3月、邪魔になる紙


 床に広げられたものたちを見て、彼は立ち尽くしていた。

 畳んだ服、使いかけの化粧品、充電器、ノート、文庫本。部屋の中央が、彼女の生活で埋まっている。


 彼女は黙々と仕分けをしていた。

 右に「持っていくもの」、左に「いらないもの」。

 迷う時間はほとんどない。


 ガムテープの音と、ビニール袋が擦れる音だけが部屋に響く。


 彼はソファに腰を下ろし、何をするでもなくそれを見ていた。

 手伝おうかと言うタイミングを逃したまま、時間だけが進んでいく。


「これ、もういいかな」


 彼女はそう言って、ヘアアイロンを「いらないもの」に置いた。

 手先が器用な彼が昔、直したものだった。


 言いかけて、やめる。

 どうせ理由はあるのだろうと思ってしまう。


 彼女の手が、クリアファイルを取り上げた。

 中から、色あせたパンフレットが滑り落ちる。


 最初に二人で行った旅行先のものだった。

 まだ付き合って間もなくて、ぎこちない距離のまま向かった水族館。徳島から少し離れた、海の見える場所だった。


 あのとき、彼女は何度も写真を撮っていた。

 帰りの車で、「また来ようね」と言っていた。


 彼女はパンフレットを一度だけ見て、ためらいもなく「いらないもの」の山に置いた。


 胸の奥が、静かに沈む。


「それ……」


 声が、思ったより低く出た。


「ん?」


「その旅行のやつやろ」


 彼女は「ああ」と短く言って、もう一度パンフレットを見た。


「紙はさ、あっても邪魔になるだけやから」


 それだけだった。

 悪気も、迷いもない声。


 彼は何も言えなくなった。

 パンフレットは、ただの紙かもしれない。

 でも、あの時間まで一緒に捨てられた気がした。


 思い出は残る、と彼女は言うかもしれない。

 でも残るのは、誰の中にだろう。


 彼はふと、自分の足元を見る。

 ここに立っている自分は、どこに分類されるのだろう。


 持っていくもの。

 いらないもの。


 その二つしかない世界で、自分はどちらなのか。


 彼女は次の箱を開け、また淡々と仕分けを続ける。

 思い出に触れないようにするみたいに、手際がいい。


 彼は、徳島に残る。

 仕事も、家族も、ここにある。


 彼女は、大阪へ帰る。

 帰る場所があるという事実が、こんなにも遠く感じるとは思わなかった。


 彼女の生活から、彼の影はどれくらいの重さだったのだろう。

 邪魔になる紙と、同じくらいだったのだろうか。


 聞けばいい。

 自分は必要だったのかと。


 でも、それを聞いた瞬間に答えが決まってしまう気がして、彼は黙ったままだった。


 床の上で、「いらないもの」の山が少しずつ大きくなっていく。

 それを見ながら、彼は初めて思った。


 ――もしかしたら、自分はもう、仕分けが終わっているのかもしれない。

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