7 覚悟の旅
翌朝、食堂。
長いテーブルに並んでいるのは、黒パンと干し肉だけだった。
アークライト家はもともと武を尊ぶ家柄で、食事も質素を旨としてきたが、それでも今日の献立は、以前よりいっそう寂しく感じられる。
カルスは黙ったまま食事を口に運んでいる。
その目の下に刻まれた濃い隈が、昨夜ほとんど眠れていなかったことを雄弁に物語っていた。
イズナは、文字で埋め尽くされた一枚の羊皮紙を、そっと父の前へ差し出した。
カルスは手を止め、紙を手に取る。
並んでいるのは、どれも見慣れぬ素材の名ばかりだった。
「万年氷の心臓」「地脈の焔髄」――そのどれもが、闇市に出れば天文学的な値がつくであろう代物だ。
さらに、聞いたことすらない名称が、いくつも続いている。
読み進めるにつれ、カルスの眉間には深い皺が刻まれていった。
「……これは?」
イズナは、まっすぐに父を見返した。
アウレの存在を明かすわけにはいかない。少なくとも、今は。
「父様」
声はわずかに掠れていたが、その響きは揺るがない。
「信じがたいかもしれません。でも……これが、僕が見つけた『原力凋零』を治せる薬の調合素材なんです」
「調合は、錬金術師にしかできん。
たとえこれらの素材を集められたとしても、それを扱える者がいない」
「……僕が、なんとかします」
イズナは一歩も引かなかった。
「どうか信じてください」
カルスは言葉を返さず、しばらくのあいだ息子を見つめ続けた。
その黒い瞳の奥には、久しく見ていなかった光が宿っている。
それは無謀さではない。
追い詰められた末に、それでも前を向こうとする者だけが持つ、確かな光だった。
カルスは、ゆっくりと目を伏せた。
王都で仕組まれた卑劣な罠。
床に崩れ落ち、顔色を失った息子の姿。
そして、この一か月あまり、屋敷を覆い続けてきた重苦しい沈黙。
そのすべてが、波のように脳裏をよぎっていく。
「……この素材の価値はな」
カルスは低く言った。
「今の我々が持つすべてを投げ打っても、なお足りん」
その言葉に、イズナの瞳が一瞬だけ陰る。
だが次の瞬間、カルスは立ち上がり、息子の肩を力強く叩いた。
そこには迷いのない重みがあった。
「倉庫には、まだ売れる骨董がいくつか残っている。
かつての親友にも、手紙を出そう。
それに……王国の法に少し触れる程度の“裏の伝手”も、まだ生きている」
問い詰める色は、一切なかった。
その眼差しにあるのは、かつて戦場を駆けた猛将の、鋭く冴えた光だけだ。
「二週間だ」
カルスはきっぱりと言った。
「それまで待て。
必ず、道をつけてみせる」
それからの二週間、時間は待ちわびる焦燥と静寂の中を、ゆっくりと流れていった。
カルスが屋敷に姿を見せることは、目に見えて減った。
たまに戻ってきても、全身に雪をまとい、瞳の奥には深い疲労が滲んでいる。
それでも、その懐には必ず、あのリストに記された素材が一つか二つ、確かに収められていた。
ある時は、冷たい玉の箱に厳重に納められた「星銀草」。
またある時は、柔らかな布に幾重にも包まれた、純度の高い「コア」。
カルスは、それらを手に入れるまでの経緯を一切語らなかった。
イズナもまた、問いただすことはしない。
ただ受け取るたび、その素材が持つ重みを感じ取り、イズナの指先はわずかに震えた。
そして、十五日目。
最後の一品――
特製の容器越しでさえ、凍てつく寒気と、灼けるような鼓動が同時に伝わってくる「地脈の焔髄」が、傷跡の残るカルスの手によって、静かに机の上へ置かれた。
父は何も言わなかった。
ただ一度、息子の肩を重く叩くと、そのまま背を向ける。
家財の売却。
無理を承知で頼み込んだ援助。
その後始末に向かうためだった。
薄暗い廊下の奥へ消えていくその背中は、以前よりも頑なで、そして――どこか、ひどく老いたように見えた。
部屋の中。
アウレは、机の上に整然と並べられた素材をひととおり眺めた。
その幻のような顔に、かすかな満足の色が、一瞬だけ浮かんだ。
「素材は揃ったな。品質も……まあ、合格点じゃ」
淡々とした声音。
だが、次の一言で、イズナの背筋は自然と伸びていた。
「さて、ここからが本番じゃ。場所を移すぞ。
絶対の静寂。誰にも邪魔されぬ場所。そして――多少の衝撃にも耐えられる環境が必要じゃ」
一拍。
「錬成の最中に、ほんのわずかでも干渉を受ければ、すべてが水泡に帰す。
ここまで苦労して集めた素材も、残らず無駄になるのじゃ」
イズナは真剣な顔で思考を巡らせ、やがて窓の向こうへと目を向けた。
白く連なる、峻厳な山脈の稜線――。
城を出ようとした、そのとき。
「お兄様、どこへ行くの?」
駆け寄ってきたエリーゼが、不安そうに問いかける。
「少し、遠出をしてくる」
イズナは足を止め、振り返って妹の目線に合わせた。
「数日は戻れないかもしれない。父様には、心配いらないと伝えてくれ」
エリーゼは唇を噛みしめ、小さくうなずいた。
「……無理、しないで」
イズナは微笑み、エリーゼの頭をそっと撫でる。
その瞳には、すでに何かを選び取った者の静かな光が宿っていた。
「ああ。次に帰ってくるときは、きっと前の自分に戻っている」
それだけを告げると、イズナは膨らんだ素材袋を背負い直した。
吹き荒れる猛吹雪の中へ、一歩、また一歩と踏み出す。
目指す先は、峻烈な山脈の深奥――
誰にも踏み込めぬ、静寂と極寒の世界だった。
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