6 禁書の魂
本を開けた瞬間――蔵書室全体の空気そのものが震えた。
積もった埃が舞い上がり、蝋燭の火が狂ったように揺らめく。
驚くべきことに、典籍の内部には紙のページなど存在しなかった。
代わりにそこにあったのは、目が眩むほど緻密で複雑な、立体の錬成陣だった。
それは長い眠りから目覚めたかのように、幽玄な蒼い微光を湛えながら、ゆっくりと脈動を始める。
「ほう……ようやく、外に出られたか」
その声は耳からではなく、イズナの魂の空白へと直接響き渡った。
穏やかで、古く、悠久の時を越えてきた残滓のような気配を纏っている。
そして、獲物を見つけたかのような、得も言われぬ愉悦が混じっていた。
イズナの全身が強張った。
手から滑り落ちた燭台が床に当たり、火が消える。
しかし、幽玄な蒼い錬成陣は自ら輝きを増し、青白い光がイズナの顔を照らし出す。
そして、陣の中心から、緩やかに立ち昇る半透明の虚影をも。
現れたのは、ローブを纏った、幻のような銀髪を持つ端正な男だった。
その瞳は、あらゆる事象を貫き、本質を見透かすかのように鋭い。
身体は水面に映る影のように揺らぎ、不安定さを示している。
だが、その存在感は、この小さな密室を押し潰しかねないほどに重かった。
虚影の視線が、目を見開いたままのイズナに注がれる。
「おぬしが封印を解いたのか……ん?」
男は興味深げに、イズナを凝視した。
「……この気配は、『原力凋零(フォース・ウィザー)』か。
この時代に、まだこれほど粗野で美感に欠ける代物を使う者がおるとはのう」
「こ……これを、知っているのか?」
「知っているか、じゃと?」
男は鼻で笑った。
その響きには、古の権威が持つ、淡い傲慢さが滲んでいる。
「魂の毒を基にした、このような劣悪なレシピなど、ワシの時代では、見習いですら研究対象にせん。
唯一の利点といえば――
中てられた者が原力を失う以外、他の害がないことくらいじゃ」
その口調は、若々しい外見とはあまりに不釣り合いな、永い時を生きた者の響きを帯びていた。
虚影は、傍らに落ちた金属製の典籍へと目を向けた。
先ほどまで周囲を圧していた威圧感はすでに霧散し、それは今や、ただの古びた本として静かに横たわっている。
「少年、名は?」
「……イズナ・アークライト」
「ワシはアウレリウスじゃ。まあ、アウレとでも呼ぶがよい」
自らをアウレと名乗った虚影は、透き通った手で顎を撫でた。
「封印を解いてくれた礼じゃ。
おぬしの『原力凋零』――ワシが治してやろう」
「本当……本当ですか!?」
イズナは思わず身を乗り出した。
それは、絶望の淵で掴んだ、あまりにも眩い希望だった。
「当然じゃ。ワシを誰だと思っておる」
アウレは短く唸り、言葉を継ぐ。
「ただし、薬を作るための素材は、
おぬし自身で用意してもらうぞ」
「わかりました。何だって用意します!」
イズナが力強く頷いた。
一拍置いて、まるで何かを思い出したかのように――
「……アウレは、どうしてこの姿になって、本の中に閉じ込められたんだ?」
アウレの瞳に、ほんの一瞬だけ、悲しみと憎しみの色が浮かんだ。
だが、それ以上は何も語らなかった。
その瞬間だった。
背後の階段から、聞き慣れた足音が響き、父の声が降ってくる。
「イズナ? そんなところで何をしているんだ」
イズナが弾かれたように振り返り、声を返そうとした、その刹那――
(――ワシの存在を、決して誰にも漏らすでないぞ)
鋭い声が、脳裏へ直接突き刺さった。
次の瞬間、幽玄な蒼い光は掻き消え、アウレの姿もまた、空っぽの地下書庫の闇へと溶けるように消え去った。
カルスが階段を下り、イズナの前に姿を現した。
彼は目を細め、ひっそりと静まり返った暗がりの蔵書室を見渡す。
「……今、誰かと話していなかったか?」
「い、いいえ。何でもありません」
カルスは眉をひそめ、鋭い原力感知を周囲へと走らせた。
だが、そこに他人の気配は微塵もない。
不可解そうな表情を浮かべながらも、彼はそれ以上追及せず、イズナの手を取って蔵書室を後にした。
自室へ戻り、ようやく一息ついた――その瞬間。
目の前の空間が、ふわりと歪み、アウレが再び姿を現した。
「うわっ……!」
イズナは思わず身を跳ね上げた。
「さっきは一体、どこに隠れていたんですか?」
アウレは事もなげに人差し指を立て、そのままイズナの胸元を指し示す。
「おぬしの体内じゃ」
「えっ!? 俺の……体内!?」
「ワシは今や、ただの『魂の欠片』に過ぎん。
拠り所がなければ、すぐに霧散してしまうでのう」
イズナの顔が引き攣った。
まるで幽霊に取り憑かれたかのような感覚だ。
だが、今はそんなことに動揺している場合ではない。
「……わかりました。
今はとにかく本題です」
気を取り直し、真っ直ぐアウレを見据える。
「薬を作るために、何を準備すればいいんですか?」
「まず――『万年氷の心臓(アイシクル・コア)』じゃ。ただの氷晶ではない。
百年以上もの極寒と圧力に晒され、自然に凝縮された結晶でなければならん」
アウレは淡々と語り、次を告げる。
「次に、それと対を成す『地脈の焔髄(マグマ・エッセンス)』。
相反する属性を衝突させることで、薬効は極限まで引き上げられるのじゃ、さらに……」
アウレは淡々と、次々に素材の名を口にしていった。
どれも耳慣れぬものばかりで、中にはすでに歴史の裏へと消えた名さえ混じっている。
不思議なことに、アウレの言葉を疑う気がまったく起きなかった。
イズナは、震える手で一つひとつ、書き留めていった。
リストを眺めるたび、胸の奥が重く沈みそうになる。
だが同時に、出口の見えなかった絶望の底で、進むべき「道」がはっきりと示されたことも確かだった。
不安と希望が入り混じった鼓動が、胸の奥で熱く鳴り続けていた。
(――これで、ようやく力が戻れる)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます