第四話:真空の平穏と、アンカーの定義(後編)

 帰り道の夕闇は、すべてを等しく曖昧なシルエットへと変えていく。  

 校門を抜けても、僕たちの周囲には透明な壁がついて回っていた。部活動に励む生徒たちの声や、遠くを走る車のエンジン音が、まるで厚い硝子越しに聞いているかのように、現実味を欠いたまま僕の耳を通り過ぎていく。


 白砂は僕の半歩後ろを歩き、相変わらずその指先で僕の裾を掴んでいた。  

 先ほど図書室で見た、阿久津のあの不自然な「同期」。  

 あれは単なる偶然などではない。白砂が指摘した通り、この学園内の静寂さえもが、何らかの意志によって出力された「演出」なのだとしたら。


「……玖島君」


 不意に、裾を引く力が強まった。

 立ち止まって振り返ると、街灯の逆光を浴びた白砂が、深い夜を溶かし込んだような瞳で僕を見つめていた。


「もし、この静寂の理由が……私たちの外部にある、余計な『ノイズ』に起因するものだとしたら。あなたはそれでも、その正体を観測したいと思う?」


 その問いは、冷徹な観測者としての確認であり、同時に、一人の脆(もろ)い少女としての祈りのようにも聞こえた。


 僕は、自分の胸の奥に芽生えた奇妙な疼きに意識を向ける。  


 阿久津の挙動に感じた、あの名状しがたい既視感。  

 それを解明しようとすれば、きっと白砂が作り上げたこの「硝子の聖域」は、音を立てて砕け散るだろう。


「……いいや」


 僕は、自分の声が驚くほど冷静であることを自覚した。

 それは思考の放棄ではない。白砂という存在を信頼し、彼女が守ろうとしているこの「今」を肯定するための、能動的な無知の選択だった。


「君がここにいて、僕の服を掴んでいる。……それ以上の事実に、価値があるとは思えない」


 白砂は一瞬、目を見開いた。

 次の瞬間、彼女は「つん」とした表情を崩さないまま、ぷいと顔を背けた。けれど、夕闇の中でもはっきりと分かるほど、彼女の耳の端が真っ赤に染まっている。  

 論理的で冷徹な彼女が見せる、年相応な、あるいはそれ以上に不器用な反応。僕はそんな彼女の姿に、言いようのない可愛げを覚えた。


「……当然の帰結ね。あなたの判断力は、まだ曇っていないようで安心したわ」


 白砂はそっけなく言い放つ。だが、その足取りはどこか軽やかで、繋いだ裾を離す気配は微塵もなかった。

 ふと、僕は彼女の歩き方に妙な違和感を覚えた。

 白砂は、道端のショウウィンドウや水たまりなど、自分の姿を映し出す「鏡」となり得るものを、徹底的に避けて歩いている。反射光を嫌う猫のように、不自然なほど素早く視線を逸らすその癖。  

 すべてを観測しようとする彼女が、なぜ自分の「鏡像」だけをこれほどまでに拒絶するのか。

 合理的で無機質な彼女に似つかわしくない、その奇妙な「綻び」に、僕は微かな引っかかりを覚えた。


 阿久津がなぜ、二人の孤立を維持し、聖域を外側から守っているのか。

 その理由が解き明かされる日は、そう遠くないのかもしれない。彼女が見せたあの「同期」は、いずれ白砂という防壁を乗り越え、僕の深淵に触れてくるだろう。    けれど、今はまだいい。


 白砂の体温と、服の裾を握る指先の微かな震え。


 僕は二度目の人生で、最も甘美で、最も不自由な救済を手に入れた。


 背後の校舎のどこかで、阿久津が僕たちの背中を静かに見送っているような気がしたが、僕は一度も振り返ることはしなかった。

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