4 慈悲の裁
傍観していた貴族たちが、見えざる圧に押されるように左右へ退き、一本の道が開かれた。
その先から、このアストラ王国の国王――エドガー・フォン・アストラが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
深紫色の常服を纏い、王冠こそ戴いていない。
しかし、幾多の政争と歳月をくぐり抜けてきた碧眼に宿るのは、疑いようのない王者の威光だった。
国王の視線が、抵抗を諦めたカルス、床に伏して虫の息のイズナ、悲憤を浮かべたルシウス、そしてその背後で勝ち誇った色を瞳の奥に隠すシグルドを、順に捉える。
最後に、その視線は――静かな怒りの炎を宿すカルスの灰色の瞳で止まった。
空気が凍りつく。
誰もが息を呑んだ。
「陛下……」
ルシウスが誰よりも早く深々と頭を下げ、痛ましげに、しかし切実な口調で訴え出る。
「カルス・アークライトは正気を失い、あろうことかこの離宮で凶行に及びました。
王国の未来を担う若き才能に、刃を向けたのです。
こんな暴挙を見逃せば、もはやこの国に法など存在しません。
どうか陛下……
見せしめとして、しかるべき裁きをお与えください!」
カルスは一切の弁明をしなかった。
ただ、国王をまっすぐに見据えている。
ルシウスが用意した筋書きの前では、どんな言葉も空虚に響くだけだと、すでに悟っていたからだ。
彼が知りたかったのは、ただ一つ――かつて忠誠を誓い、その祖先が自らの祖と肩を並べて血戦を繰り広げた君主が、いかなる裁定を下すのか。それだけだった。
エドガー国王は、しばし沈黙した。
この場の不自然さに、気づかぬはずがない。
イズナの額に浮かび上がる、不吉な黒。おそらくは禁忌の薬――「原力凋零」。
王の視線が、ルシウスをかすめた。
アークライト家が百年にわたり北境を守り抜いてきた功績と忠誠。それは、いかなる理由があろうと、容易に否定できるものではない。
――しかし。
財務大臣の権力は、すでに王国の隅々にまで根を張り、宮廷はその側近たちで埋め尽くされていた。
国庫は半ば私物と化し、背後の勢力も無視できぬほど強大だ。
近年、北境の軍事費が不自然に削減され、困窮する領民の声が握り潰されている――そんな報告も、王の耳には届いていた。
知らぬわけではない。ただ、歪みはあまりに深く、一つを動かせば、国そのものが揺らぎかねない。
やがて、エドガー国王は口を開いた。
その声は平坦でありながら、抗いようのない決断の重みを帯びていた。
「カルス・アークライト男爵。
宮廷の夜宴において分を弁えぬ振る舞いで騒乱を引き起こし、大臣の子へ危害を加えようとしたこと――それは動かぬ事実である」
一拍。
「……だが、先祖代々にわたる戍辺の功績、ならびにこれまでの勲労を考慮し、今回に限り、その罪は免ずる」
(……免ずる、だと?)
ルシウスは眉をひそめ、口を挟もうとした。
だが国王は、それを制するように言葉を継ぐ。
「しかし――その行いは、もはや貴族の名に値せぬ。
本日をもって、アークライト家の爵位および称号を剥奪する。
併せて、北境の領地を含む、王室より授けられたすべての特権を――これを収公とする」
「陛下」
ルシウスが一歩踏み出した。
「北境は、たとえ一日でも放っておくわけにはいきません。
あの地は荒れやすい。統治する者がいなければ、すぐに秩序が崩れます」
ひと呼吸、置く。
「王国のためにも、できるだけ早く後任を決めるべきでしょう。
もしお許しいただけるなら……その役を務められる者に、心当たりがあります」
己に忠誠を誓う者を新たな領主として送り込めば、アークライト家を北境の吹雪の中で“自然に”消すことなど、造作もない。
爵位も領地も失ったアークライト家など、王国の法の下では羽虫同然だ。
その算段を見透かしたかのように、国王は力なく頷いた。
「……賢明なる判断にございます、陛下」
ルシウスは深く一礼する。
その完璧な所作とは裏腹に、伏せた瞳の奥では、冷酷な光が静かに閃いていた。
エドガー国王は、最後に一度だけカルスへ視線を向け、近衛兵たちへ命じた。
「イズナ・アークライトの治療を」
そして、付け加えるように言う。
「……尽力せよ」
それだけ告げると、誰をも振り返ることなく、その場を後にした。
(治療、だと?)
シグルドは内心で冷笑した。
『原力凋零』が簡単に解けるなら、禁忌の薬に指定されるはずがない。
二人の従者が、意識を失ったイズナを慎重に抱え、広間を後にする。
カルスは抵抗しなかった。
ルシウス親子を振り返ることもなく、ただ息子を運ぶ従者の後を黙々と追う。
その背筋は、なお吹雪の中に立つ巨木のように真っ直ぐだった。
だが、豪奢な王宮の回廊に落ちるその影は、あまりにも孤独で、深い寂寥を帯びている。
貴族の身分。
幾世代にもわたり守り抜いてきた領土。
先祖から受け継いだ誇り――。
そのすべてが、一夜にして奪い去られた。
それでも、カルスにとっては――
イズナが生きてさえいればいい。
アークライトの血脈が途絶えぬ限り、それで十分だった。
北境へと戻る道程は、不気味なほどに平穏だった。
だが、カルスの張り詰めた神経が緩むことはない。
財務大臣ルシウスという男は、一度狙った獲物を生かしておくような甘い人物ではないはずだ。それにもかかわらず、立ち寄る関所ではどこも形式的な検問が行われるだけで、執拗な嫌がらせを受けることすらなかった。
この不自然なまでの滞りのなさが、かえって二人の胸に重くのしかかる。
嵐の前の静けさ――そう呼ぶには、あまりにも出来すぎていた。
「……陛下のお力添えだろう」
ある夜、古びた宿場の炉端で、カルスはぽつりと呟いた。
爆ぜる薪の火花が、灰色の瞳にちらつく。
「国王の後ろ盾がなければ、ルシウスがあそこまで大人しく引くはずがない。
あの方は……最後の“慈悲”を、私たちに与えてくださったのだ」
それから一ヶ月以上に及ぶ過酷な旅路の果て、故郷特有の冷たい匂いとともに、見慣れた城砦の輪郭が地平線に浮かび上がった。
その瞬間、イズナの胸を覆っていた重苦しさは、別の感情によって鮮やかに突き破られる。
「お父様! お兄様!」
暗雲を裂いて舞い落ちる初雪のような、弾んだ声が響いた。
城門から、一人の少女が駆け出してくる。
十歳ほどのその少女――イズナの妹、エリーゼだった。
北境の淡い陽光を浴びて、薄水色の髪が軽やかに跳ねる。
小鳥のような足取りで一直線に駆け寄り、その瞳には、隠しきれない喜びが溢れていた。
「おかえりなさい!」
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