第六話:綻びの隠蔽と、沈黙の共犯(後編)

 廃棄とは、存在を無に帰す行為ではない。単に、現在の座標系から対象を不可視の領域へと移動させるだけの処理だ。

 質量保存の法則は論理の隠蔽を許さない。抹消されたはずのデータは、必ず別の場所で熱量へと変換され、系全体の負荷(ストレス)として蓄積される。そして、誰かの嘘を「なかったこと」にする優しさは、結局のところ、二人分の重荷を一人の肩に預け直すという、残酷な自己満足に過ぎないのだ。


 放課後、校舎の影が長く伸び、廊下がオレンジ色の燐光(りんこう)に満たされる頃。  

 僕は一人、図書室のテラスで白砂を待っていた。彼女は「少し、片付けたいゴミがあるの」と言い残し、先に教室を後にした。


 僕は知っている。彼女が「ゴミ」と呼んだものが、あの阿久津が落とした刺繍の紐であることを。そして、彼女がそれをただ捨てるのではなく、自らの手で徹底的に「消滅」させようとしていることを。


 ほどなくして、白砂が戻ってきた。

 彼女の指先は、僅かに煤(すす)で汚れている。おそらく、どこか人目のつかない場所で、あの紐を焼いたのだろう。形を失わせ、灰に変え、二度と誰の目にも触れないように。


「……玖島君。待たせてごめんなさい」


 彼女はいつもの「つん」とした態度を装おうとしていたが、その瞳の奥には、隠しきれない疲弊が滲んでいた。

 彼女は僕の隣に座ると、祈るような、あるいは縋るような手つきで僕の裾を掴んだ。その指が小刻みに震えている。


「白砂さん、手が汚れているよ」


 僕がハンカチを差し出すと、彼女はハッとして自分の手元を見つめた。その瞬間、彼女の視線がテラスの硝子戸に映った「自分の姿」を捉えてしまう。


「あ……」


 白砂は、まるで汚泥を浴びせられたかのような悲鳴に近い溜息を漏らし、激しく顔を伏せた。

 彼女が避けているのは、鏡ではない。鏡の向こう側に透けて見える、阿久津という「鏡像」の存在。そして、その鏡像と同じ属性を持っているかもしれない僕という存在。


「玖島君……お願い。私の目だけを見て。……鏡の中なんて、何も映っていない。あそこにあるのは、ただの虚無よ」


 彼女は僕の胸に顔を埋めるようにして、掠れた声で囁いた。

 僕は彼女の震えを感じながら、そっとその背に手を回した。

 彼女が隠した真実。阿久津が差し出した記憶。

 それらを僕が認識してしまえば、白砂という少女の論理は崩壊し、彼女は僕を失う恐怖で壊れてしまうだろう。


「わかっているよ、白砂さん。……僕が見ているのは君だけだ。鏡の中に何が映っていようと、僕には関係ない」


 それは、明らかな「共犯」の誓いだった。

 彼女がつく嘘。僕が選ぶ無知。  

 二つの歪な愛が重なり合い、この真空の聖域を、より強固な、けれどより脆い「檻」へと変えていく。


 白砂は僕の腕の中で、ようやく小さな吐息をついた。

 彼女は僕の裾を掴む力を緩めない。それが彼女にとっての、唯一の正解であり、唯一の救済なのだ。


 テラスの硝子に映る僕たちは、夕闇の中で一つの影のように溶け合っていた。

 けれど、その影の輪郭はどこか不自然に歪んでいて、いつか訪れる「破局」の予感だけを、冷徹に予言していた。


 白砂が灰に変えた刺繍の紐。  

 その紋様は、僕の脳裏に焼き付いて離れない。  


 沈黙という名の共犯関係は、甘美な毒となって、僕たちの足元を静かに、確実に腐食させ始めていた。

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