第6話 地獄の鯖味噌煮定食物語
小生の名は、
できれば関わらずに済ませたい相手が、人生には数人いる。
その筆頭が、第一営業部課長・大杉。
そして、そういう相手ほど、腹が減っているときに現れる。
---
その日は、外回りの帰りだった。
午後二時を少し回った頃。
昼を逃した腹が、遅れて主張を始める。
小生は、駅前の古い定食屋に入った。
暖簾が、くすんでいる。
カウンター八席。
テーブルが二つ。
「いらっしゃい」
小生は、鯖味噌煮定食を頼んだ。
理由は特にない。
ただ、壁に貼られた短冊に「当店自慢」と書いてあったからだ。
水を一口飲んだ、そのとき。
「……あれ」
聞き覚えのある声。
振り向く前に、分かった。
「文谷じゃあないか」
大杉が、そこにいた。
コートを腕にかけ、当然のように、隣の席に立つ。
逃げ場はない。
「……お疲れさまです」
「こんな時間に昼飯?」
「……はい。少し遅くなりまして」
「そう」
――間。
「ここ、前から気になってたんだよ」
それは、知らなくてよかった情報だ。
「鯖味噌煮、一つ」
注文が、確定した。
地獄も、確定した。
先に、小生の定食が来た。
「大杉課長、先にどうぞ」
「ううん。いいよ。文谷が先に食べなさいよ」
「……なんか、すみません」
気まずいながらも、お盆の上に視線を走らせる。
鯖。
味噌。
湯気。
白飯。
豆腐の味噌汁。
たくあん。
「完璧な布陣である」
箸を入れる。
皮が、つやつやしている。
身は、簡単にほどける。
口に入れる。
甘い。
味噌が濃い。
だが、奥に魚の匂い。
脂。
そして、骨の気配。
「……うまい」
と思った瞬間。
「文谷」
来た。
「鯖味噌煮ってさ」
「……はい」
「仕事に似てると思わない?」
似てほしくない。
「臭みを、どう誤魔化すか、みたいなところ」
小生は、黙って咀嚼した。
「放っておくと臭う。下処理しないと臭う。でも、ちゃんとやると、コクって言われる」
大杉の定食も来た。
「君の資料さ」
来た。
「数字は間違ってない。構成も悪くない」
それは、最も怖い前置きだ。
「でも、臭いんだよ」
鯖を、ほぐしながら言う。
「自分で気づいてない臭いがある」
小生は、骨をよけた。
皿の端に、小さな墓場ができる。
「臭い、ですか?」
「ちゃんとやってますって臭い」
味噌が少し焦げている部分を食べる。
ほろ苦い。
「君ね、謝るのは上手い。修正も早い」
「……ありがとうございます」
「でも、それで済ませようとする臭いがある」
白飯を口に入れる。
甘い。
だが、逃げ場がない。
「鯖味噌煮もね、味噌を濃くすれば、一瞬、うまいって思うんだよ」
大杉は、鯖の皮を箸で持ち上げた。
「でも、その下にある身がスカスカだと、バレる」
そして、食べた。
「……ほら。な?」
何がほらなのか、分からない。
小生も、もう一口食べる。
「骨も多いしね」
と、言いながら、大杉はきれいに骨を外していく。
「面倒なんだよ。鯖って」
「……はい」
「でも、面倒なのを避けると、喉に刺さる」
その瞬間、小生は、細い骨を噛んだ。
口の中に、硬い感触。
あ。
と思う。
慎重に、箸で出す。
白い、小さな骨。
皿に置く。
大杉は、それを見た。
何も言わない。
だが、少しだけ、口角が動いた。
「……今の」
「……はい」
「いいよ」
「?」
「今の食べ方」
小生は、意味が分からない。
「刺さったって顔をせずに、ちゃんと出した」
それが、褒め言葉なのかも分からない。
「そういうのを、仕事でも、やってほしいだけ」
味噌汁を飲む。
ぬるい。
塩分が立つ。
豆腐。
わかめ。
「君はね、派手な料理はできない」
突然、断言された。
「でも、鯖味噌煮は、向いてる」
それは、誉められているのか、貶されているのか、最後まで分からなかった。
鯖は、思ったより大きかった。
腹は、満ちた。
気持ちは、満ちない。
会計は、小生の分まで大杉が払った。
それが一番、怖い。
店を出る。
外は、夕方に向かっている。
「文谷」
「……はい」
「怒ってるわけじゃないから」
一番信用できない言葉が来た。
「期待してなかったら、飯なんか一緒に食わない」
そう言って、大杉は、駅と逆に歩いた。
一人、残る。
小生は、しばらく動けなかった。
口の中に、まだ味噌と鯖。
甘くて、重くて、確かに臭い。
だが、腹の底は、妙に温かい。
「……鯖味噌煮、恐ろしい」
小生は、そう呟いて、自販機の缶コーヒーを買った。
甘さで、すべてを流すために。
- 完 -
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます