第六七話 海上の悪夢
☆午前八時五〇分 調査船 医務室
水かきの付いた異形の脚が、紅く染まった床を踏み締める。血の波紋が頬を撫で、ウチは息を呑む。予想通り船医さんを追いかけてきたらしい。その仮説を証明するかのように、視界の上からポタポタと赤の雫が床へと注いでいた。
独特な唸り声。それは、飯を前にした猛獣の様に聞こえた。直後、何処か見覚えのあるサメの大顎が亡骸を軽々と持ち上げる。
バキリ。ムシャリ。クチャクチャ……
生々しい水音と咀嚼音、そして引き千切る音。それが何の音であるかは、分かっていても想像するべきではないだろう。再び胃がひっくり返る。今にも飛び出しそうな中身を、ウチは何度も何度も飲み込んだ。
やがて、音は止んだ。ベッドの前のソレは、再び唸る。だが、それは決して満足のモノではない。食べ盛りの子どものような、不満の音色だった。
ぎゅるる……
中途半端な食事が呼んだ、さらなる空腹。その苛立ちを隠そうともせずにソレは部屋を荒らし始めたらしい。何か硬いものを叩き付けられ、戸棚からガラスの飛沫が振り注ぐ。紅の海に銀色がまぶされ、薬品が混ざっていく中、ウチの心拍はますます早くなっていく。ベッドの下は、血の匂いに不愉快な汗の匂いが混じった悪臭に支配されていく。幸い、悲鳴は上げなかったし、上げる勇気もなかった。ウチはただ、震えて隠れるしかなかったのだ……
やがて、クンクンという呼吸音がウチの耳に飛び込む。鋭いであろうその嗅覚は、ウチの気配に気付いたのだろうか。その異形はベッドの方へと歩みを進めていく。『死』、その一文字がウチの脳裏に増殖していく。涙腺が狂い、震えと涙が止まらない。もし、ソレに命乞いが効いたのならどれほど良いのだろうか。情けない事を思ったのに、今や先程のように恥ずかしいとさえ思えなくなってしまった。
巨大な一対の鋏が、ベッドに喰らいつく。メキメキと骨組みを凹ませながら、持ち上がっていく巨体。布団やシーツがずり落ち、本来なら紅く染まるのが見えただろう。でも、実際はウチは目を閉じていた。
助からない。疑う事すら忘れて、そう確信していたのだから……
瞬間、耳を劈く大音響。だが、それはウチの想像とは全く違う。爆発音と悲鳴だった。
火花と共に、異形が地面に倒れ込む。海洋生物のキメラとも言うべきソレは、偶然にもウチの存在に気づいたらしい。凄まじいサメの形相が牙を剥き、乱暴に鋏を捕らえんと伸ばす。だが、悲鳴を上げたウチにその攻撃が届く事はなかった。
「真希ちゃん、動かないで!!」
聞き慣れた声と共に、次々と光弾がソレの背中を撃ち抜く。爆発音と悲鳴が耳に痛かった。耳を塞げば、鋏と尾鰭を振り回してガンガンと周囲を叩きつける異形が目に映る。だが、連射は容赦なく振り注ぎ、紅と緑が混じった波紋が震えるウチの頬を掠めた。
……果たして、訪れた沈黙。動かなくなったソレを、憧れたヒールが蹴り飛ばす。
「……変だと思ったけど、まさかこんな事があるなんて」
煙燻る護身用のブラスターを片手に、九瀬先生は安堵の表情でこちらを覗き込んだ。
(再投稿)人類よ、怪獣に挑め アゲハチョウ @Imomushi2
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。(再投稿)人類よ、怪獣に挑めの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます