2 嫉妬の渦
カルス男爵は、ただ重く、力強く、息子の肩を一度だけ叩いた。
言葉はなかったが、その掌からは、言葉以上の想いが伝わってくる。
イズナは深く息を吸い込み、高台へと歩み出した。
石段を踏みしめるブーツの音が、妙に大きく響く。
それまでの喧騒が嘘のように、広場は静まり返っていた。
誰もが注視していたのだ――氷原に沈みゆく没落貴族の息子が、一体どれほどの「器」を示すのかを。
石碑に掌を触れた瞬間、突き刺すような冷気がイズナを貫いた。
そして、世界が変わった。
視界ではない。感覚そのものが反転する。
彼は「視て」いた。石碑の深奥で奔流となって渦巻く、無数の銀色の光の河を。
それらは交差し、分かれ、円を描き、理解を拒むほど巨大なエネルギーの網を成している。
自分は今、その網の縁に立っているのだと、直感した。
本能に突き動かされるまま、イズナは最も近くの光の河へ、指先を伸ばした。
その刹那――
石碑が、かつてないほどの輝きを放った。
シグルドが示した、ただ眩いだけの銀白色ではない。
それはより深く、より古の理を宿した、荘厳な輝光だった。
「なっ……これは――!?」
大導師アルフォンスが、初めて我を失い、身を乗り出す。
輝きは、なおも増していく。
レベル10、11、12――。
13を超えた瞬間、シグルドの顔から余裕の色が消え失せた。
だが、光は止まらない。
石碑は微かに震え始め、表面に刻まれた古の紋様が、呼吸するかのように明滅を繰り返す。
やがて、光は頂点に達し、静かに安定した。
広場は、水を打ったように沈黙した。
すべての視線が、石碑の頂に浮かび上がった「純粋な光の数字」に釘付けになる。
『 XV 』
「……じゅう、ご」
大導師の声が、驚愕に震えた。
「原力共鳴レベル、15!
ランク――『見習(アプレンティス)』!」
その宣告に、どよめきが走った。
レベルは圧倒的だ。だがランクそのものは、十刻みの規定により、シグルドと同じ「見習(アプレンティス)」に留まる。
共鳴レベル20に達して初めて「正位(プライマリー)」、30からは「上位(スペリオル)」と呼ばれる。
三秒間の、完全な静寂。
次の瞬間、爆発したような歓声と驚愕が、広場を埋め尽くした。
「レベル15だと!? そんな才能、最後に現れたのはいつの話だ……!」
「去年の儀式では、あの第一王女殿下ですらレベル14だったというのに」
「アークライト家の再興か!?」
「あり得ない……北境の野蛮な血筋に、これほどの才能が眠っていたというのか……!」
イズナは、観覧席へと視線を向けた。
父・カルスは、氷原に立つ孤木のように、背筋を正してそこに立っていた。
歓呼に応えることも、感情を顔に出すこともない。
ただ静かに、息子を見つめ、軽く頷いた。
その灰色の瞳の奥底には、かつて見たことがないほどの熱を帯びた「何か」が、静かに、しかし確かに燃えていた。
ふと、イズナは別の視線を感じ、首を巡らせた。
そこで、シグルドと目が合った。
その瞳に宿っていたのは、もはや先ほどまでの余裕ではない。
現実を受け入れられない動揺と、燃え上がる嫉妬、そして剥き出しの憎悪が、重く絡み合っていた。
(あり得ない……。あんな北のネズミ分際が、この僕より才能があるだと……!?)
シグルドは、指先が白くなるほど拳を握り締めていた。
プライドを無残に打ち砕かれた彼にとって、広場を満たすイズナへの歓呼は、すべてが自分に向けられた嘲笑のように響く。
(許さない……。
絶対に、許さない……!)
その日の夜、王族の離宮に設えられた宴会場。
巨大なクリスタルのシャンデリアが、広大なホールを昼間のような明るさで照らし出していた。
空気には高価な香水と美酒、そして滴るような焼き肉の芳香が混じり合って漂っている。
楽師たちが奏でる軽快な舞曲に合わせ、貴族たちは黄金の杯を掲げ、思い思いに談笑していた。
この夜会には、覚醒の儀で優れた成績を収めた子供たちも招かれている。
イズナは、会場を満たす無数の視線が、針のように背中へ突き刺さるのを感じていた。
「おめでとうございますな、アークライト家のご令息」
侯爵位の礼服に身を包んだ老貴族が、うわべだけの笑みを浮かべ、杯を差し出してくる。
「北境は実に優秀な人材を育てられる。
どうですかな、我が領地に遊びにいらしては? ちょうど孫娘も、あなたと同い年でして……」
「イズナお兄様!」
そこへ、十歳ほどの少女が手を引かれて駆け寄ってきた。
頬を赤く染め、瞳を強く輝かせている。
「すごかったわ! あのとき、本当に光が……!
よろしければ、サインをいただけないかしら?」
「こら、アークライト様のお邪魔をしてはいけませんよ」
少女の母親が慌てて娘を引き戻しながら、イズナへと頭を下げた。
その表情は申し訳なさを装ってはいるが、どこか計算高い色を隠しきれていない。
——これが、この世界の理だ。
ひとたび圧倒的な「価値」を示せば、昨日まで石ころのように扱っていた者たちは、今日には親しげな笑顔を浮かべ、平然と距離を詰めてくる。
ひとしきりの喧騒が過ぎ去ったあと、イズナは一人、テラスの隅に立っていた。
視線の先では、父カルスが数人の貴族たちと談笑している。
普段は見向きもしなかったくせに、今になって急に「旧友」を名乗り始めた連中だ。
「一人で、こんなところで何をしているんだ?」
背後から声をかけられ、イズナの身体がわずかに強張る。
振り返ると、二つのジュースグラスを手にしたシグルド・ウェントワースが立っていた。
端正な顔には、非の打ち所のない社交用の微笑が貼り付いている。
「昼間の非礼を詫びさせてほしい」
シグルドは片方のグラスを差し出した。
「僕が子供じみていた。
正直に言えば、君には感服している。
あんな北の果てで、君のような才能が育つなんて、奇跡に近い」
イズナは、そのグラスに手を伸ばさなかった。
シグルドの笑みは、微動だにしない。
「どうした? 毒でも入っていると疑っているのかい?」
軽く肩をすくめる。
「ここは王族の離宮だ。これほど多くの目がある中で、そんな愚かな真似をすると思うか?」
もっともな理屈だった。
周囲には、少なくとも二十人以上の貴族がいる。
その多くが、さりげなくこちらの様子を窺っていた。
一瞬の逡巡ののち、イズナはグラスを受け取った。
「北境と王都の友情に」
シグルドが杯を掲げる。
イズナも小さく応じ、ひと口、喉を潤した。
その瞬間、違和感が走った。
味ではない。
細い氷の針が、血流に乗って全身へ散っていくような、冷ややかな感触。
だが、あまりにも微かなため、気のせいだと自分に言い聞かせる。
「ところで……」
シグルドが一歩、距離を詰め、声を潜めた。
「なぜ、アークライト家が没落したか、知っているかい?」
イズナの指先が、無意識にグラスを強く握る。
「戦争でも、天災でもない」
シグルドの口元が、わずかに歪んだ。
「君たちが、身の程を弁えずに、
俺たちウェントワース家を敵に回したからだ」
「……何が言いたい」
「言いたいのはね」
囁きは、耳元を撫でる冷たい風のようだった。
「歴史は、繰り返されるということさ」
そう言い残し、シグルドは背を向ける。
そのまま人混みの中へと溶け込んでいった。
直後、イズナの視界が揺らいだ。
最初は、疲労のせいかと思った。
だが次の瞬間、内側から引き裂かれるような激痛が走る。
尋常ではない。
何者かが体内を荒らし回り、目覚めたばかりの原力を、魂の根から引き剥がそうとしているかのようだった。
血管を流れるのは、もはや血ではない。
煮えたぎる熱と、砕けた氷が混ざり合った、異物の奔流。
指の力が抜け、グラスが床へ滑り落ちた。
厚手の絨毯の上で、音もなく砕け散る。
――やはり、仕掛けられていた。
「イズナ!」
カルス男爵の鋭い声が、遠くから響いた。
応えようとしたが、声が出ない。
視界は急速に闇に侵食され、優雅だったはずの調べは、耳元で不快なノイズへと歪んでいく。
ふと目を凝らすと、先ほどまで自分を取り囲んでいた二十人余りの貴族たちが、笑っている者もいれば、目を逸らす者もいた。
だが、誰一人として、手を差し伸べる者はいなかった。
(……そうか)
胸の奥で、冷たい理解が形を成す。
(こいつら全員、ウェントワースの手駒だったのか)
意識が途切れる、その寸前。
イズナの瞳に焼き付いたのは、人混みをかき分け、必死にこちらへ駆け寄ってくる父の姿だった。
そして、その背後。
群衆の奥で、優雅に杯を掲げ、勝利を誇示するかのように微笑むシグルド・ウェントワースの、歪んだ冷笑。
次の瞬間――
深く、底知れぬ闇が、すべてを呑み込んだ。
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