第2話



 ––––––冷たい、と感じた。


 それは物理的な温度の話ではない。––––––恐怖。生物としての根源的な生存本能が、脊髄に向かって警鐘を鳴らし続けているのだ。



––––––パリィイイイイン!!


 砕け散ったアクリルガラスの破片が、ダイヤモンドダストのように車内で煌めいている。本来なら美しいとすら思えるその光景の向こう側から、ヌラリ、と。乾ききっていないアスファルトのような粘り気を帯びた黒色の触手が、蹂躙するように車内の手すりをひしゃげさせながら侵入してきた。


「あ、あ、ああ………っ」

「「異敵」だ、に、逃げろおお!!!」


 周囲の乗客たちはパニック状態に陥っていた。我先にと隣の車両へ逃げ出そうとするサラリーマン、腰が抜けて泣き叫ぶ女子高生。阿鼻叫喚の地獄絵図が、わずか数秒で完成する。


 私の足も、恐怖で思うようには動かない。

逃げなければ。死ぬ。食べられる。脳はそう命令しているのに、身体が言うことを聞かない。


––––––––––––でも、動かないなんていってられない。この状況で、傍観なんてしてられない。



入学式には遅刻したけれど。少し、格好の悪い初日になってしまったけれど。


「–––––––––わたしだって、勇者になる、アマリリスの生徒なんだ––––––!!!」



 その時、私の視界の端に、逃げ遅れた乗客の姿が映った。––––––私のすぐ隣で、深くフードを被ったまま眠りこけている少女だ。


 周囲の騒乱にも気づかず、彼女は安らかな寝息を立てている。怪物の歪な複眼が、ギョロリと動いた。  その無機質な殺意の矛先が、無防備な彼女へと向けられる。


(っ、だめ!!)


 思考よりも先に、身体が動いていた。  恐怖で強張る膝を無理やり叱咤し、私は眠る少女の前へと躍り出る。手にした携帯端末のスクリーンを親指で弾き、起動コードを叫んだ。


「《術式展開システム・オープン》––––––障壁シールド!!」


 私の声に応呼し、端末から淡い青色の光子が溢れ出す。  それは瞬時に空中で幾何学模様を描き、私と少女を守るように、薄い光の盾を形成した。


––––––現代魔法。

大気中の魔素マナを数式で定義し、物理現象へと置換する異界対抗技術。アマリリスに入学するために、血の滲むような思いで習得した、私の拙い初歩魔法。


 ––––––防いで!


 祈るような思いで展開した障壁に、怪物の触手が激突する。

薄く発光する幾何学模様の盾。ソレはドス黒い触手の侵攻を抑え、なんとか二人の少女の身柄を守る––––––––––––


 パリンッ。


 しかし、現実はあまりにも無情だった。ガラス細工が砕けるような軽い音と共に、私の全魔力を込めた障壁は、いとも容易く粉砕されたのだ。


「あぐっ………!?」


 魔法破壊のバックファイアが身体を駆け抜け、私は後方へと弾き飛ばされた。  背中を座席に強打し、肺の中の空気が強制的に吐き出される。


 痛い、苦しい、熱い。  でも、それ以上に––––––絶望的だ。


 私の魔法では、1秒の時間稼ぎにもならなかった。怪物は障壁を破った勢いのまま、邪魔な障害物である私を排除しようと、鎌首をもたげる蛇のように触手をしならせる。

刹那の応酬。しかし、視覚情報が脳に届くよりも先に、感覚でわたしの自意識は一つの結論に至っていた。



––––––––––––。  


 けれど、最期に誰かを守ろうとして死ねるなら、勇者志望としては悪くない最期かもしれない––––––。私はギュッと目を瞑り、背後の少女を庇うように覆いかぶさった。


「………んぁ?」


 不意に、間の抜けた声が鼓膜を叩いたのは、まさにその刹那だった。


 ガクン、と。 私の抵抗も虚しく、怪物の質量に耐えきれず車体が大きく傾く。  その振動で、私が庇っていた少女の身体がグラリと傾き––––––彼女が大事そうに抱えていた紙パックが、私の目の前で手から滑り落ちた。


 バシャッ。


 場違いな水音が響き、甘ったるい匂いが広がる。 駅の自販機で売っている「期間限定・濃厚ロイヤルミルクティー(タピオカ入り)」の中身が、少女の真っ白な制服や、あろうことか私を襲おうとしていた怪物の触手にまで飛び散った。


 少女の動きが止まる。怪物の動きも、その奇妙な割り込みに一瞬だけ止まる。  私も、薄目を開けてその光景を見ていた。


 少女が、ゆっくりとフードを持ち上げる。そこから現れたのは、雪のような白銀の長髪と、血のように赤い瞳。    

彼女は、目の前に迫る異形の怪物には目もくれず、ただ呆然と、自身の汚れたスカートと、床に落ちた紙パックを見つめていた。


「……………嘘だろ」


 低く、地を這うような声。  それは恐怖による震えではない。もっと別の、私の魔法なんかよりもずっと恐ろしい、どす黒い感情の奔流。


「自販機限定、増量キャンペーン中………これを楽しみに、わざわざ早起きしたのに」



 彼女がゆらりと立ち上がる。

 その瞬間、車内の空気が変わった気がした。


 怪物は本能的に危険を察知したのか、標的を私からその少女へと切り替え、触手を槍のように突き出した。



 速い。

 人の目では追えない速度の一撃。

 間違いなく、少女の細い胴体など容易く貫通する暴力の質量。


 ––––––危ない、と叫ぶ暇もなかった。


「…………邪魔」


 しかし少女は、あくびを噛み殺すような手つきで、迫り来る触手を拳で払った。


 魔法の発動を示す魔法陣の展開も、詠唱もない。

 ただの、物理的な腕の振り。

 けれど、その華奢な腕が触手に触れた瞬間。


 ドォォォォォォンッ!!!!!!


 まるで空気そのものが爆ぜたような、轟音が響き渡る。

 衝撃波が車内を駆け抜け、残っていた窓ガラスが全て吹き飛んだ。


 私が目を見開いて見たものは–––––––––肉片だった。

 いや、肉片ですらない。

 霧散した、と表現するのが正しいだろうか。


 少女の裏拳が直撃した触手は、細胞レベルで崩壊し、その衝撃は触手の根元––––––つまり怪物の本体へと伝播した。

 風船が破裂するように、怪物の巨体が内側から弾け飛ぶ。

 ドス黒い体液が雨のように降り注ぎ、しかし少女の周囲だけは、見えない壁に守られているかのように一滴の汚れも付着していない。


 静寂。

 あまりにも圧倒的な、理不尽な暴力の結果を前にして、悲鳴すらも凍りついた静寂が場を支配する。


 怪物は、もういない。

 ただ、海風が吹き込む穴の空いた天井と、ひしゃげた車体だけが残されている。


「………はぁ。最悪」


 少女は、怪物がいた場所には一瞥もくれず、深いため息をついた。

 そして、まだ腰が抜けたまま床にへたり込んでいる私の方へ、気だるげな視線を向けてくる。


 赤い瞳。

 吸い込まれそうなほどに深く、そして昏い瞳と目が合う。


 彼女は私の目の前まで歩いてくると、しゃがみ込み、私の顔を覗き込んだ。


「おい」

「は、ひゃいっ………!」

「お前、ハンカチ持ってるか」

「え………?」

「ハンカチ。あとティッシュ。シミ抜きに使えそうなやつ」


 予想外の要求に、私は数秒間フリーズする。

 絶体絶命の境地に萎縮していた喉が、そのままひゅっと鳴った。


「あ、あり、ありますっ! ウェットティッシュならっ!」

「よし。よこせ」


 震える手で鞄からウェットティッシュを取り出すと、彼女はそれをひったくるように受け取り、スカートのシミをゴシゴシと拭き始めた。

 その仕草は、どこにでもいる女子高生のそれと変わらない。

 つい数秒前、素手で怪物を爆散させた人間とはとても思えなかった。


 一通り拭き終わると、彼女は満足そうに頷き、そして再び私を見た。

 その視線が、空になったミルクティーのパックと、私を交互に行き来する。


「………お前さ」

「は、はい」

「私がこの電車に乗ったのは、このミルクティーを優雅に飲みながら登校するためだったんだ」

「は、はあ………」

「でも、こぼれた。飲めなくなった。私の至福の時間が失われた」


 なんだか、彼女は、とんでもない言いがかりをつけてきている気がする。

 そもそも揺れたのは事故のせいだし、こぼしたのは彼女自身だ。というかこの一連の事態そのものが、国家災厄であるところの「異界現象」のせいだ。私に非はない。

 –––––––––けれど、今の彼女にそんな正論が通じるだろうか?


目の前の不思議な美少女は、わたしがどんな理論で説き伏せようとしても、何か無言の圧力で押し勝ってくる––––––そう思わせるだけの、不思議なオーラがあった。


「責任、取れるよな?」

「………へ?」

「購買。美味いパンと、代わりのジュース。あとまぁ、学校までの案内」

「えっ、あ、えっと………」

「おごれ。それでチャラにしてやる」


 彼女はニヤリと笑った。

 それは魔王のような不敵な笑み––––––ではなく、単にタカリが成功した子供のような、悪戯っぽい笑顔だった。


「契約成立だな。私はアイラ。お前は?」

「ゆ、ユウナ………ユウナ・イズミカワです………」

「そっか。よろしくな、ユウナ」


 アイラと名乗った少女は、私の手を取って強引に立たせた。

 その手は、驚くほど小さく、そして温かかった。


「さて、と」


 彼女は壊れたドアを蹴り飛ばし(本当に、軽く蹴っただけで鋼鉄のドアが宙を舞った)、外の線路を見下ろした。

 海上の高架線路。遥か彼方には、私たちが向かうはずだった学園島アマルスティアの巨塔が見えている。


「電車、動かないみたいだな」

「そ、そうですね………救助を待った方が………」

「待ってたら昼になる。私は朝ごはんにありつきたいんだ」

「え?」


 嫌な予感がした。

 この数分間で、私の危機察知能力は飛躍的に向上している気がする。


「走るぞ、ユウナ」

「はい? ここ、海の上ですよ!? しかもあと5キロは………」

「落ちなきゃいい。ほら、行くぞ」

「ちょ、まっ、きゃあああああああああああ!?」


 私の抗議は無視された。

 アイラは私の腕を掴むと、そのまま高架線路の上へと飛び出したのだ。

 春の海風が、容赦なく私の顔を叩く。


 入学式初日。

 遅刻確定。

 怪物遭遇。

 そして今、私は正体不明の美少女に手を引かれ、線路の上を疾走している。


 ––––––お母さん。

 どうやら私のトーキョーでの新生活は、想像していたものとは全く違う方向に、全力で脱線してしまったようです。

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黒魔王は勇者になりたくない〜勇者学園の劣等生、実は封印された「魔王」につき〜 あかむらコンサイ @oimo_kenpi

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