幻想二次大戦

ねくろん@カクヨム

聖暦1936年 4月「開戦」

序章

 聖暦1936年、春。


 ベリエ王国の東部国境に近い港町、エマールは、穏やかな朝を迎えていた。空は澄みわたり、春の陽光が河川の水面を銀色に輝かせ、風は優しく街路を撫でていく。


 普段なら市場の喧騒が朝の空気を満たしているはずだった。


 漁師たちが獲れたての魚を並べ、買い物かごを抱えた主婦たちが値切り交渉に花を咲かせ、親に連れられた子供たちの笑い声が響きる——それがおなじみの朝の光景だった。


 だが、今朝は違う。

 河川沿いの市場は、まるで息を殺したように静まり返っていた。


 商人たちがエーテル結晶を加工した色鮮やかな染料で染め抜いた小間物を並べる屋台は畳まれ、中身のない木箱が打ち捨てられていた。食堂の椅子はテーブルの上に積み重ねられたまま。焼き立ての魚の匂いも、エーテルの甘い香りはどこにもない。朝市で声を上げる商人の姿はなく、市場そのものがすっかり空になっていた。


 残されたのは、風に舞う埃と、時折転がる空の籠だけ。


 市場のある港の通りを離れ、街の中央にある時計台の方に目を向けると、街路にはおびただしい長さの行列ができていた。


 街路を歩く人々の足取りは重く、誰もがパンパンに膨れ上がった旅行鞄や荷物を抱え、家族の手を引いて内陸方面へと向かっている。


 潮風の香りを背に進む馬車の車輪が石畳を軋ませる。自動車を持つ住人はすでに街を出て、残ったのは馬や徒歩で街を出ようとする住民たちだった。


 少女の一人が、母親の袖を引っ張る。


「お母さん、戦争ってなに? トマスのおじさんがね、帝国の兵隊さんが、街を壊しちゃうんだっていってるよ?」


 母親は無理に笑みを浮かべ、頭を撫でた。


「大丈夫よ。ベリエの兵隊さんは強いもの。きっと私達の家を守ってくれるわ」


 だが、その声は震えていた。


 子供たちはもう笑わない。

 母親のスカートを握りしめ、不安げに周囲を見回すだけだ。


 誰も口を開かない。開いたとしても、小声で交わされるのは「安全なところはないのか」「連盟は助けてくれるのか」「帝国はいつ街に来るのか」といった、押し殺した不安の言葉ばかりだった。


 遠くの空に、黒い点がいくつか浮かんでいた。

 鳥か、それとも——


 エマールの街はいつものように朝を迎えていた。

 だがそれは、この街で迎える最後の朝だった。


 誰もが知っていた。これから、何かが起きる。

 静けさの向こうに、抗いようのない嵐が迫っていることを。



 街角のカフェ「サンフラワー」の扉は半開きで、ラジオのノイズだけがドアの隙間から漏れ聞こえていた。店主はもういない。しかし、カウンターに置かれたコーヒーカップからは、白く温かな湯気が立ち上っていた。埃っぽい空気に混じって、かすかな苦味ばしった香りが漂う。


 狼獣人ライカンのガルムが、店主なきカフェの棚を荒らしていた。灰色の毛並みに覆われた鋭い耳が何かを探すようにピクピクと動き、長い尾が苛立たしげに揺れる。


 ガルムは灰色の分厚い綿入れを着込み、革製のハーネスを肩から腰にかけて巻いていた。手には軍用のグローブをはめ、まくった袖とグローブの間からは第一次ヨーロッパ大戦の古傷が、白い線として覗いていた。勝手知ったる様子で湯を沸かし、白錫釉はくしゃくゆうのポットからコーヒーを注ぐ。


「ほらよ」


「ん、ありがとう。」


 出来上がったカップを受け取るのは、ボルトアクション式の旧式の短小銃を背負った民警隊のメリナだ。彼女の制服はベリエ王国の旧式のグリーンのジャケットで、肩章に民警隊の徽章が通されている。腰のベルトには予備の弾をいれた弾薬盒が2つ下がり、その間に柄付の手榴弾と短いシャベルが突っ込まれていた。


 ジャケットの裾は砂で汚れ、ブーツは泥だらけだ。栗色の長い髪を後ろで束ね、顔には疲労の影が濃いが、目は鋭く周囲を警戒していた。


 木製のカウンターに肘を突いたメリナは、コーヒーの湯気を眺めながら、ラジオの音に静かに耳を傾けていた。すると、ノイズ混じりの放送がカフェの中に響いた。


「——国境付近で軍事演習を続けるゲルマニア帝国軍ですが、前進を始めたとの報告が入りました。帝国に対し中立を宣言したベリエ政府は、不測の事態に備えるよう警戒を呼びかけています。国民の皆さんは、冷静に行動を……」


 放送の声は淡々としていたが、カフェ内の雰囲気は異様だった。誰もが言葉少なに顔を見合わせ、ため息をつく。ガルムは空になったボトルをカウンターに並べながら呟いた。


「何が演習だ……。第一次の時と同じだ。帝国の奴ら、間違いなく来るぞ」


 隣に座る人間の女性、メリナは、黙ってコーヒーをかき回していた。


 メリナは民警隊の隊員だが、普段は花屋の仕事をしている看板娘。ガルムは大工だ。しかし有事の際は銃を取り、街の平和を守る立場にあった。


 そうした立場にあるのは彼女だけではない。カフェの隅では、民警隊の父親についてきた二人の子供が、不安げな表情で父の顔を見上げていた。


 年端も行かない少年少女は、つい先日最後の授業を終えたばかりだ。ベリエ王国では義務教育で戦闘の基礎を学んでいる。そのはずだが、本当の戦いが迫る中、彼らの目は怯えていた。


 彼らは学校指定の紺色の制服を着ており、袖には軍事教練を終了したことを示すワッペンが縫い付けられている。少年の一人は小さなバックパックを背負い、中には教科書と一緒に簡易のサバイバルキットが入っているようだ。


 少女が、袖に赤いリボンを巻いた父の軍服の袖を引っ張る。粗末なコートを羽織った少女はしっかりと袖を掴むが、握りしめた少女の小さな拳は震えていた。


「お父さん、本当にいっちゃうの」


「心配するな。お母さんの言うことを聞くんだぞ。お前がお兄ちゃんだ。妹とお母さんのことをちゃんと見てやってくれ」


「うん!」


「……よし、いい返事だ!」


 そのとき、ドカドカと音を立ててスコップを持った男たちが入ってきた。


 湿った土の匂いをさせる男たちはカフェの中を見渡すと、カフェの奥にあった年季の入った白のアップライトピアノを指さした。


「それ、使っていいか?」


「オレのじゃないが、かまわんだろう。持っていけよ」


「よし、誰か手を貸してくれ!」


 彼らは街に残ることを選んだ数人の住民だった。手近なものを使って街の各所に急ごしらえのバリケードを築き始めていたのだ。


 カフェから運び出されたピアノはタンスやベッドと言った仲間たちと一緒に街路の中央に陣取った。街路の石畳はそこかしこで剥がされ、土嚢と一緒に積み上げられて塀に姿を変えていた。


 住人が避難した家々の扉は開け放たれ、中には弾薬箱や手榴弾の備蓄が運び込まれていた。国民皆兵のベリエでは、各家庭が武器弾薬の隠し場所を持っている。


 ある家の二階では、床に土嚢を積み上げ、窓枠に砂袋を並べて即席の狙撃陣地を作っていた。ガラス窓は立て板で塞がれ、わずかな隙間から銃口を覗かせるための穴が開けられている。


 また別の家屋では、地下室にエーテル燃料の缶が積まれ、瓶に詰めて爆発物として使えるよう準備されていた。空き家となった建物からは、かすかな金属音が響く——誰かが最後の備えを整えている音だ。


 街全体が息を潜め、望まぬ客人を待ち構えていた。

 帝国の影がすぐそこまで迫っていることを、誰もが肌で感じていた。






※作者コメント※

かれこれ5年ほどカクヨムで戦場のヴァルキュリアライクなお話を探していたのですが、一向に現れる気配がなかったので自分で始めることにしました。


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