第六話:隠蔽の綻びと、沈黙の共犯(前編)

 一度定義されたシステムを維持するためには、外部からのノイズを遮断し続けるための、膨大なエネルギーが必要となる。

 観測者が真実を隠蔽しようと試みる際、その「隠蔽」という行為自体が新たな変数となり、系のエントロピーを増大させていく。そして、誰かを守るための嘘は、いつしか守られる側にとっての「毒」へと変質し、その味に気づかないことこそが、共犯者としての唯一の義務となる。


 翌朝、教室に現れた白砂の顔は、昨日の欠席を埋め合わせるかのように、いつも以上に白く、そして研ぎ澄まされていた。  

 彼女は僕と目が合うと、一瞬だけ唇を戦慄(わなな)かせたが、すぐにいつもの氷の仮面を被り、僕の隣の席へと滑り込んだ。


 そして、呼吸をするのと同じくらい自然な、けれど昨日までよりも明らかに切実な力加減で、僕の制服の裾を掴んだ。


「……おはよう、玖島君。昨日は、少し体調を崩していただけよ」


 彼女の言葉は、論理的な整合性を保とうとする、精一杯の「虚構」だった。

 僕は彼女の指先が、白くなるほど強く僕の裾を握りしめているのを知っている。彼女が昨日、あの暗い資料室で「何」を見たのか。それを問うことは、僕が選んだ能動的な無知への裏切りになる。


「無理はしなくていい。……君がここにいてくれるなら、それで十分だ」


「ええ。そうね。……私がいて、あなたがいて、それ以外の不確かな要素は、すべて棄却されるべきだわ」


 白砂は僕の顔を見ようとせず、まっすぐに黒板を見つめた。

 その日のホームルームは、来月に迫った校外学習の班決めという、孤立した僕たちにとっては最も「非論理的」な時間だった。


 教室内の空気は、阿久津を中心とした「多数派」の温かな連帯と、僕たちを囲む「真空」の二極に分かれている。  

 阿久津は、昨日の僕との接触などなかったかのように、取り巻きたちと楽しげに笑い合っている。だが、彼女は時折、僕たちが座る席へと、まるで「獲物の健康状態を確認する」ような、静謐な視線を投げかけてきた。


「……玖島君たちの班はどうする? 誰か、一緒に入る人はいるかな?」


 委員長が困惑したように声をかける。教室内には、氷を投げ込んだような沈黙が広がった。誰も僕たちの真空に足を踏み入れようとはしない。それが阿久津によって統制された「不干渉」という名の秩序だ。


「不要よ」


 白砂の声が、静寂を切り裂いた。彼女は立ち上がることもなく、ただ凛とした、けれどどこか追い詰められた者のような鋭さで言い放った。


「私たち二人は、二人だけで完結している。……外部からの介入は、論理の純度を下げるだけ。私たちは、どこの班にも属さない『独立した系』として処理してちょうだい」


 その言葉は、拒絶というよりも、一種の「宣戦布告」に聞こえた。

 白砂は、僕を周囲から切り離すだけでなく、僕の視界に入るすべてを「管理」しようとしていた。


 ホームルームが終わる。

 白砂は僕の手を引き、逃げるように教室を出た。廊下を歩く彼女の足取りは、いつになく不自然で、壁際を這うようにして進んでいく。

 角を曲がった先に、大きな姿見があった。

 白砂の体が、目に見えて硬直した。彼女は僕の裾を掴んだまま、僕の背中に隠れるようにして顔を伏せる。


「……白砂さん? 鏡が、そんなに怖いのか?」


「……鏡ではないわ。鏡に映り込む、自分以外の『像』が不快なだけ」


 白砂は震える声で答えた。


 彼女が恐れているのは、鏡そのものではない。そこに映り込む、僕と阿久津の「一致」。あるいは、自分だけが知ってしまった「血の呪い」が、視覚化されることへの恐怖。


 白砂の掴む裾から、彼女の「隠蔽」という名の愛が、僕の腕へと伝わってくる。  僕は、彼女がつく嘘の重さを噛み締めながら、ただ彼女に引かれるままに、暗い廊下を進んでいった。

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