたが言った通りだ。なんだか、すごく愛されてる気がするよ)


 かつて瓦礫を支えた左腕の意志は、今、見えない銀色の粒子となって、赤子の小さな肩に寄り添っている。

 絶望の扉をこじ開け、自らの命を繋いだ男の、二度目の人生。

 その幕が、今まさに上がろうとしていた。

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