第三話:綻びを愛でる(中編)

「……玖島君。私が失くした集金袋には、みんなの信頼が詰まっていたの」


 阿久津は教壇の前で、全校生徒の耳に届くような、透明で震える声を響かせていた。  一度目の人生での僕は、その完成された「被害者」の佇まいに圧倒され、自分という存在が社会的に削り取られていく恐怖に立ち尽くすしかなかった。だが、今の僕の視界には、彼女が紡ぐ言葉の端々に潜む、計算された「不一致」が明確なノイズとして映り込んでいる。


「みんな、玖島君を責めないであげて。きっと、何かの間違いなのよ。……ねえ、玖島君。正直に言ってくれたら、私、先生にも内緒にしておくから」


 阿久津が僕へと歩み寄る。その足取りには、相手を追い詰めるための狡猾さと、救いの手を差し伸べる聖母のような優雅さが同居していた。周囲の生徒たちが吐き出す「正義」という名の同調圧力が、教室の温度をじりじりと上げていく。


 だが、その熱を遮断するように、隣で白砂が静かに、しかし絶対的な重みを持って立ち上がった。


「定義が、破綻しているわ。阿久津さん」


 白砂の声は、騒がしい教室のノイズを物理的に押し退けるようにして、凛と響いた。  彼女はいつもの「つん」とした高潔な表情を崩さず、阿久津という存在を一つの演算対象として、冷徹に見据える。


「あなたが『集金袋を最後に確認し、施錠した』と言ったプロセスには、重大な矛盾が含まれているわ。……阿久津さん、あなたは昼休みのチャイムが鳴ると同時に、全員分の集金を終え、袋をロッカーに納めたと主張したわね?」


「……ええ。間違いなく、私の手で鍵をかけたわ。それを疑うの?」


 阿久津は、微笑みを絶やさぬまま、静かに白砂を睨み返す。

 白砂は僕の袖の端を、指先で密やかに、けれど力強く摘んだ。


「ならば、説明がつかないわ。……玖島君。あなたが阿久津さんにお金を渡したのは、いつだったかしら?」


 白砂に促され、僕は深く息を吸った。阿久津の瞳を、逸らさずに見つめる。


「昨日、僕が最後の一人として君にお金を渡したのは、昼休みのチャイムが鳴った『後』だ。図書室へ向かう廊下で君に呼び止められて、直接手渡した。……覚えているよね、阿久津さん」


 教室内が、不自然な静寂に包まれた。

 阿久津の眉が、わずかに、本当にわずかに跳ねる。


「君が言う『昼休み開始と同時に、全員分を確認して施錠した』という供述が真実なら、その袋の中に、僕が後から渡したはずのお金が入っているのは論理的にありえない。……逆に、僕のお金が入っていたのだとしたら、君はロッカーに鍵をかけた後、一度も中身を確認せずに『盗まれた』と主張していることになる。……中身の確認を怠った人間が、なぜ紛失の瞬間を断定できるんだ?」


 阿久津の表情から、一瞬だけ、完璧な仮面が剥がれ落ちた。

 彼女は、ただ無機質な、鏡のような瞳で僕をじっと見つめ返した。その瞳の奥には、僕の言葉を「敵対」としてではなく、自分という存在をこれほどまでに深く「観測」し、分析しようとする対象への、名状しがたい何かが宿っているように見えた。


 阿久津は、ふっと力を抜いた。

 彼女は何かを言い返そうとはせず、ただ静かに、僕と白砂の姿をその瞳に焼き付けるように凝視していた。


 教室の空気は、誰も予想し得ない「歪んだ終幕」へと、静かに加速していく。

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