第五話:無意識の同期(前編)

 教室という場所は、不都合な存在を排除する際、物理的な暴力よりも「静寂」を好む。

 観測されない存在は、その空間において確率的に「無」と等価になる。そして、その無害な沈黙こそが、最も効率的で痛みの少ない断絶の形なのだ。


 数学の演習授業。教壇に立つ教師が黒板に書いたのは、教科書の範囲をわずかに逸脱した、解法に工夫を要する証明問題だった。  

 僕は手元のノートに、数式の列を刻んでいく。最短距離で解に辿り着くための、少しばかり偏執的で、無機質な論理の構築。それは僕にとって、思考の深呼吸のようなものだった。


 ふと、隣に座る白砂が、僕の制服の裾をそっと摘んだ。

 彼女は自分のノートには一切手をつけず、僕の筆運びをじっと見つめている。その指先は、静かな海の底に降ろされたアンカーのように、僕という存在をこの現世に繋ぎ止めていた。


「……玖島君。その数式の組み立て方、少し変わっているわね」


 白砂が囁くような声を寄せてきた。


「そうかな。効率を求めたら、自然とこうなっただけだよ」


「ええ。確かに効率的だわ。……でも、不気味だわ」


 白砂が呟いた言葉の真意を問う前に、僕は奇妙な感覚に襲われた。

 前方から聞こえる、微かな、けれど規則的な音。

 それは阿久津がペンで机を軽く叩く音だった。  


 一、二……三。  


 それは僕が次の数式を導き出すために、脳内で論理を整理する際のリズムと、完全に一致していた。

 最初は偶然だと思った。だが、僕が少し複雑な展開に差し掛かり、思考がわずかに停滞した瞬間、彼女のペンの音も止まった。そして僕が「正解」への糸口を掴んだ刹那、彼女は再び、僕の思考の加速に合わせるようにペンを走らせ始めたのだ。


 阿久津は一度もこちらを振り返らない。だが、彼女の背中からは、言葉を介さない「共鳴」が滲(にじ)み出ているようだった。僕がどんな論理を組み立て、どのタイミングで息を吐くか。彼女はそれを、自分自身の鼓動を数えるように把握している。


 白砂の指先が、僕の裾を力任せに握りしめた。

 彼女の視線は僕の手元と阿久津の背中を幾度も往復し、やがてその瞳の中に、鋭利な拒絶の光が宿る。

 白砂は何も言わなかった。阿久津との「同期(シンクロ)」を指摘することさえ、不浄なものを認めるようで忌まわしかったのかもしれない。ただ、彼女の指の震えが、僕と誰かが「根源」を共有していることへの、剥き出しの焦燥を物語っていた。


「……玖島君。今日の放課後、あなたのノートを貸して」


 白砂はいつもの「つん」とした態度を崩さなかったが、その声はどこか硬い。


「別にいいけど……。どうかしたのか?」


「……検閲よ。あなたの思考の中に、私が理解できない不純物が混ざっていないか、確かめる必要があるわ」


 彼女の不器用で、それでいて切実な言葉に、僕は微かな安らぎを覚えた。阿久津との不気味な同期よりも、目の前で裾を握りしめている彼女の「論理的な独占」の方が、僕にとってはよほど確かな現実に思えたからだ。


 チャイムが鳴り、休み時間になると、白砂は無言で立ち上がった。

 教壇へプリントを提出しに行く際、彼女は教室の隅にある掃除用具入れの「姿見」の前を通る。


 僕は見た。


 白砂が、鏡の前に差し掛かる直前、まるで鋭利な刃物を避けるように、不自然なほど素早く顔を伏せ、足早に立ち去るのを。

 彼女は自分の姿を映し出す「鏡」を、執拗なまでに嫌悪している。

 その奇妙な振る舞いは、僕と阿久津の同期と同じくらい、この静かな教室内で異質なノイズとして僕の意識に残った。


 窓の外では、春の風に煽られた桜の残骸が舞っている。

 僕たちの「真空の平穏」は、内側からも外側からも、少しずつ、けれど確実に綻(ほころ)び始めていた。

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