9 帰還の狼

 イズナは一切の躊躇もなく、緑の液体を追うように温泉へ身を投げた。

 その瞬間、世界が裏返る。

 襲ってきたのは温泉の熱さではなく、骨の芯まで染み渡る、鋭く逃げ場のない痛みだった。

 意思を持つかのように蠢く緑の液体は、無数の微細な針へと姿を変え、皮膚を貫き、毛穴から体内へとなだれ込む。

 血管を走り、神経を伝い、原力が枯れ果てた源へ――そこを目指して、決死の突撃を開始した。

「が……あ、あぁ……っ!」

 食いしばった歯の隙間から、押し殺した呻きが漏れる。

 体内では二つの力が、狂ったようにぶつかり合っていた。

 ――「原力凋零」が残した、すべてを枯らす死の力。

 それに抗う、緑の液体がもたらす圧倒的な生命力。

 最初は、氷と火が引き合うような、熾烈な綱引きだった。

 次の瞬間には、身体にマグマを流し込まれたかと思えば、直後には凍てつく寒気が骨を噛む。

 筋肉は意志を失って痙攣し、骨は軋みを上げて悲鳴を上げる。

 温泉の水面は、イズナの激しい震えに呼応するように、波紋を幾重にも広げていた。


 この苦痛の中では、時間という概念は意味を失っていた。

 数時間か、あるいは数日か。

 イズナは煉獄の只中を漂いながら、意識の最後の縁を、必死に掴み続けていた。


 脳裏に浮かぶのは――

 寡黙な父の背中。

 無理に作った母の笑顔。

 涙を浮かべた妹の瞳。

 そして――

 必ず戻り、すべてを奪い返すという、燃え盛る復讐の誓い。

「少年よ。ここからは、おぬし次第じゃ」

 峡谷に立つアウレの虚影は、風に銀髪を揺らしながら、その輪郭をいっそう透き通らせていた。


 どれほどの時が流れただろうか。

 不意に、激痛の潮が引き始める。

 代わりに、身体の最奥から、微かな感触が芽吹いた。

 冬の凍土の下で、最初の芽が重い氷を押し上げようとする――そんな感覚だった。

 イズナは悟る。

 原力が、再び集まり始めている。

 それは小川ほどに細い。

 だが、かつてない純度と強靭さを備え、極寒の刃のような気配を纏っていた。

 やがて、体内に残っていた最後の穢れが中和され、黒い霧となって口と鼻から吐き出される。

 その瞬間、温泉の水は完全な透明へと戻っていた。

 全身に、凄まじい疲労がのしかかる。

 それでも、空虚だった器が満たされたという、確かな実感があった。


 イズナは、ゆっくりと目を開く。


 黒い瞳の奥で、細かな霜の結晶が一瞬だけ閃いた。

 震える手を持ち上げ、己の掌を見つめる。

 ――心念を動かす。

「……っ」

 かすかな音が、空気を裂いた。

 シュウ、と。

 弱々しい。

 だが、どこまでも凝縮された蒼。

 淡い氷を纏った原力が、目覚めた氷狼の吐息のように、静かにその掌から立ち昇った。

 生まれ変わったイズナの姿を、アウレは静かな称賛を宿した眼差しで見つめていた。

(十二歳にして、この心の強さか。

 沈着な立ち振る舞い、折れぬ精神。

 素質は申し分ない。丹念に磨けば、比類なき輝きを放つ存在になるじゃろう)


「アウレ……ありがとう」


 イズナは、先ほどよりもいっそう淡く、著しく衰弱したアウレの姿を見て取った。

 今回の調合によって、彼の残された力が大きく削がれてしまったのだろう。

「この恩は……必ず、忘れません」

 その言葉に、アウレはただ穏やかに微笑むだけだった。

 答えを返すことなく、視線を巡らせ、来た道――町のある方角へと目を向ける。

「……礼は要らん。

 それより、町の方から複数の気配を感じる。――急いで戻ったほうがいい」

「気配……?」

 イズナの胸に、言いようのない不安が走る。

 だが彼は迷わず頷き、深く積もった雪を蹴って、家族の待つ家の方角へと駆け出した。

 その足取りは、かつて絶望に沈んでいた頃とは比べものにならないほど、力強く、そして速かった。



 町の広場は、異様な喧騒に包まれていた。

 普段は静まり返っているアークライト邸の前が、今は人だかりで埋め尽くされている。

 好奇の視線、不安げな囁き、そしてわずかな同情――それらが入り混じる群衆の中心に、ひときわ目立つ存在があった。

 華美な衣装に身を包んだ一人の貴族の青年が、顎を突き出すようにして立っている。

 背後には十数名の武装した従者が並び、その威圧が広場を支配していた。

 青年の名は、クロード・ヴィミリアン。

 王都では三流に数えられる家柄に過ぎないが、それでも「貴族」という肩書きを笠に着て生きてきた男だ。

 その正面には、アークライト家の女主人セレナと、幼いエリーゼ、そして屈辱に耐えながらも主を守ろうと前に立つ数人の部下たちの姿があった。

 クロードは、カルスが不在であることを確信したうえで、この場に現れていた。

 レベル39の「上位(スペリオル)」、北境の猛将が相手では、威張り散らすどころか、門前に立つことすらできない。

「もう一度言ってやろう、セレナ夫人――いや、爵位を失った今となっては、セレナ“さん”と呼ぶべきかな?」

 クロードの甲高く、わざとらしい声が広場に響く。

「アークライト家は国王陛下の裁定により爵位を剥奪され、この北境を治める権限を失った。

 したがって、この屋敷を含む領地はすべて王国の直轄となり、新たな領主が任命される」

 彼は得意げに胸を張り、言葉を続けた。

「そして――次期北境領主に指名されたのは、我が父、カイエン・ヴィミリアン男爵だ。

 一ヶ月もすれば、父上が正式にこの地へ赴くことになる。

 それまでに、この屋敷から速やかに立ち去るがいい――」

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蒼の境――イズナは這い上がる @Kanagawa_K

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