第二話:沈黙という名の加護(後編)

 放課後の図書室は、静止した思考の集積所だ。  

 窓から差し込む斜光が、宙に舞う微細な塵を黄金色の標本のように照らし出している。そこには外界の喧騒――阿久津という「太陽」が支配する、あの耳障りな同調圧力の入り込む余地はない。


 白砂は、書架の最奥にある、管理の行き届かない閲覧席を選んだ。

 彼女は周囲に誰もいないことを、音響学的な精度で確認してから、カバンの中から銀色の小さなサーモスボトルを取り出した。


「……玖島君。一口、飲みなさい」


 彼女は、蓋をカップ代わりにして、琥珀色の液体を注いだ。  

 立ち上ったのは、アールグレイの香りと、校則違反という名の、密やかな背徳の匂いだ。


「図書室でこんなことをしていいのかい? 見つかったら司書に酷く叱られる」


 僕が懸念を口にすると、白砂は相変わらず端然とした所作で、自分のカップを唇に寄せた。


「不合理ね。人間の脳は糖分を消費し、乾燥した空気は集中力を削ぐわ。……見つからなければ、事象は存在しないのと同じよ。ここは今、私たちが観測し、定義するだけの、閉じた系(システム)なのだから」


 彼女はそう言って、僕にカップを差し出した。

 指先が触れ合う。彼女の指は驚くほど細く、そして熱を帯びていた。

 校則という「公的な秩序」を、自分たちの「私的な合理性」で上書きする。その傲慢なまでの献身は、僕にとって、阿久津が振りまくどの甘い言葉よりも深く心に浸透した。


「……美味しいよ。ありがとう」


 僕がそう伝えると、白砂はふいと視線を本に戻した。

 だが、その整った横顔が、夕焼けのせいばかりではなく、淡く朱に染まっているのを僕は見逃さなかった。彼女は凛としていようと努めているが、その鎧の隙間から、制御しきれない情緒が熱として漏れ出している。


「……勘違いしないで。あなたが集中を欠いて、あの浅薄な少女の誘いに乗ってしまうことを、未然に防ぎたいだけよ」


 彼女は、本を開いたまま、もう片方の手で僕の袖の端を、指先だけでそっと摘んだ。  それは慈しむような愛撫でありながら、僕という存在をこの場所に繋ぎ止めておこうとする、無言の拘束でもあった。


 その時、僕のスマートフォンが、机の上で不機嫌な音を立てて震えた。

 画面には、阿久津からのメッセージが表示されている。


『玖島君、大変なの! 私のロッカーに入れてた、みんなからの集金袋がなくなっちゃって……。最後に一緒にいたの、玖島君だよね? どうしよう、警察に言ったほうがいいかな?』


 心臓が、一度目の人生と同じリズムで、嫌な拍動を刻み始める。

 だが、画面を見つめる僕の意識の片隅で、奇妙なノイズが走った。


 警察という言葉。その、僕を追い詰めるための「最短の解」を提示する冷徹なまでの正確さ。

 それは、阿久津という「クラスの人気者」が持つ情緒的な悪意とは、別の層から発せられているような、妙な既視感があった。


「……始まったわね」


 白砂が、僕の画面を覗き込みながら、氷のような声で呟いた。

 彼女の瞳には、阿久津への怒りではなく、どこか「予測されたバグ」を確認するような、無機質な知性が宿っている。


「どうするつもり、玖島君。あなたが望むなら、私は今この瞬間に、彼女のロッカーの周辺で起きたすべての事象を、論理的な地獄へと変える準備があるわ」


 僕は、白砂の手をそっと握り返した。

 彼女の献身に、ただ縋っているだけではいけない。二度目の人生、僕がなすべきは、この「再演」の舞台裏に潜む本当の違和感を、僕自身の目で見定めることだ。


「……いや。今度は僕が、彼女の脚本を書き換える。白砂さん、君の力を貸してほしい。……僕たちの静寂を、誰にも壊させないために」


 白砂は目を見開いた。

 彼女の瞳に、深い、深い悦びの光が宿る。それは僕が、彼女の作り上げた「二人だけの領域」を共有することを、明確に選んだことへの、狂おしいほどの充足だった。


「ええ。……喜んで、共犯者になりましょう」


 彼女は僕の指を、一本ずつ絡めるようにして強く握りしめた。

 夕闇のなか、阿久津の悪意が忍び寄る音。

 けれど、この閉じられた空間で、白砂の体温だけが、異常なほどの解像度で僕を世界に繋ぎ止めていた。

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