見捨てない奥様

福嶋莉佳

第1話

リリアナは、高齢夫婦の一人娘であった。

そのため両親は、後継ぎは望めないと考えたらしい。


「――わたくし、爵位を継ぐため、幼い頃から領地経営を学んでいましたの。

 よく『リリアナはできた子だね』と褒めていただいて……ええ、とても幸せでしたわ」


だが、ある日。

年の離れた弟が生まれた。


「それはそれは可愛らしい弟でしたの。後継ぎに相応しくて、家族で喜び合いましたわ」


「……」


「ですから、家の繁栄のため――この結婚をお受けしましたの!」


「……そうか」


――結婚初夜。初対面の夫との会話である。


「君の意向はわかった」


夫は、うんざりした様子で息を吐いた。


「なら、形だけの夫人でいいだろ。

 屋敷の実務は、長く支えてくれた彼女――愛人に任せている」


リリアナは、穏やかに頷いた。


「ですが、わたくしは夫人ですわ。

 愛人に、屋敷を采配する権利はありません」


「……は?」


「そもそも、愛人にそのような権利はございませんわ」


夫の顔が引きつる。


「彼女は有能だ!」


「関係ありませんわ。家同士の契約ですもの」


伊達に後継ぎの教育を受けていない。よく頭の回る娘だった。

夫は視線を逸らし、吐き捨てるように言った。


「……面倒だ。好きにしろ」


そうして部屋を出ていく。

愛人がぴたりと寄り添いながら、リリアナを睨みつけた。


「しつけのなっていない愛人。

 愛人任せにする、駄目な夫……」


リリアナは、にこやかに胸に手を当てる。


「そんな家を支えるのも、できた妻の務めですわ。

 ――がんばりますわ!」


だが彼女は、壊滅的に空気が読めなかった。



「あら?」


紅茶の香りは立っていたが、明らかにぬるかった。


少し離れた場所で、愛人が鼻を鳴らす。

侍女を使っての嫌がらせ――普通の夫人なら泣き寝入りする場面だ。


「ぬるいですわ。やり直し」


侍女は一瞬、言葉に詰まる。


「申し訳ありません。ただ今、厨房が立て込んでおりまして……」


「やり直しですわ」


それ以上、何も言わなかった。

沈黙に耐えきれず、侍女は頭を下げる。


「……かしこまりました」


カップが下げられる。

戻ってきた紅茶も、またぬるかった。


リリアナは微笑みを崩さない。


「やり直しですわ」


侍女の喉が鳴る。


「……かしこまりました」


リリアナは、柔らかな声で言った。


「紅茶を淹れるのが下手な侍女も、見捨てませんわ。

 完璧にできるまで、何度でもやり直せばよろしいのですもの」


嫌味ではない。本気の言葉である。

その場の空気が、静かに凍った。


「がんばりましょうね(^^)」


しかし、リリアナには、

紅茶の温かさしか、わからなかった。



リリアナは毎朝、必ず侍女に尋ねた。

スケジュール管理も夫人の務めである。


「ところで、本日の予定は?」


「来客の予定はございません」


「そう。では、そのように記録しておいてくださいな」


にこやかに言った――その昼前。

扉が叩かれた。


「侯爵夫人様がお見えです」


使用人たちがざわめいた。


「あら。予定にはありませんでしたわね」


「急なお話でして……」


「ええ、ええ。誰にでもミスはありますわ」


リリアナは慌てることなく指示を出す。


「応接室の準備を。

 紅茶の温度は指示通りに。

 記録係は、変更の時刻を書き足しておいてくださいな」


使用人が戸惑いながら応じる。


「……かしこまりました」


訪れた侯爵夫人は、扇子の陰から値踏みするようにリリアナを見た。


「まあ。若い奥様。お噂は伺っておりますわ」


「ようこそお越しくださいました」


「ご主人はお忙しいのでしょうか。

 ……奥様が表に立たれるのは、珍しいですわね」


「ええ。屋敷のことはわたくしが承りますわ」


侯爵夫人の眉がわずかに動く。


「新妻が、ですか」


「夫人ですもの」


リリアナは微笑み、挨拶と用件を受け、見送った。

――帰り際、侯爵夫人は小さく息を吐いた。


「……なるほど。

 噂は、当てにならないものですわね」


「ありがとうございます」


侯爵夫人が帰ったあと、

リリアナは、侍女へ微笑んだ。


「出来の悪い侍女の失敗を守るのも、夫人の務めですわ」


「あ、ありがとうございます……奥様……」


「ええ。ですから――」


穏やかに告げる。


「全体責任で、改善案を出して下さいな。

 次からは、変更があった時点で再報告ですわ」


怒られた方が、まだ楽だった。

そう思った者が、一人や二人ではなかった。


そこに居合わせていた愛人が、ようやく口を開く。


「……奥様は、お優しいのですね。使用人思いでいらっしゃる」


「あら、ありがとうございます」


にこやかに返し――次の瞬間、同じ調子で続ける。


「あなたの教育が行き届いていなかっただけですわ」


愛人の笑みが引きつった。


「……勘違いなさらないで。

 わたくしは、奥様に敵対するつもりなどございませんわ」


「存じておりますわ」


リリアナは頷いた。


「でも、わたくしが鍛えます。

 夫が至らないのは、互いが未熟だからですわ」


「……」


「わたくしがつきっきりで、完璧な愛人に仕立てて差し上げますわ」


「……ご熱心ですのね」


「ええ。がんばりましょうね(^^)」


嫌がらせではない、善意である。



愛人は夫に泣きついた。


「もう嫌……! 奥様が、ずっと……ずっと……!」


夫は額を押さえた。


「ここで出たら、面倒が増える。妻の顔を立てろ」


「でも――」


「黙れ。……耐えろ」


教育は1日通して行われた。


午前、読み書き。午後、計算。夕方、収支、

鍵束の扱い、在庫の数え方、使用人の名簿、等々――


「では問題です。領収のない出費は――?」


「こ、こう……です……」


「とてもよくできましたわ」


意外にも、褒めて伸ばす教育方針。


「では、この《日々収支帳》を付けていらしたのは?」


「……わ、わたしです……」


「そう。ご主人は、月末の締めをご確認なさって?」


「……目を通しては……いません……」


「まぁ……恋人同士。ズボラなのですね」


悪意はない。事実を語っただけである。


そうして、愛人の目から、次第に光が消えていった。


――ある朝。

愛人の部屋は空だった。


使用人が震える声で告げる。


「……愛人様、今朝から姿が見えません」


リリアナは瞬きし、首を傾げた。


「まあ。まだ途中でしたのに……」


不完全燃焼の視線が、夫へ向く。


遅れて夫が姿を現す。


「……何か問題でも?」


「いいえ、何も」


リリアナは振り返り、微笑んだ。


「屋敷の改善をしているだけですわ。

 大丈夫。わたくしは、見捨てませんから」


夫は、嫌な予感に喉を鳴らす。


「……お、俺は関係ないだろ」


「関係ございますわ。家の繁栄のためですもの」


リリアナは指を折る。


「今季の収支。年貢の収納率。未納の原因――

 ご説明くださいな」


「…………」


夫の顔から血の気が引いた。


「よく、今まで運営出来ていましたわね。

 でも、もう大丈夫ですわ」


彼に逃げ道は、ない。


――彼女が来てから、屋敷は静かになった。


ただ、当の本人は楽しそうだ。


「がんばりましょうね(^^)」

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見捨てない奥様 福嶋莉佳 @shiu-aruma

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