繊月の先に


「ケンちゃん。お母さん、ちょっとお出かけするから、お留守番よろしくね。ご飯とお金はここにしまってあるから」


 その言葉を聞いてから、五日が経過した。いつもより少し長めの外出だ。

 母親が家を出たのが日曜日だったのは、少年にとって幸いだった。昼は給食で賄えるから。

 昨夜から降り続く雨は、朝にはぱらぱらとした小雨になっていた。大して濡れはしない量だが、この寒さの中、体を冷やすのは好ましくない。少年は、体に比べて小さめの、すっかり色褪せた傘を開いて学校へ向かった。


 昼休みは図書室で過ごすのが、少年の習慣だ。

 特に今は雨が上がったばかりで運動場が使えないから、教室は普段よりも騒がしい。静かに本を読む時間が、唯一の安らぎだった。


 帰りの挨拶が終わると同時に、教室は児童の楽しそうな声で賑わった。

 少年は構わずランドセルを背負う。ざわめきの中、担任の教師がこっそりと近づいて声をかけた。

鳩羽はとばくん。お母さんは……まだ?」

「はい」

「……そうか。気をつけて、帰るんだぞ」

 少年は担任に軽く頭を下げ、喧騒をすり抜けて教室を出た。


 帰り道。

 重く分厚い雲の隙間から、光の柱が細く、淡く差し込んでいる。しんとした空気の中、少年は前だけを見て歩いていた。

 ドアの鍵を開け、無言で中に入る。声を発しても無意味だと、少年は知っていた。

 玄関には、つっかけのサンダルが端にポツンと佇んでいる。動いた形跡はない。

 靴を脱いで、居間に向かう。朝、家を出る前と同じ光景。

 何も変わっていないことを確認し、少年はランドセルを下ろした。


 宿題が終わる頃、外は薄暗くなっていた。少年は小腹が空いていることに気づく。

 ――給食、もう少し食べておけば良かったな。

 夕食にはまだ早い時間だが、少年は台所に立った。空腹で動きたくなくなる前に、済ませておいた方が良い。

 戸棚から袋入りのラーメンを一袋と、冷凍室から冷凍のカット野菜を取り出した。

 鍋に水を入れ、コンロに火をつける。静かな台所に、点火の音が短く響いた。少年は慣れた手つきで麺と野菜を鍋に放り込む。仕上げに生卵を割り落とした。

 湯気とともに、塩気を含んだラーメンの匂いが立ち上る。途端に、お腹がグウと鳴きだした。やっぱり、今作っておいて正解だった。

 鍋をテーブルまで運び、古雑誌の上に置く。軽く手を合わせてから、麺を啜った。美味しい。

 明日は何を食べようか。食材がそろそろ尽きてきたから、買い物に行かなければ。母親が置いていったお金には、まだ手を付けていなかった。

 以前、欲に負けてお菓子やアイスをいくつか買ったら食材の分が足りなくなって、給食だけで一日やり過ごしたことがあった。それ以来、無駄遣いしないよう心掛けている。

 早めの夕飯を食べ終えて、ひと息ついたところだった。

 呼び鈴のチャイムが、耳にキンと響いた。

 こんな時間に、誰だろう。

 母親でないことは確かだった。


「こんばんは。急にごめんね。鳩羽賢司はとばけんじくん……で、合ってるかな?」


 玄関を開けると、外には見知らぬ大人が三人。首から名札を下げている。何かの職員らしかった。

 親のことを聞かれ、少年が首を横に振る。大人たちは一瞬、目配せをしてから少年に向き直る。

 職員のひとりが、丁寧な口調で少年に何かを説明し始めた。

 細かいことはよくわからなかったが、この家を出て別の場所で暮らすことと、自分に他の選択肢がないことを、少年は理解した。

 少ない荷物をリュックとランドセルに詰めて、少年は職員の車に乗り込んだ。きっともう、母親に会うことはないだろう。


 車を降りると、集合住宅のような建物が目の前に見えた。辺りはもう真っ暗で、建物から漏れた明かりが点々と浮かんでいる。

 穏やかそうな中年の女性が出迎えに現れた。職員たちは一言二言挨拶した後、車に乗ってどこかへ去って行く。残された少年は、建物の中に入るよう促された。


「今日からここで、お友達と一緒に暮らしましょうね。大丈夫、なにも心配いらないわ」

 少年は、小さな空き部屋に通された。勉強机とベッドが置かれているだけの、簡素な部屋。足を一歩踏み入れると、冷えた空気に迎えられた。

「そうそう。鳩羽くんは、春から中学生だったわね。セレスの中等部に入学することになってるから、安心してね」


 ――セレス。

 テレビのニュースで聞いたことがある。能力者を保護する団体とかなんとか。けど、こういう活動もしてるのは、知らなかった。


「色々あって疲れたでしょう。詳しい説明は、また明日ね。今夜はゆっくり休んでちょうだい」

 女性は優しく微笑み、部屋を後にした。

 目まぐるしい出来事に、少年の頭はまだ整理が追いついていなかった。

 ともあれ、これからは衣食住の心配がないことだけは理解できた。少年にはそれで十分だった。

 荷物を床に下ろし、窓辺にそっと近づく。

 街灯がぽつりぽつりと、道路を微かに照らしている。知らない景色。

 ふと、空を見上げた。か細い月が、辛うじて光を放っている。

 あの向きは確か、下弦だった気がする。

 前に読んだ図鑑の記憶を手繰り寄せた。明日は新月だろう。


 少年は、静かにカーテンを閉めた。

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イジトク 番外編 べこたろ @bekotaro

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