5 家族の温

「お兄様! 王都はどうだったの?

 覚醒の儀って、やっぱりお話に出てくるみたいに、大きな石が立っているのかしら?

 ねえ、お兄様ならきっと一番すごかったんでしょう? 早く教えて!」

 飛び出す問いかけの一つ一つには、子供特有の、曇りのない期待が込められていた。

 カルスの大きな掌が、そっとエリーゼの頭に置かれる。

 優しく撫でながら、かつて男爵と呼ばれた男は、ゆっくりと膝をつき、娘と同じ目線まで腰を落とした。

「ただいま、エリーゼ」

 その声に重なるように、背後から穏やかで透き通る女性の声が響く。

「エリーゼ」

 振り返ると、そこに立っていたのは、エリーゼとどこか似た面差しの、イズナたちの母セレナだった。

「お父さんも、お兄さんも、長い旅でとても疲れているの。

 まずは、暖かいお家の中へ案内してあげて」

 一拍置いて、彼女は夫へと視線を向けた。

「……お帰りなさい、あなた」

 そのまなざしは、夫の疲れ切った瞳も、俯いたままの息子の姿も、逃さず映していた。

 だが――今は、何も問わない。

 ただ、慈しむように、家族を静かに包み込む。


 屋敷へ戻った夜、カルスは王都で起きたすべてを、セレナに打ち明けた。

 爵位の剥奪、イズナに盛られた毒、そして王の裁定。

 セレナは取り乱すことなく、ただ静かに話を聞き終えると、夫の無骨な手を強く握りしめた。

「何が起きようとも……一緒に背負いましょう」

 その言葉に、カルスはわずかに目を伏せ、短く頷いた。


 それからの日々、屋敷は粘りつくような静寂に包まれた。

 かつては決して賑やかとは言えずとも、人の気配と温もりに満ちていた広間は、今や暖炉の中で爆ぜる薪の音さえ、やけに大きく響くほどに空虚だった。

 多くの使用人や護衛はすでに去っている。

 残ったのは、白髪混じりで口数の少ない老僕たちと、眼光鋭く、家族と運命を共にする覚悟を決めた数人の部下だけだった。

 イズナを救うため、カルスはあらゆる人脈を辿った。

 古い伝手、かつての戦友、噂話に過ぎぬ情報にまで手を伸ばし、最後に残っていた手元資金さえ惜しまず投じた。

 救いを求める報せを、四方八方へと放ったのだ。

 だが、返ってくる答えはわずかで、そのどれもが、希望と呼ぶにはあまりにも遠いものだった。


「――『原力凋零(フォース・ウィザー)』」

 村の老人は、溜息交じりに首を振った。

「旦那様、あれはただの毒ではございません。

 禁忌の領域に踏み込んだ代物です。噂では……錬金術の極みに達し、『生命の根源』を覗き見るほどの者でなければ、解除の望みは万に一つもないとか」

 町の酒場。

 かつて大陸を渡り歩いたという傷痍の老兵は、強い酒を喉に流し込みながら、不明瞭に呟いた。

「すげえ錬金術師、か……。

 俺が聞いたことあるのは、噂話みてえな連中ばかりだ。

 『翡翠の錬金術師』とか、『錬金術師ギルド』に棲む化け物みてえな古老とか……」

 老兵は酔った目で、床に座り込むカルスを見やり、力なく首を振る。

「だが、そいつらが本当にいるかどうかも怪しい。

 仮に会えたとして……どれほどの代償を求められるか、想像もしたくねえ」

 それ以上の言葉は、酒とともに飲み込まれた。

 この世には、誰でも修練次第で扱える原力使いとは異なり、生まれながら、あるいは特別な才覚を持つ者しかなれない――錬金術師という存在がいる。

 彼らはどの国でも尊敬され、薬の調合、装備の溶錬、エンチャントといった領域は、錬金術師にしか踏み込めない。

 アストラ王国にも、ただ一人、王室付きの錬金術師がいる。

 だがその人物は王族にのみ仕え、外部の依頼を受けることはない。

 ましてや、『原力凋零』を治せる錬金術師となれば――

 その数は、指で数えられるほどしか存在しない。

 希望は、限りなく細く、遠かった。


 イズナの体は、ありふれた薬による手当てと、父が注ぎ続ける原力の温もりによって、ようやく日常の動きをこなせるまでには回復していた。

 見た目だけなら、以前と変わらぬ健常な少年に見える。

 だが、ひとたび原力を引き出そうとすれば、内側に広がるのは果てのない虚無と、魂を削り取られるような鈍い痛みだけだった。

 彼はよく、屋敷の最上階にある露台に一人で腰を下ろしていた。

 窓の向こうに広がるのは、どこまでも白く凍てついた冷涼な原野。

 その景色を見つめるイズナの姿は、まるで風雪に晒され、少しずつ削られていく氷の彫像のようだった。

(シグルド……そしてルシウス。

 ウェントワース家――そのすべてに。

 この借り、必ず返す)

 胸の奥で燻る黒い感情は、怒りとも憎しみともつかないまま、静かに凍りついていた。

 そんな彼のもとを、時折、音もなく訪れる者がいる。

 妹のエリーゼだった。

 彼女は慰めの言葉を並べることはしない。

 ただ静かに隣へ腰を下ろし、以前よりも逞しくなった――しかし今はひどく強張っている兄の肩へ、小さな頭をそっと預ける。

 そして、何も言わずに、家族の微かな温もりを分かち合うのだ。


(大丈夫よ。お兄様が、どんなふうになっても……

 私の、自慢のお兄様ですから)



 それは、暖炉の火でさえ力を失ったかのように、頼りなく揺れる冬の夜だった。

 イズナはまたしても、あの悪夢から跳ね起きるように目を覚ました。

 薄い寝衣は冷たい汗に濡れ、内側に広がる空洞のような鈍痛は、窓の外を荒れ狂う吹雪よりも生々しく彼を苛んでいた。

 だが、イズナの心は折れてはいなかった。

 この絶望的な状況にあっても、原力を取り戻す術を求め、もがき続けていたのだ。

 隣の部屋で同じく眠れぬ夜を過ごしているであろう父を気遣い、音を立てずに寝所を抜け出した。

 向かったのは屋敷の奥深く――祖父の遺品が積み上げられ、今や忘れ去られたも同然の地下蔵書室だった。

 室内には、積年の埃と古い革の匂いが重く立ち込めている。

 使い古された一本の蝋燭に火を灯すと、微かな光の輪が雑然とした部屋の一角をぼんやりと照らし出した。

 イズナは無意識のうちに、埃をかぶった書物の背を指でなぞっていく。

 数冊を渡り歩いたその指先が、ふいに異質な感触に止まった。

 異様なほど分厚く、表紙には文字ひとつ刻まれていない、金属製の典籍だった。

 周囲の古書とは明らかに一線を画し、人の情を拒むような冷気を放つその本は、ただそこにあるだけで異様な存在感を主張していた。

 吸い寄せられるように、イズナはその重厚な金属の表紙に手をかけ、一気に押し開いた。

 その瞬間、表表紙と裏表紙を繋いでいた一筋の黒い紙が、黒煙となって霧散した。


 次の瞬間――世界が軋んだ。

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