第二話:沈黙という名の加護(中編)
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように、長大な影をその身に宿す。
傾きかけた太陽が廊下を朱色に染め、窓枠の影が格子状の檻となって床に横たわっている。そこにあるのは、若さという名のエネルギーが使い果たされた後の、燃え残り(デブリ)のような静寂だった。
「……あんな風に言わなくてもよかったのに。阿久津さんは、本気で困っていたかもしれないよ」
無人の廊下を歩きながら、僕は隣を歩く白砂に声をかけた。
彼女は、まるで汚れた空気を吸い込むのを拒むかのように、薄い唇をきゅっと結んでいる。その端正な横顔は、夕闇のなかで白磁のように白く、触れれば指先が切れてしまいそうなほどに鋭利な美しさを放っていた。
「あなたは、相変わらず無防備ね」
白砂は僕の方を見ず、ただ正面を見据えたまま答えた。
彼女の声は、冬の夜の底に沈む泉のように冷ややかだ。けれど、その冷たさの奥には、僕を突き放すための拒絶ではなく、何かを守り抜こうとする強固な意志が、硬い種子のように潜んでいる。
「無防備という言葉の定義には、主観が混ざるけれど……少なくとも、あの少女があなたに向けていたのは、純粋な善意ではないわ。それは、獲物を麻痺させるための甘い毒液に過ぎない。……私は、その毒があなたの静脈に流れ込むのを、ただ黙って見ていることはできないのよ」
「白砂さん……」
「……勘違いしないで。私はただ、秩序が乱れるのを嫌っているだけ」
彼女はふいと顔を背けた。
その瞬間、夕日の赤光が彼女の耳たぶを透かし、そこが林檎の皮のように赤く染まっているのを僕は見てしまった。彼女の「つん」とした態度の裏側で、感情という名の熱が、制御を失って漏れ出している。
その時、校舎裏の影から、ひそひそとした話し声が聞こえてきた。
「……本当なんだって。玖島君、白砂さんに脅されてるみたいよ」
それは、阿久津の声だった。
彼女は数人の取り巻きを囲み、まるで悲劇を告発する聖女のような神妙な面持ちで語り合っている。
「白砂さんって、昔からちょっと変わってるでしょう? 玖島君、本当は私を助けたかったのに、彼女が怖くて言い出せなかったみたい。……あんな風に束縛されるなんて、彼が可哀想だと思わない?」
阿久津の声には、相手を深く同情させ、味方に引き入れるための「魔力」が宿っている。
彼女は、自分が拒絶されたという事実を、見事に「救済の物語」へと書き換えていた。一度目の人生でも、彼女はこうして「正義」を盾に、僕を孤立させていったのだ。
僕は思わず足を止めた。背筋に、氷のような嫌悪感が走る。
だが、僕の隣に立つ少女は、驚くほど平然としていた。
「低俗ね。情報の切り貼りでしか世界を認識できないなんて」
白砂は、阿久津たちのいる方角を一瞥することさえしなかった。
彼女は僕の前に回り込み、僕の胸元にそっと手を置く。その手のひらから伝わってくるのは、驚くほど激しく、けれど一定のリズムを刻もうと必死に堪えている鼓動だった。
「玖島君。あんなノイズに、あなたの心を一ミリも割く必要はないわ。……彼女がどれだけ言葉の罠を仕掛けようとも、私がそれを一つずつ解体してあげる。……あなたは、ただ私の隣で、誰にも汚されない無垢な時間のなかにいればいいの」
彼女は僕を見上げ、僅かに目を細める。
その仕草は、幼い子供が一番大切にしている宝物を、誰にも渡さないと誓うような、切実で脆い独占欲に満ちていた。
「私だけが、あなたの価値を知っている。私だけが、あなたの痛みを数えることができる。……そうでしょう?」
彼女の言葉は、氷のような冷徹さで世界を遮断し、僕を彼女だけの「硝子の檻」へと閉じ込めていく。
それは、阿久津が仕掛ける悪意の罠よりも、ずっと深く、逃れられないほどに心地よい拘束だった。
白砂は、僕の手をそっと握った。
その指先は、僕を導くための指針のようでもあり、二度と放さないと宣言する楔(くさび)のようでもあった。
「さあ、行きましょう。……阿久津さんの『物語』が完成する前に、私の『真実』で世界を埋め尽くしてあげるから」
夕闇のなか、彼女の瞳だけが、異常なほどの解像度で僕を映し出していた。
それは愛という名の、甘美な宣告だった。
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