3 裏切の宴
次にイズナが目を覚ましたとき、視界にあったのは激しく揺れる馬車の天井――ではなかった。
雨を凌ぐために張られた、数枚の油布だけだ。
北境特有の、刃物のように鋭い寒風が、容赦なく頬を削る。
起き上がろうとしたが、全身から力が抜け落ち、指先一本すら動かなかった。
「……起きたか」
隣から、掠れた声が聞こえた。
イズナが必死に顔を向けると、そこには――
見たこともないほど変わり果てた、父の姿があった。
貴族の礼服は剥ぎ取られ、身に着けているのは、召使いが着るような薄汚れた麻の服一枚。
「……父様」
イズナは起き上がろうとしたが、身体にまったく力が入らなかった。
そして何より――かつて体内を満たしていたはずの原力が、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えていた。
イズナは自分の両手を見つめ、息を詰める。
「……こ、これは……なぜ、原力を……感じない……?」
その様子を見て、カルスは深く息を吐いた。
「お前は――『原力凋零(フォース・ウィザー)』を盛られた」
その声には、どうしようもない無力さと、息子を守りきれなかった父としての痛みが、抑えきれずに滲んでいた。
「禁忌の毒薬だ。
服用すれば、三時間以内に原力は完全に枯れ果てる。
そして二度と――回復することはない」
イズナの心臓が、一瞬、止まった。
縋るように目を閉じ、体内の原力へと意識を向ける。
呼びかける。探る。掴もうとする。
――だが、何もなかった。
内側はがらんどうだ。
魂の最も重要な一部を、無理やり抉り取られたかのような虚無。
「……父様」
声が震えた。
「僕が倒れた後……一体、何があったのですか」
カルスは、短く、諦念を含んだ息を吐いた。
「お前が倒れた瞬間、私は察して駆け寄った。
周囲の連中の……あの、卑劣な勝ち誇った目を見た時に、すべてを理解した」
父の拳が、みしりと音を立てて握り締められる。
「あそこにいたのは、すべて財務大臣の息がかかった者たちだった」
沈黙。
「……私は、感情を抑えることができなかった」
当時――
カルスの体内から、原力が狂ったように噴き上がった。
レベル39。
ランク――『上位(スペリオル)』に達した原力使いが解き放つ圧は、常人の理解を超えている。
周囲の貴族たちは、悲鳴を上げて数歩後退し、腰を抜かす者さえいた。
怒りに任せ、カルスはシグルドへ向けて渾身の一撃を叩き込もうとした。
だが――
その攻撃が届く寸前、ひとつの影が割って入る。
財務大臣、ルシウス・ウェントワース。
彼もまた、体内の原力を解放していた。
黄金色の奔流が渦を巻き、カルスの一撃を正面から受け止める。
カルスの原力と、ルシウスの原力が激突した。
爆散した衝撃波が、広間を薙ぎ払う。
天井から吊るされたクリスタルは粉々に砕け散り、豪奢な料理が並んでいた長テーブルは無残にひっくり返った。
優雅な舞曲は一瞬で途切れ、代わりに響き渡ったのは、貴族たちの悲鳴と、食器が床に叩きつけられ砕ける、不快な音だけだった。
原力の濃度から察するに、ルシウスもまた、少なくともカルスと同格――
『上位(スペリオル)』に到達した者だ。
カルスがその事実に驚愕する暇すら与えず、周囲を警護していた近衛兵たちが、一斉に踏み込んでくる。
「カルス・アークライト!」
ルシウスの声が、原力を帯びて喧騒を圧し、広間に轟いた。
「王族の離宮という神聖な場で!
大勢が見ている中、我が息子に手を出すとは――
貴様、法も陛下も、何も怖くないって言うのか!」
その怒号は、あまりにも正当な「被害者」のものだった。
――奴は、たった一瞬で、
カルスを「狂気に駆られた襲撃者」へと仕立て上げたのだ。
「よく見ろ、ルシウス」
カルスの声は低く張りつめていた。怒りに震えているのではない。極限まで冷やされた刃のような冷酷さを帯びている。
彼は床に崩れ落ち、顔面蒼白で苦悶するイズナを指さした。
「そこに倒れているのは、私の息子だ。
そして毒を盛ったのは――あんたの息子だろう」
一拍、置いてから言い放つ。
「これはな、アークライトの“未来”を根こそぎ断ち切ろうとした――れっきとした宣戦行為だ」
「言いがかりも甚だしい!」
ルシウスは即座に言い切った。
その顔には、身に覚えのない罪を着せられた“憤り”と、息子を思う“父親の怒り”が、あまりにも見事に貼りついていた。
ルシウスはすぐさま、護衛の背後に立つシグルドへと向き直った。
「シグルド。正直に答えろ。
お前はイズナ殿に、何かしたのか?」
その問いかけに、シグルドは絶妙な間で身体を震わせた。
澄んだ青い瞳に涙が滲み、声は怯えを帯びている。
「父上……僕は、何も……」
かすれるような声だった。
「ただ、イズナ君の様子が少しおかしく見えて……。
何か手助けが必要かと思って声をかけただけです。
それなのに、突然カルス男爵が……」
彼は言葉を詰まらせ、怯えた子どものように護衛の陰へと身を寄せた。
「怖い……」
その姿は、理不尽な災難に巻き込まれた、か弱く無垢な貴族の少年そのものだった。
事情を知らぬ者が見れば、疑う余地などない。
「聞いたか、カルス・アークライト」
ルシウスの視線が、刃のように突き刺さる。
「我が息子の善意を、毒などという下劣な妄想で汚し、あまつさえこの場で手を上げようとした。
どうやら貴様は、プライドだけでなく理性まで失ってしまったようだな」
ルシウスは、周囲を取り囲んでいた王宮近衛隊へ、鋭く手を振り下ろす。
「カルス・アークライトは、夜宴の席において暴挙に及び、王国大臣の子を害そうとした。
直ちに拘束せよ。抵抗するなら、その場で斬り捨てても構わん!」
近衛隊長は、ほんの一瞬だけ逡巡を見せた。
だが、財務大臣が向ける刺すような視線と、眼前に広がる「動かぬ証拠」とも言うべき光景を前に、それを無視することはできなかった。
意を決したように剣を抜き、切っ先をカルスへと向ける。
「男爵閣下。抵抗はおやめください」
カルスは周囲を睥睨した。
ルシウスの原力が逃がさぬよう自分を捉え、数十名の近衛兵が陣形を組んで退路を完全に封じている。
そして広間を埋め尽くす貴族たち――つい先刻まで愛想よく近づいてきた者たちも含め、誰一人として彼のために声を上げる者はいなかった。
そこにあるのは、冷漠。
疑念。
あるいは、愉悦すら滲ませた視線。
カルスは、呼吸が次第に弱まっていくイズナへと視線を落とした。
胸が引き裂かれるような痛みが走る。
今この場で死兵となって戦えば、ルシウス親子を道連れにできるかもしれない。
だが、その代償として、イズナは確実に見捨てられ、命を落とす。
結局――
百戦を潜り抜けてきた北境の守護者は、この巧妙に張り巡らされた陰謀の網を前に、全身に沸き立っていた原力を、静かに霧散させた。
近衛兵の枷がカルスの身体に触れようとした、その刹那。
宴会場の奥から、静寂を切り裂く威厳に満ちた声が響き渡った。
「――そこまでにせよ」
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