第2話 言葉の代わりに
翌日
赤城薫は無意識のうちに、またあの路地へ足を向けていた。
家へ帰る道とは少し違う。
わざわざ遠回りをしている自覚はあったが、理由を考えるのはやめた。
考えれば考えるほど、自分でも説明できない感情が胸に溜まり、
息苦しくなる気がしたからだ。
夕方の光が、路地の壁を橙色に染めている。
その中に、昨日と同じ制服姿があった。
少女は壁際に立ち、スマートフォンを操作している。
立ち姿も、俯き加減の視線も、昨日のままだった。
薫は一歩、距離を詰める。
名札の文字を、昨日よりも少し近づいて確認した。
白山(しろやま)
名前を認識しただけなのに、胸の奥がかすかに揺れた。
香は、薫の存在に気づくと一瞬目を見開き、
それからすぐに鞄からメモ帳を取り出す。
その動作が、昨日よりも迷いなく見えた。
《昨日の人ですよね》
薫は短く頷く。
「……ああ」
声が届かないと分かっていても、つい言葉が漏れる。
そのことに、薫自身が少し驚いた。
独り言でもない、誰かに向けた声を、久しぶりに出した気がした。
香は、続けてメモ帳に文字を書く。
《助けてくれて、本当にありがとうございました》
線が少し震えていて、丁寧に書こうとした痕跡が残っている。
薫は視線を逸らし、頭を掻いた。
「大したことじゃない」
そう言うと、香は聞こえなくても、
その仕草から意味を察したように、
少し困った顔で笑った。
その笑顔を、薫は昨日よりも長く見つめていた。
滲んだ視界の中で、柔らかい印象だけが、はっきりと胸に残る。
二人は、近くのベンチに並んで座った。
会話は、メモ帳だけが頼りだった。
《名前は?》
「赤城……薫」
口の動きでわかるのだろう。
香は頷き、すぐに書き返す。
《私は白山香です、かおるとかおりですね》
それから、指で自分の耳を示し、静かに首を横に振る。
改めて説明する必要もなかった。
薫は、その仕草を見て、胸の奥が静かに落ち着くのを感じた。
聞こえないという事実を、香は隠そうとしない。
その姿勢が、不思議と心地よかった。
やり取りは、どうしてもゆっくりになる。
文字を書く時間、読む時間、そのすべてを待たなければならない。
だが、その沈黙は苦にならなかった。
むしろ、急かされない時間が、薫には新鮮だった。
いつもは誤解され、避けられ、距離を置かれる。
その繰り返しの中に、こんな穏やかな時間は存在しなかった。
帰り際、香は立ち上がり、ぎこちない手つきで両手を動かした。
手話だと、薫はなんとなく理解する。
分からなくても、不思議と焦りはなかった。
香は、最後にメモ帳を差し出す。
《また、会えますか》
その文字を見た瞬間、薫の胸がわずかに、ポン!と跳ねた。
返事は簡単なはずなのに、少しだけ時間がかかった。
「ああ……」
香は、その一言を聞くことはできない。
それでも、薫の頷きを見て、心から安心したように微笑んだ。
言葉がなくても、伝わるものがある。
そのことを、薫は初めて実感していた。
次の更新予定
2026年1月13日 00:00
かおるとかおり 如月 睦月 @kisaragi0125
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