断章:血の再演、あるいは絶望の等価交換

第九話:開示の代償と、論理の瓦解(前編)

 世界を定義するものは言葉ではなく、その背後に横たわる動かしようのない「記録」だ。  

 感情がどれほど真実を拒絶しようとも、記述されたデータは淡々とその正しさを主張し続ける。僕たちが必死に守ってきた沈黙は、たった一枚の紙切れが放つ乾いた音によって、あまりにも呆気なく、そして残酷に蹂躙された。


 玄関の床に落ちた、一通の封筒。  

 それは、白砂が心血を注いで作り上げた「二人だけの系(システム)」を内側から爆破するための、最も原始的で、最も強力な信管だった。


「……見ないで。玖島君、それを見たら、もう二度と戻れなくなるわ」


 白砂は床に膝をつき、まるで毒蛇を素手で掴むような、恐怖と決意の混ざり合った手つきで封筒に手を伸ばした。  

 彼女の「つん」とした態度は、今や完全に消失している。乱れた髪、煤で汚れた指先、そして何よりも、僕という存在を失うことを予感した者の、死人のような青白い表情。


 僕は、彼女の手が封筒に触れるより早く、それを拾い上げた。    


 能動的な無知。白砂への共犯。  


 それらを維持するための「理性の防壁」は、すでに阿久津が放った風鈴の音と、あの刺繍の紐によって修復不能なまでに亀裂が入っていた。    


 僕は、封筒を破った。


「やめて、お願い……! 玖島君!」


 白砂の悲鳴を、僕は冷徹な演算回路のように無視した。  

 中から現れたのは、色褪せた戸籍抄本の写しと、養子縁組の手続きに関する古い書簡。そこには、僕という人間の「根源」が、逃げ場のない文字の羅列となって刻まれていた。


 ――玖島。それは、僕が一度目の人生で捨てられ、二度目の人生で守ろうとした名前。  


 ――阿久津。それは、僕を陥れた少女の名であり、そして、僕が生まれて最初に与えられたはずの本名。


 書類の末尾。そこには、二人の乳児の出生記録が並んでいた。  


 日付、時間、場所。すべてが寸分違わず重なっている。  


 僕と阿久津は、同じ母体から分かたれ、鏡合わせのようにしてこの世に放たれた、単一のシステムの片割れ同士だったのだ。


「……そうか。だから、筆跡が同じだったんだね」


 僕の声は、自分でも驚くほど乾いていた。  


 白砂が鏡を避けた理由。僕と阿久津が、言葉を介さずとも思考を同期させていた理由。  


 すべてが、「血」という名の非情な論理によって解明された。


「……違うわ。そんなの、ただの不具合(エラー)よ。データの誤読に決まっているわ……!」


 白砂が僕の足元に縋り付き、書類を奪い取ろうとする。  

 彼女はそれを激しく引き裂き、口に含んで飲み込もうとさえした。真実を物理的に消滅させれば、この悪夢をなかったことにできると信じ込もうとする、狂気的なまでの拒絶。


 その時、閉め切ったはずの玄関の向こう側から、阿久津の声が響いた。  


 それは、聖域の崩壊を告げる、葬列の鐘のような響きだった。


「無駄よ、白砂さん。……その紙をいくら噛み砕いても、彼の血管の中を流れる私の血までは、消し去ることはできないわ」


 扉一枚を隔てた場所に、あの強靭な意志が佇んでいる。  


 僕と全く同じ構造を持ち、僕と全く同じ「正解」を導き出す、鏡像の対抗者が。

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