第三話:綻びを愛でる(前編)
教室という場所は、一つの巨大な「合意形成装置」だ。
そこでは真実が何であるかよりも、誰がその真実を口にするか、そしてその言葉がどれだけ共同体の安寧(あるいは娯楽)に寄与するかが優先される。多数派の観測データがそのまま「世界の物理法則」として上書きされる場所。そして、その法則から外れた者は、理由を問われぬまま「苦い役割」を押し付けられることになる。
翌朝、僕が教室の扉を開けた瞬間、空気の密度が一段階上がったのを感じた。
昨日まで微かに漂っていた四月の浮ついた気配は霧散し、代わりに湿った、それでいて鋭利な「好奇」の視線が僕に突き刺さる。
「……おはよう、玖島君」
阿久津の声だった。
彼女は教室の中心、朝の光が最も美しく差し込む場所に立っていた。取り巻きを従えているのではない。彼女がそこにいるだけで、自然と人々が集まり、物語の軸が彼女を中心に回転し始めるのだ。
その瞳は赤く、昨夜の憔悴を完璧に演出しながらも、立ち居振る舞いには凛とした「気高さ」が同居していた。単なる悪役ではない。彼女はこの狭い社会における、完成された王女(カリスマ)だった。
「阿久津さん。おはよう」
僕は努めて平熱の声を返す。
阿久津は、潤んだ瞳で僕を見つめ、それから周囲に聞こえるような、絶妙な大きさの声で口を開いた。
「玖島君。……昨日、あなたがロッカーの近くにいたって、みんな言ってるの。私も、そう信じたくはないわ。だって、あなたは私の大切なクラスメイトだもの。……でも、みんなから集めた文化祭の運営費用がなくなって、一番最後にそこを通りかかったのが、あなただという事実があるのよ」
彼女の言葉には、僕への糾弾(きゅうだん)ではなく、むしろ「信じていた者に裏切られた悲しみ」という体裁が整えられていた。それこそが彼女の恐ろしさだ。僕を直接責めるのではなく、周囲に「責めざるを得ない状況」を完璧に提示してみせる。
取り巻きたちが口々に囁き始める。
「玖島、本当なのかよ」
「阿久津さんをあんなに悲しませて……」
僕は自分の席へと歩みを進めた。隣の席には、白砂がすでに座っていた。
彼女は周囲の喧騒など耳に入っていないかのように、一冊の古い詩集に目を落としていた。だが、僕が席に着いた瞬間、彼女は栞を挟み、僕にしか見えない僅かな角度で顔を向けた。
「……玖島君。システムの構築は完了しているわ」
白砂の声は、騒がしい教室の中で、そこだけ真空が生まれたかのように澄み渡っていた。
彼女は、凛とした「つん」とした態度を崩さない。阿久津という太陽が放つ光に対しても、彼女は絶対零度の静寂で応じる。
「阿久津さん。あなたの論理には、致命的な欠陥があるわ」
白砂がゆっくりと立ち上がる。その動作一つで、教室を支配していた阿久津の空気が、パリンと小気味よく割れた。
「欠陥……? どういうこと、白砂さん」
阿久津が微笑みを絶やさぬまま、けれど瞳の奥に冷徹な知性を宿して問い返す。 白砂は、阿久津の美貌を透過して、その背後にある数式でも読み取るような無機質な視線を向けた。
「事象の前後関係と因果関係を混同していること。……そして、あなたが『被害者』であるという前提に、一切の客観的な証拠が含まれていないことよ」
白砂は僕の袖の端を、指先で密やかに、けれど力強く摘んだ。
その感触から伝わってくるのは、彼女自身の「重すぎる愛」という名の決意だった。
「玖島君。……あなたの潔白を、私が今、論理的に定義してあげる」
阿久津の顔から、僅かに色が消える。
物語の主導権が、阿久津という「虚構」から、白砂という「観測」へと、静かに、そして不可逆的に移り変わろうとしていた。
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