3月、戻ってきたものと戻らないもの


 仕事が終わり、彼はまっすぐアパートへ帰った。

 いつもと同じ時間。いつもと同じ道。


 ただ一つ違うのは、もう「おかえり」と言う人がいないことだった。


 郵便受けを開けると、見慣れた鍵があった。

 彼女が使っていたものだと、すぐにわかる。


 その下に、白い封筒。


 部屋に入る前に、それを手に取った。

 玄関で靴を脱ぎ、ドアを閉める。


 静かすぎて、耳が痛くなる。


 彼はその場に立ったまま、封筒を開いた。


 手紙は短かった。

 丁寧な字で、感謝の言葉が並んでいる。


 徳島で一緒に暮らしたこと。

 楽しかったこと。

 退屈しなかったこと。


 ありがとう、という言葉で、終わっていた。


 不思議と、涙は出なかった。

 覚悟していたのかもしれないし、まだ現実だと認めきれていなかったのかもしれない。


 彼は鍵を下駄箱の上に置き、リビングへ向かう。


 電気のスイッチを押した。


 パッと灯りがついた瞬間、空気が変わった。


 思い出が、一気に押し寄せてきた。


 ここで並んで映画を観た。

 エンドロールの途中で寝落ちした彼女を、起こさないように音量を下げた。


 風呂上がり、ドライヤーで彼女の髪を乾かした。

 熱くないかと聞くと、「大丈夫」と返ってきた声。


 何もすることがなくて、ただ抱き合った夜。

 理由もなく、安心していた。


 どうでもいいことで喧嘩したこともあった。

 言いすぎて、後悔したことも。


 全部、この部屋に残っている気がした。


 彼はソファに座り、顔を覆う。


 そこで、ようやく限界が来た。


 涙が、止まらなかった。

 音を立てて、崩れるように泣いた。


 徳島に残ることを選んだ自分。

 離れていく彼女。


 正しいかどうかなんて、もうどうでもよかった。


 ただ、一緒に過ごした時間が、本物だったと、今はそれだけでよかった。


 泣き疲れて、しばらくしてから、彼は顔を上げる。


 部屋は変わらず静かで、灯りも消えない。


 それでも、彼は思った。


 明日も、ここで生きていく。

 徳島で。


 鍵は戻ってきたけれど、

 時間は、もう戻らない。


ありがとう、大好きだったよ

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3月、僕はいらないのかもしれない 空海月 ヤネン @yaneyane

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