3月、さよなら
引越し前夜の部屋は、音が少なかった。
段ボールはほとんど運び出され、床が広く見える。ここにあった生活が、少し前まで本当に存在していたのか、わからなくなる。
二人で簡単な晩ご飯を食べた。
いつもより、少しだけゆっくり噛む。
食器を洗い終えたあと、彼はソファに座ったまま、何度か言葉を探していた。
「なあ」
彼女がテレビの音量を下げる。
「徳島でさ……一緒に過ごした時間、どうやった?」
思っていたより、まっすぐな声が出た。
聞いてしまえば、もう戻れない気がしていたのに。
彼女は少しだけ考えてから、彼を見る。
「退屈は、せんかったよ」
それは、彼女なりの正直だった。
「あなたがいたから」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどける。
「仕事でしんどい日もあったけどさ、帰ったらご飯食べて、ドライブ行って。星見たり、寿司食べたり」
彼女は笑った。
「悪くなかった」
彼は頷くだけで、何も言えなかった。
十分だった。
「また、一緒に出かけよ」
彼女が言う。
「うん」
約束が、未来に続いているような気がして、彼はその言葉にすがった。
その夜は、いつも通り同じ布団で寝た。
背中越しに感じる体温が、やけに現実的だった。
***
朝、彼は先に起きた。
仕事がある。
「いってくる」
「いってらっしゃい」
それも、いつも通り。
彼は振り返らなかった。
振り返ったら、行けなくなりそうだったから。
でもお互いの目には涙が浮かんでいるのがはっきりと見えた。
昼過ぎ、引越し業者が来る。
彼女は一人で立ち会い、段ボールが次々と運び出されるのを見ていた。
部屋は、あっという間に空っぽになる。
最後に、何もなくなった部屋を見回す。
徳島で過ごした時間が、ここに確かにあった。
玄関で靴を履き、ドアを閉める。
鍵をかけてから、少しだけそれを見つめた。
「ありがとう」
小さく、そう言う。
「バイバイ」
鍵を郵便ポストに入れる。
カン、と乾いた音がした。
それが、この部屋との別れだった。
一方、彼は仕事中だった。
いつも通りの時間が流れている。
徳島の空は、変わらずそこにある。
三月は終わりに近づいていた。
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