蒼の境――イズナは這い上がる

@Kanagawa_K

1 覚醒の儀

 王都アストラの大通りには、いつも薔薇の芳香と、錆びついた鉄の匂いが混じり合って漂っている。

 華やかさと血の気配が併存するこの都は、王国そのものの縮図だった。

 十二歳のイズナ・アークライトは、王立広場の端に立っていた。

 黒髪に、派手さはないが整った顔立ちで、まだ少年らしい幼さをその身に残している。

 無意識のうちに、胸元のブローチを指でなぞる。

 氷壁の上に立つ銀狼――

 それが、アークライト家の家紋だった。

 イズナの隣に父が立ち、広場を見据える。

「緊張するな。お前はアークライト家の誇りだ」

 カルス・アークライト男爵の声音は、無駄を削ぎ落としたように低かった。

 イズナは黙って頷き、視線を同じく広場へと向けた。

 王国中から集められた貴族たちが、色鮮やかな礼服に身を包み、三々五々に集って談笑している。

 笑い声と、ひそひそとした囁きが、網のように空気を覆っていた。

 その視線の多くが、自分たちに向けられていることを、イズナは敏感に感じ取っていた。

 そこにあるのは、好奇。

 そして、憐れみ。

 さらに、隠そうともしない蔑み。


 北境――ノーザランドのアークライト。

 かつては辺境の守護者として名を馳せた名門も、今や氷原に佇む落日の古城と、百人に満たぬ領民を残すのみとなっている。

「見ろよ。北のネズミが、『覚醒の儀』にまで這い出してきたぞ」

 右側から、軽薄な声が投げつけられた。

 振り向かずとも、誰のものかは分かる。

 金髪をなびかせた少年は取り巻きを引き連れ、朝日に照らされたシルクの礼服を誇らしげに輝かせながら歩み寄ってきた。

 財務大臣の次男――シグルド・ウェントワース。

「北境じゃ、暖炉の薪すら事欠くって話じゃないか」

 作り物めいた笑みを浮かべ、シグルドは言う。

「心配するなよ。儀式で『原力(フォース)』を感じ取れなかったら……

 帰りの旅費くらいなら、なんとかしてやるさ」

 取り巻きたちは、こらえきれないといった様子で、笑いを漏らした。

 シグルドの軽薄な言葉は、凪いでいた湖面に投じられた石のように、イズナの心に屈辱の波紋を広げた。

 怒りが込み上げ、頬が熱くなる。

 気づけば、拳を握りしめる指先が手のひらに深く食い込んでいた。

 イズナは大きく息を吸い込み、胸を張った。

 たとえ相手が財務大臣の息子であろうと、王都で最も壮麗なこの広場で、アークライトの名を泥靴で踏みにじるような真似を、断じて許すわけにはいかない。

 唇がわずかに開き、言葉が迸り出ようとした、その刹那——。

 節くれ立ち、無数の傷跡と分厚いタコに刻まれた、武骨な男の掌が、イズナの肩をしっかりと押さえた。

 氷の山脈のように、イズナの胸中で逆巻く怒りの炎を瞬時に鎮める重みを持っていた。

 父、カルス・アークライト男爵だった。

 イズナが顔を上げると、父の灰色の瞳と視線がぶつかった。

 そこには予想していたような怒りも屈辱もなかった。

 ただ、北境に横たわる不凍の湖のように、深く、底知れない静寂があるだけだった。

 カルスは静かに、微かに、首を横に振った。

 ウェントワース家とアークライト家は、半世紀ものあいだ、泥沼の対立を繰り返してきた宿敵同士だった。

 一方は、狡猾な権謀術数と莫大な富を武器に、北境の資源を吸い上げて勢力を拡大してきた新興の権力者。

 もう一方は、鉄の規律と血塗られた誓いを支えに、過酷な凍土の地で古き栄光を守り続けてきた不屈の守護者。

 相容れぬ二つの歩みは、今日この場所で、再び静かな火花を散らしていた。

 しかも、目の前に立つシグルドは、「王国の未来を担う新星」と称えられる神童である。

 その卓越した才能がもたらす自負。

 同じく天才と称されるイズナへの対抗心。

 そして、代々積み重なってきた家同士の怨恨。

 それらが複雑に絡み合い、彼の敵意は執拗なまでにイズナへと向けられていた。

 父がなぜ、これほどまでに静けさを保っていられるのか――その理由は、まだイズナには分からなかった。

 だが彼は、父の背中が示すものを感じ取り、沈黙を選んだ。

 シグルドに視線を向けることすらしない。

 シグルドの顔に張り付いていた得意げな笑みが、ゆっくりと歪んでいく。

 望んでいた怒りの反論も、屈辱に沈む退却もなく、目の前の少年が返したのは、冷え切った沈黙だった。

 周到に用意していた嘲りの言葉は、空を切った拳のように、手応えを失う。

 その空虚さが、かえってシグルド自身の振る舞いを幼稚で滑稽なものにしていった。

 彼は再び言葉を発しかけて、唇をわずかに震わせたが、その瞬間――。


「……静粛に」


 広場正面の高台から、低く澄んだ声が響き渡った。

 古鐘の音を思わせるその声には、抗う以前に人を黙らせる重みがあった。

 一同の視線が、吸い寄せられるようにそちらへ向く。

 そこには、巨大な覚醒の石碑の傍らに立つ、王立大導師アルフォンスの姿があった。

 純白のローブは、朝の微風にも揺れることなく垂れ下がっている。

 魂の奥まで見通すかのようなその瞳が、ゆっくりと広場を巡り――イズナとシグルドの一行の上で、ほんの一瞬だけ留まった。

「ここは、魂と根源が交わる聖域だ。

 言葉をぶつけ合う場ではない。

 力を求める者は、心を鎮め、畏敬の念をもって臨むがよい」

 声は低い。だが、不思議なほど明瞭に、全員の耳へ届く。

「儀式を始めよう」

 シグルドは不満を隠そうともせず、忌々しげにイズナを睨みつけた。

 そして、吐き捨てるように言い残す。

「……ふん。せいぜい今のうちに余裕ぶっていればいいさ。

 結果、楽しみにしているよ」

 そう言って、取り巻きを引き連れ、背を向けて立ち去った。

 イズナはカルスを見上げ、小声で尋ねた。

「父様……なぜ、あんな奴を黙らせてはいけなかったのですか?」

 カルスは表情を変えず、ただ前方を見据えたまま答える。

「覚えておけ。沈黙こそが刃になる時もある」

 イズナは、その言葉をすぐに理解できたわけではなかった。

 それでも、小さく頷いた。


 やがて、覚醒の儀が始まった。

 列に並ぶイズナは、少年少女たちが次々と広場中央へ進み、巨大な石碑に手をかざしていく様子を、黙って見つめていた。

 石碑は高さ三メートル。

 天然の銀色を帯びたその表面には、古代のものと思しき紋様が刻まれている。

 世界の「原力」の根源と繋がると伝えられる、神秘の石だ。

 少年少女たちが持つ原力の共鳴レベルを、測定するための石碑である。

「ロバート・グリーン、共鳴レベル……5」

「アンナ・ホワイト、4」

「トーマス・ブラック、7」

 大導師の淡々とした声が、測定結果を告げていく。

 平民や下級貴族の多くは、概ねレベル7以下に留まっていた。

 この年齢でレベル8なら「優秀」。9に届けば、「百人に一人の逸材」とされる――それが、この世界の常識だった。

 そして、ついにその名が呼ばれる。

「シグルド・ウェントワース——」

 金髪の少年は、傲然と胸を張り、高台へと歩み出た。

 石碑の前で立ち止まると、冷たい石の表面に掌を密着させ、静かに目を閉じる。

 次の瞬間、石碑が拍動するように光を放った。

 最初は、かすかな銀白色。

 だがその輝きは瞬く間に強さを増し、刻まれた紋様が命を得たかのように、液状の光となって流れ出す。

 光はさらに膨れ上がり、昇り始めたばかりの朝日さえも、呑み込むかのようだった。

「10……」

「11……」

「12……」

 観客の中から、誰かが息を詰めて数え上げる。

 光が最高潮に達したのは、第13段階。

「シグルド・ウェントワース。原力共鳴レベル——13!」

 大導師の声には、稀に見る賞賛が混じっていた。

「直ちに、見習(アプレンティス)の資格を授与する!」

 広場は、割れんばかりの拍手に包まれる。

 レベル13。

 ここ十年の儀式の中でも、確実に三指に入る快挙だった。

 見習の門檻とされるレベル10を、三段階も上回る才能――

 それが、シグルド・ウェントワースの示した力だ。

 観覧台では、財務大臣が立ち上がり、控えめながらも誇らしげに、周囲へと会釈を返している。

 シグルドは高台を降りる際、わざとイズナの前を通りかかった。

 興奮で紅潮した頬と、その瞳には、隠そうともしない優越感が宿っている。

「見たか、北境の坊ちゃん?」

 声を潜め、囁くように言った。

「これが本当の“才能”だ。

 先祖の遺産にしがみついてるだけの没落貴族は、もう時代遅れなんだよ」

 イズナは答えなかった。

 ただ静かに、シグルドを見つめ返す。

 あまりにも凪いだその眼差しが、シグルドの自尊心を逆撫でした。

 

「次——イズナ・アークライト」

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