第4話 灯をめざして

 いつの間にか眠ったらしい。


 室内は真っ暗で、腕時計を見ると午後六時少し前だった。

 ライトを付けて服のシワを整え、キケロを抱えてリビングに戻る。


 シーリングライトに照らされたリビングは、暖かな息づかいに満ちている。

 キケロを兄の椅子に置き、隣に着席する。

 だが、父の愛読書を収めていたラックはからになっていた。

 

 カレー鍋を運んできた父は、息子の危惧を払拭するように言う。

「ああ。二冊だけ持ち込むよ。印字が劣化しなければ良いんだが。学術書はデータベースに保管されてるだろうが、大衆書はなあ……」

「……残念だね」


 うなずき、まぶたを伏せて微笑む。

 水を運んできた母は、二人の気持ちを引き立たせるように笑った。


「さあ、御飯が炊けたわ。冷めないうちにうちにいただきましょう。卵のサラダもあるから」

「……ありがとう、嬉しいよ!」


 歓喜して鍋の蓋を取ると、湯気の立つカレールウの海に玉ネギ・ニンジン・厚揚げが浮いていた。

 小鉢には、茹でキャベツとトマトと半熟卵が盛られ、マヨネーズと黒コショウがかかっている。


 芳醇な香りに酔いつつ、母がよそってくれた御飯に自らルーを掛けた。

 トロトロのカレーが白い御飯を覆い、食欲が一気になだれ込む。


「いただきます!」


 スプーンを握り、カレーライスを口に運ぶ。

 両親特製のカレーは甘く、けれど舌を通り過ぎる時には爽やかな辛さが広がる。

 

 炒めた玉ネギの香ばしさ、ニンジンの甘味、厚揚げの歯ごたえ。

 大きく切ったキャベツに半熟卵のまろやかさが混じり、そこにトマトの酸味がアクセントを加える。


「おいしい、すごくおいしいよ!」

「よかった、いっぱいお代わりしてね」


 母と父も、カレーライスを食べ始める。

 が、その視線は息子から離れない。

 

 一秒でも長く、息子の笑顔を見ていたい――

 切ない願いゆえに、二人の手は止まりがちだ。

 

 デザートのリンゴゼリーを食べ終え、一家の食事は終了した。

 壁かけテレビの電源が自動で入り、音声が流れる。




『みなさん、こんばんは。


 一週間前の八月七日、火星に向けて出発した移民船『HARUKA』乗員の橘樹たちばな智史さとしさんからメッセージが届いております。


 橘樹たちばなさんは我が町の出身で、国の厳しい審査を経て、移民船乗員に選ばれました。


 では、橘樹たちばなさんの声をお聞きください』



 ――モニターに、青い船内服を着た男女が映った。


「兄さんと、容子さんだ!」


 歓声を上げ、モニターを凝視する。

 モニターの中の兄は、落ち着いた口調で語り始めた。



『……みなさん、橘樹たちばな智史さとしです。そして、同僚の水沢容子です。

 僕たちの移民船は、明朝五時に火星に向けて出立します。

 順調に行けば、四十八日後には火星に着陸できるでしょう。


 でも、そこからは苦難の連続となります。

 コロニーを組み立て、環境を整え、植物を繁殖させねばなりません。

 

 他国のコロニーと交流を持てるのは、ずっと先になるでしょう。

 テラフォーミングも成功するか未知数です。


 けれど、僕たちは諦めません。

 気候変動が落ち着き、人類存続に必要なエネルギーが蓄積される千八百年後のために、生き抜く戦いを続けます。


 そして……父さん、母さん、和生かずき……。

 このメッセージが届いていますか?

 

 もう二度と会えないけれど……僕たちの子孫が、きっと会いに行きます。

 遠い未来、二つの星の人々が巡り合う日が来ると信じます。


 どうか……お元気で……

 火星から、見守っています……』


 兄が頭を下げると、水沢容子も一礼して話し始めた。


『初めまして、水沢容子です。東京出身で、このプロジェクトに選抜されました。

 

 私たちは未来への希望と命を繋ぐために、地球を離れ……


 …………』



 彼女は顔を伏せ、言葉を詰まらせた。

 兄は崩れ落ちそうな恋人を支え、正面を見据えた。


『……さようなら……』



 その言葉を最後に映像は切り変わり、移民船打ち上げ映像が映る。

 

 【 移民船『HARUKA』は、無事に地球圏を離脱 】

 【 火星に向かって航行を続けている 】

 

 画面下にテロップが出て、抑揚の無いAI音声が語る。


『これにて放送を終了します。明朝まで、心静かにお過ごしください』



「……兄さん……」


 涙が止まらない。

 兄と恋人は、火星にった。

 それは、永遠の別れでもある。

 母は嗚咽し――だが、父は言った。


「泣くな……お前にも智史さとしにも未来がある」

「父さん……母さん……」


 固く抱き合い、最後の一夜は両親の寝室で過ごした。

 キケロも傍らに置き、写真を眺めて思い出を語り、消灯時間が来ると並んで眠り、朝を迎えた。

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