3月、思い出に浸る
仕事を終えて家に帰ると、部屋の灯りがついていた。
それだけで、少しだけ安心する自分がいる。
「おかえり」
「ただいま」
短い会話。
それでも、これが日常だった。
二人で食べる晩ご飯は、特別なものじゃない。
スーパーで買った惣菜や、簡単に作ったパスタ。テレビをつけて、同じ番組をぼんやり眺める。
食べ終わると、自然と車の鍵を手に取る。
一緒に住みだしてから、いつの間にかできた日課だった。
「ちょっとドライブ行こか」
「うん」
彼女は上着を羽織る。
その動作が、まだ自分の隣にあることを確かめさせる。
夜の道は空いている。
信号も少なく、車は静かに進む。眉山を横目に見ながら、彼はいつもの展望台へ向かう。
エンジンを止めると、外は驚くほど静かだった。
空を見上げると、星がいくつも浮かんでいる。
「今日、星きれいやな」
「ほんまやな」
それ以上、言葉は続かない。
でも、この沈黙が嫌いじゃなかった。
ここへ来るたび、彼は思う。
徳島は、何もないと言われることが多いけれど、こうして夜空を見るには十分すぎる場所だと。
帰り道、回転寿司の前を通る。
よく来た店だった。
「また行きたいな」
彼女が何気なく言う。
「そうやな」
以前は、どっちが多く皿を積めるか競った。
好きなネタも、いつの間にか似てきていた。
ショッピングモールに寄ることもあった。
目的は、ガチャガチャ。
二人とも同じキャラクターが好きで、新しいシリーズが出るたびに回した。
ダブったら交換しよう、なんて言いながら。
「これ、まだ揃ってないやつ」
「もう一回回す?」
そんなやり取りが、確かにあった。
ゲームセンターにもよく行った。
一時期はメダルゲームに妙にハマって、増えた減ったで一喜一憂した。
クレーンゲームでは、本気で競った。
取れた取れないで拗ねて、笑って、また挑戦した。
全部、どうでもいいことだ。
誰に話しても、特別な思い出にはならないかもしれない。
でも彼にとっては、徳島で彼女と過ごした時間の証だった。
車を走らせながら、ふとこの前の光景が浮かぶ。
床に広げられた「いらないもの」。
あのパンフレットみたいに。
この夜景も、寿司も、ガチャガチャも、ゲームも。
彼女の中では、もう分類が終わっているのかもしれない。
思い出は、紙と同じ。
あっても邪魔になるだけ。
そう考えた瞬間、胸の奥がざわついた。
怖かった。
もし、これら全部が「いらないもの」なら。
その中心にいた自分も、同じ箱に入れられている気がした。
家に戻ると、部屋は静かだった。
段ボールは、また一つ増えている。
彼はそれを見ないようにして、電気を消す。
徳島の夜は深くて、優しい。
だからこそ、その中で一人になる未来を、想像してしまう。
残る場所があることと、残りたい場所があることは、同じじゃない。
その違いを、彼はようやく理解し始めていた。
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