第六話:綻びの隠蔽と、沈黙の共犯(中編)

 情報の取捨選択とは、世界の解像度を意図的に下げる行為に他ならない。

 観測データから特定の周波数をカットすることで、都合の良い「真理」という名の幻想を純化させるプロセス。そして、見たくないものに蓋をすることは、いずれその重圧に耐えきれなくなる未来への、ささやかな先送りに過ぎない。


 放課後の教室で、僕たちは校外学習のしおりを広げていた。  

 目的地は、少し離れた歴史地区だ。古い街並みが残るその場所は、僕にとっても、そしておそらく阿久津にとっても、失われた記憶の断片が埋もれている可能性のある土地だった。


「……玖島君。この『郷土歴史館』への立ち寄りプランは削除しましょう」


 白砂は、しおりの特定のページを、修正テープで塗り潰すかのような冷徹な手つきで指し示した。彼女の指先は、僕の袖を離さない。いや、その力は日を追うごとに増し、今や僕の自由を奪う鎖のようにさえ感じられた。


「どうして? そこは自由行動の推奨ルートになっているはずだけど」


「非効率だわ。あそこは過去の残骸を展示しているだけの、情報の墓場よ。……私たちの『聖域』に、そんな不確かなノイズを持ち込む必要はない。私たちは、庭園の方だけを見ていればいいの」


 白砂は僕の目を見ず、事務的な口調で断言した。

 彼女の「検閲」は、この数日でより露骨なものになっていた。僕の手に渡る資料、僕の目に触れる掲示物。彼女はそれらを先回りして確認し、何らかの「不都合」が含まれていないかを、狂気的なまでの集中力で精査している。


 彼女が守ろうとしているのは、僕の平穏なのか。それとも、僕が真実に辿り着くことで崩壊する、彼女自身の「所有権」なのか。


「……わかったよ。君がそう言うなら、そうしよう」


 僕が能動的な無知を表明すると、白砂の肩から僅かに力が抜けた。

 彼女は一瞬だけ、つんとした表情の裏側に、救われたような幼い安堵を覗かせる。そのギャップに、僕は再び胸を締め付けられるような可愛げを覚えた。同時に、彼女にこれほどまでの「防衛」を強いている現状に、重苦しい罪悪感が澱のように溜まっていく。


 その時、パサリ、と乾いた音が響いた。


 数歩先の廊下を歩いていた阿久津が、自分のしおりを落としたのだ。

 彼女はそれを拾い上げようとして、一瞬だけ動きを止めた。


 僕も、無意識にしおりを閉じ、立ち上がろうとした。

 その際の手の角度、そして「落とし物」に対する視線の誘導。  


 ――まただ。


 阿久津がしおりを拾い、そのページを捲る。

 僕が自分のしおりを、机の上に置く。

 その動作の「重さ」と「タイミング」が、真空を介して一つの共鳴音を奏でた。阿久津は顔を上げず、けれど彼女が落としたしおりの隙間から、一枚の古い「しおり(ブックマーク)」が僕の方へと滑り込んできた。


 それは、どこにでもあるような、けれど特定の家系でしか使われないような、特殊な紋様が施された刺繍の紐だった。


 白砂が、目にも止まらぬ速さでその紐を奪い取った。


「……汚らわしいわ。ただのゴミよ」


 彼女はそれをポケットにねじ込み、阿久津を睨みつけた。阿久津は、白砂のその過剰な反応を、まるで幼子の遊びを見守る母親のような、残酷な慈愛を含んだ微笑で受け流した。


「ごめんなさい、手が滑ってしまって。……白砂さん、あなたは本当に、彼を『守る』のが上手ね」


 阿久津はそれだけを言い残し、優雅な足取りで立ち去った。

 白砂は僕の裾を掴んだまま、立ち尽くしていた。

 彼女の手は、怒りではなく、隠しきれない恐怖で激しく震えている。


「玖島君。……見なかったことにして。……何も、見なかったことに」


 彼女の声は、悲鳴に近い囁きだった。

 白砂がポケットに隠したあの刺繍の紐。そこに刻まれていた紋様を、僕は知っている。一度目の人生の、霧の向こう側にある古い記憶。僕が「玖島」になる前に、僕の側にあったもの。


 僕は、白砂の震える手を、そっと上から包み込んだ。  


「ああ、何も見ていないよ。……僕は、君が隠してくれたものだけを、真実だと思うことにする」


 それは、地雷を踏み抜くための、最短距離の選択。

 白砂は僕の胸に額を押し当て、小さな、掠れた声で漏らした。


「……ええ。それでいいわ。……それが、私たちの『正解』よ」


 沈黙の共犯者となった二人の足元で、隠蔽という名の硝子が、目に見えないひび割れを広げ始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る