第七話:再演のトリガー(中編)

脳が処理を拒否した記憶は、意識の最下層で熱を持ち、不溶性の沈殿物として停滞し続ける。

観測不可能なデータは存在しないのと等価だが、系の均衡を乱す「未知のノイズ」としては十分に機能する。その音を一度聴いてしまった耳は、もう二度と「聴こえなかった頃」の静寂に戻ることはできない。


風鈴の音が、鼓膜を震わせるたびに、視界が歪む。

石畳の街並みも、観光客の喧騒も、僕の意識から急速に遠ざかっていく。代わりに浮かび上がるのは、白く焼き付いたような、見覚えのない和室の風景。


『お兄ちゃん、これあげる。……はい、お揃い』


幼い少女の指先が、小さな刺繍のついたお守りを僕に差し出す。

その少女の横顔、そして僕を呼ぶ声の響き。それらは、今僕の目の前で涼しげに佇む阿久津の存在感と、あまりにも残酷な精度で重なり合っていた。


「……玖島君! 行きましょう、早く!」


白砂が僕の腕を掴み、力任せに引く。

彼女の指先は氷のように冷たく、けれどその力加減には、僕をこの場所から……あるいは僕自身の「記憶」から力ずくで引き剥がそうとする、執念に近い必死さが宿っていた。


僕たちは逃げるように茶屋を離れ、入り組んだ路地の奥にある、小さな神社の境内に辿り着いた。

そこには人の気配はなく、ただ古い杉の木が落とす深い影だけが、僕たちを包み込んでいた。


「白砂さん、僕は……今、何かを思い出しかけて」


僕の声は、自分でも驚くほど掠(かす)れていた。


脳裏に焼き付いた少女の幻影。阿久津との「同期」。


それらを繋ぎ合わせれば、一つの「解」が導き出されそうになる。けれど、僕の隣で肩を震わせている白砂の存在が、僕にその答えを口にすることを許さない。


「……何でもないわ。ただの、脳の不具合(バグ)よ」


白砂は僕の裾を掴んだまま、僕の胸に顔を埋めた。

彼女はゆっくりと顔を上げると、いつもの「つん」とした態度の裏側に、今まで見たこともないほど鋭利で、暗い「嘘」を湛えた瞳で僕を見つめた。


「聞いて、玖島君。……あの日、あなたが一度目の人生で彼女に陥れられた時、あなたの精神は致命的なショックを受けたの。……今見えたものは、その時のトラウマが、現実逃避のために作り出した『偽りの記憶(フォールスメモリ)』に過ぎないわ」


 白砂の声は、一点の曇りもない論理の構築のように響いた。  


「彼女は、あなたが『自分と何か繋がりがある』と錯覚するように、言葉や動作であなたを誘導しているのよ。……あなたが信じるべきは、その卑劣なノイズじゃないわ。……私の隣にいる、この現実だけ」


それは、あまりにも鮮やかな「定義の上書き」だった。

白砂は僕を救うために、僕の脳裏に浮かんだ光景を「敵による精神工作」だと断じたのだ。彼女の嘘は、僕が選んだ「能動的な無知」に対する、最強の補強材となった。


「……そうか。そうだったんだね。……僕はまた、彼女に騙されそうになっていたんだ」


 僕は、自分の意識が急速に平熱へと戻っていくのを感じた。

そうだ。彼女は僕を陥れた仇だ。その彼女に「懐かしさ」を覚えるなど、それこそが彼女の仕掛けた罠に違いない。白砂の言う通り、僕はこの「嘘」を真実として受け入れるべきなのだ。


白砂は僕の胸で、安堵のため息をついた。


けれど、彼女は気づいていない。


境内の入口、古い鳥居の影から、一人の少女が僕たちを「観測」していた。


阿久津だ。


彼女は隠れる様子もなく、ただ冷徹な科学者が実験結果を確認するかのような、揺るぎない視線で僕たちを見つめていた。  


白砂の吐いた「工作」という名の嘘。

それを信じ込み、自分たちだけの閉じた世界に逃げ込もうとする僕。


阿久津の瞳に宿っていたのは、絶望でも哀しみでもなく、ただその「愚かなほど純粋な逃避」に対する、静かな興味と確信だった。


(……ええ、それでいいわ。白砂さん)


 阿久津の唇が、声もなく動く。  


(あなたが嘘を重ねれば重ねるほど、その檻はより美しく、そしてより壊れやすくなる。……その時が来るのを、私は特等席で待っているわ)


彼女は優雅に背を向け、僕たちから離れていった。


白砂の「救済の嘘」が、かえって阿久津という地雷の威力を、最大まで高めてしまったことに誰も気づかないまま。

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