魔王の末裔(1)


 戦火を恐れた人々が、慌ただしく荷物をまとめ、家族とともにエマールを離れようとしていたが、軍や警察による誘導がない避難は、スムーズには進まなかった。


 街路は内陸や連盟側へと向かう疎開者の群れで一杯になり、道は軋む馬車の列や、足を引きずる徒歩の群衆で埋め尽くされていた。重い行李を背負った老人がよろめき、歩き疲れて泣きじゃくる子供の声が、断続的に響く。


 不安げなささやき声が、風に混じって街全体を覆っていた。


 空気は埃と汗の匂いで重く、誰もが肩を寄せ合い、背後を振り返るのを恐れるように前だけを見て進んでいる。


 そんな人々の流れに逆らうように、一人の青年がのんびりと街へと向かっていた。


 青年の名はカリウス。首都の大学で歴史を学ぶ学生で、緋色の髪の間に二対の小さな角が生え、青白い肌が特徴的なナイトメア——いわゆる魔族の血を引く者だった。


 ナイトメアは、紀元前のヨーロッパを席巻した〝魔王〟に付き従った民の末裔だ。


 彼らは魔王の伝説を理由にヨーロッパ各地で迫害され、食肉業や皮革ひかく業に従事していたが、近年に入っては重工業や鉱業の重労働に就き、「煤人すすじん」と蔑まれることが多かった。


 自身の国家を持たない彼らは自身のルーツを示す伝統的な文様の入ったキルトを腰に巻き、煤にまみれた作業着を纏う者も少なくない。が、カリウスは違った。


 小綺麗な白いシャツに、膝丈のズボンを合わせ、首からエーテル乾板式のポラロイドカメラを下げていた。カメラを収める革製のケースには細かな傷跡があり、これまでの旅の記憶を物語るようだった。


 背中には小さなバックパックを背負った彼の歩みは軽やかで、まるで散策を楽しむ観光客のようだ。疎開者の群れを横目に、口笛さえ吹きそうだった。


 街の外れに立ったカリウスはあたり見回すとカメラのファインダーを覗いた。シャッターを切る音が、カチッと軽やかに響く。


 彼がガラス製の乾板に収めたのは、街の象徴である古い時計塔のシルエット、丘へと続く穏やかな川の流れ、そして港に停泊する小さな船の姿だ。


 ガラス乾板に封入されたエーテルの結晶が水面に反射し、幻想的な光を放つ。

 エマールの街の風景を、彼は次々と撮影していった。


 戦争の影など、まるで忘れたかのように呑気にシャッターを切り、時折、出来上がった乾板を光にかざして満足げに微笑む。


 遠くで疎開者の泣き声が聞こえても、カメラを構える彼の表情は変わらない。

 ふと、思い出したようにカリウスは人々が群れをなす街路に向かってシャッターを切った。人々の悲しみすら、歴史の記録の一つでしかないというように。


 そんな呑気な様子を、遠くから見つめる影があった。

 エマール民警隊のガルムとメリナだ。


 ガルムは周囲を警戒して耳を立て、メリナはすでに背負った銃を降ろし、ボルトに手をかけて腰だめに構えていた。


「避難民の流れに逆らって街に入ってきたってのはヤツか」


「カメラ持ってるし、帝国のスパイじゃない?」


「……ナイトメアをスパイにするとは考えにくいが、一応問い詰めるぞ」


 ガルムが低く唸るようにいうと、メリナはボルトを操作して薬室に弾を込める。

 二人は足音を殺し、静かにカリウスに近づいていった。


 カリウスは忍び寄る二人にまったく気づかず、カメラを構え続けている。


「そこで何をしている」


 丁寧だがドスの利いたガルムの声に、カリウスはゆっくりと振り向いて顔を上げた。が、とくに驚いた様子もない。それどころか穏やかな微笑みを殺気立った二人に向けていた。


「戦争の前に、この街の風景を写真に収めたかったんです。見てみますか?」


 そういってカリウスは、出来上がったばかりのエーテル乾板をメリナに向けた。

 ガラス板の中には、平和な街の姿が細やかに捉えられている。


 ガルムが喉の奥で唸る。信じられないと言った様子だ。特にメリナは、街の戦略的な場所——時計塔や港が写っているのを見て、よりスパイの疑いを強めた。


 形の良い彼女の目がいっそう険しくなり、銃の引き金に指が伸びかける。


「こんな時に街を撮影? 帝国の偵察じゃないの? ナイトメアのあなたが――」


「待てメリナ。まずは確認だ。君の名前は? 身分証はあるか?」


 憤るメリナの声を遮って、ガルムが規定通りの質問をする。

 問われたカリウスは、メリナとは対照的にごく穏やかに返事を返した。


「カリウスです。首都の大学で歴史を学んでいます。この街の美しさが、戦争で失われる前に記録したくて。身分証は……すみません、持ってきてません」


「このご時世に結構なことをお考えですこと」


 メリナは嫌悪感を隠さずに毒づいた。

 だが、この街の人のほとんどが彼女に賛同するだろう。戦いが始まろうというのに呑気に街の写真を撮るなど、あまりにも浮き世離れしすぎている。


「ガルム、やっぱり詰め所につれていくべきよ」


「ふーむ……そうするより仕方ないな。君、ついて来てくれ」


「あっ、はい」


 カリウスは、民警隊の臨時詰め所となったカフェ「サンフラワー」へと連行されることになった。道中、ガルムは彼を見張るように厳しい視線を向け、メリナは苛立たしげに石畳でブーツの踵を鳴らして歩いていた。


「僕、やることがあるんですけど、すぐ終わりますか……?」


「…………」


 呑気なカリウスの言葉に民警隊の二人は沈黙を返す。


 昼前になって陽の光が強くなってきた。春とは言え、着込んでいると少し熱い。人ごみならなおさらだ。疎開者でごった返した街路はさらに混雑し、両手に荷物を抱えた人々が、三人の横をすり抜けていく。


 カフェの前にくると、店の中から突然、少女の声が響いた。


「お兄ちゃん!」


「……!! アデーレ!!」


 扉の間からカリウスに駆け寄ってきたのは、メガネをかけた金髪のショートボブに高等学校の学生服をきた、一六歳くらいの少女だ。


 彼女はアデーレ・スタインドルフ。第一次大戦の英雄、スタインドルフ将軍の娘で、街でも知られた存在だった。


 彼女の姿を見て、メリナは目を丸くする。


「アデーレさん? まだ疎開してなかったの?」


「うん、義理の兄が今日迎えに来るって約束だったの。だから待ってたんだよ」


 アデーレは息を弾ませながら答えた。その「兄」というのが、カリウスだった。養子縁組で、ナイトメアの彼がアデーレの家族の一員となっていた。


メリナは顔を赤らめ、慌ててカリウスに頭を下げた。


「ご、ごめんなさい! 私の勘違いでした……。本当にスパイかと思って」


 カリウスはくすりと笑って顔を傾けると、緋色の髪が風に揺れ、耳の上にある二対の短い白色の角がわずかに光った。


「いいよ。ナイトメアの俺は、悪者扱いされるのに慣れてるさ。歴史を学んでると、こんな偏見の繰り返しだってわかるからね」


(はぁ? 何よこいつ! 気取っちゃって……イヤなヤツ!)


 穏やかな言葉のうちに皮肉を感じたメリナはさらにむくれつつも、謝罪を繰り返した。ガルムはそんな二人のやりとりに苦笑いしながら、拘束を解いた。


「エマールを離れるなら早いほうがいい。街の自動車はすでに出払ってるし、軍からの迎えをまっても無駄だろうな」


「……そういえば、正規軍の姿がありませんね。どうしたんでしょう」


 カリウスの言葉にガルムは苦虫を噛み潰したかのように口にしわを寄せる。


「エマールは捨て石なのさ。ベリエの手持ちの戦力じゃろくすっぽ要塞化されてもいないこの街を守りきれない。だから戦力を温存するために避難民の誘導も放って首都から動かずにいるんだ」


「それって、見捨てたってことじゃないですか」


「しっ、そういうことを言うもんじゃない。ともかくお前たちは街を出ろ」


「でも正規軍がこないなら、あなた達は……」


 カリウスの言葉にアデーレは不安げにカリウスの袖を掴み、メリナは苛立たしげに銃を肩にかけ直した。


 街路はまだ疎開者の群れで溢れている、誰もが急ぎ足で内陸を目指すが、軍の誘導がないため、道は渋滞し、パニックの気配が漂い始めていた。


「心配するな。住民の避難が終わったらオレたちもすぐに――!!」


 突然、空から笛を吹くような音がした。ひときわ音が高くなったと思ったら、笛の音はそのままカリウスの上を通り過ぎて避難民の後ろ側で破裂音がした。


 ごく短い「ぱん」という、湿気った花火のような派手さも面白みもない音だった。

 だがその音は、彼の視界の遠くにいた避難民の行列をまるで麦を刈るように押し倒した。


 無数のボロきれが宙を飛ぶ。しかし、彼がボロと思ったのは人だったもの、その一部分だった。

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