第七話:再演のトリガー(前編)

 聖域とは、場所に付随するものではなく、観測者と対象者の「合意」によって形成される移動式の概念だ。

 座標系が教室から屋外へと移行しても、二人の相対速度がゼロである限り、その閉じた系(システム)は維持されるはずだった。しかし、校外学習という名の「苦い行事」は、平穏という名の虚構を暴き出すために誂(あつら)えられた、残酷な舞台装置でしかなかった。


 大型バスが揺れるたび、隣に座る白砂の肩が僕に触れる。

 彼女はバスの車内という密室においても、周囲の喧騒を完全に遮断していた。イヤホンを分け合うわけでもなく、ただ僕の制服の裾を、指先が白くなるほどに握りしめている。


「……玖島君。ここを降りたら、私の指定したルートだけを歩いて。横道に逸れたり、誰かの呼びかけに足を止めたりしないで」


 彼女の囁きは、指示というよりは、呪文に近い切実さを孕んでいた。

 昨日、彼女が灰にしたあの刺繍の紐。その残響が、白砂の論理を内側から食い荒らしている。彼女は今、僕の「記憶」という名の不確定要素を、物理的な隔離によって強引に制御しようとしていた。


「わかっているよ。……君が選んだ道が、僕にとっての正解だ」


 僕は彼女の震える指の上に、自分の手を重ねた。


 能動的な無知。


 それは白砂への全幅の信頼であり、同時に、僕の中に目覚めようとしている「何か」に対する最大の抵抗だった。


 バスが目的地である歴史地区に到着し、生徒たちが吐き出される。

 春の陽光は不自然なほど明るく、古い街並みの輪郭を鋭く強調していた。白砂は僕の腕を掴み、他の班との距離をあけるように、早足で石畳の道を進んでいく。


 彼女が選んだのは、歴史的な展示物や資料館を徹底的に避けた、ただの「景観」だけを楽しむルート。

 そこには文字情報も、過去の記録も、僕たちの血縁を証明するようなアーカイブも存在しないはずだった。


「……あ」


 白砂が小さく、短い悲鳴を漏らした。

 彼女の視線の先、古い商家を改装した茶屋の店先に、一人の少女が立っていた。


 阿久津だ。


 彼女は班のメンバーと談笑しているわけでもなく、ただ一人、そこに展示されている「古い玩具」を眺めていた。

 阿久津が、ふとこちらに顔を向けた。

 彼女の首の傾け方。風に流れる髪を指先で整える、その指の動き。    


 ――また、始まった。


 僕が眩しさに目を細めるのと同時に、彼女もまた、同じ角度で目を細めた。

 白砂が僕の腕を、折れんばかりの力で引き寄せる。


「玖島君、見ないで! 向こうへ行くわよ!」


 白砂の氷の仮面が、焦燥によってひび割れていく。

 彼女は僕の視界を塞ぐように前に立ち、僕を阿久津から遠ざけようとした。


 だが、その瞬間。


 茶屋の軒先に吊るされた古い風鈴が、突風に煽られて鋭い音を立てた。


 その高音の響きが、僕の脳の奥底に眠っていた、分厚い錆(さび)の扉を叩いた。  一度目の人生でも、この二度目の日々でも経験したことのない、けれど僕の細胞が記憶している「音」。


『――お兄ちゃん、これ、お揃いだよ』


 幼い少女の声が、風鈴の音に重なって聞こえた気がした。

 僕は足を止めてしまった。

 白砂がどれほど強く僕の裾を引いても、僕の体は、その音の源へと磁石のように引き寄せられていく。


「……玖島君?」


 白砂の声が、絶望に染まる。

 阿久津は、店先から僕をまっすぐに見つめていた。

 彼女の唇が、音もなく動く。


 それは言葉ではなく、僕と彼女だけが知る、かつての「再演」の合図のように思えた。

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