第2話崖と覚醒



あたりはすっかりと暗くなり、和樹の涙も声も枯れ果てていた。 数時間前まで、自分はどこにでもいるサラリーマンだった。理不尽な上司に頭を下げ、満員電車に揺られ、家に帰れば妻の佳代と愛息の連がいる。そんな「退屈で、かけがえのない日常」が、一瞬にして剥ぎ取られた。


未だに先刻までに起きた事象について理解がついていかない。和樹はとうに考えることを放棄していた。 「……はぁ、はぁ……」 吐く息は白く、和樹の体を震わせた。気温は何度になるのだろうか。このまま凍えて死ぬのだろうか。それとも、あの巨大なドラゴンに食われるのが先か。 そんなことを考えながら呆然と大地に寝そべっていた。


あたりからは、聞き慣れない獣の鳴き声が、風に乗って低く響いてくる。幸いにも今は高い岩山の上にいることで、すぐに襲われる事はないだろう。だが、このまま動かずにいれば、朝を迎える前に命の灯が消えるのは明白だった。


その時であった。 ふと、鼻腔をくすぐる匂いがあった。 「……煙?」 何かの匂いがする。何かが焼けた、懐かしい薪のような匂い。 和樹は這いずるようにして崖の縁へ向かい、下界を見下ろして驚愕した。


「あれは……!」


遥か下、深い森の向こう側に、小さな、しかし確かな灯りが幾つかちらちらと点いている。 途端、和樹の心臓が警鐘を鳴らすように激しく打ち鳴らされた。生きる望みが見つかったかもしれない。あそこに人がいる。人がいるなら、連もそこに運ばれているかもしれない。


「連!……すまなかった……父さん、諦めかけてた!」


和樹は震える足で立ち上がった。両手で思い切り自分の頬を叩き、意識を強制的に引き戻す。 生きねば。生きて、元の世界に帰らねば。佳代が待っている。連を連れて、三人で食卓を囲むんだ。その執念だけが、疲弊しきった彼の肉体を突き動かした。


まずはもう一度この崖を下る為、自分の状況を確認する。 やはりこの崖は高い。目測で100メートルはあるだろう。今和樹がいるのは大きな岩山の削れた部分……切り立った山の頂に近い平地である。あまりにも広大だったため、最初はそこが荒野だと勘違いしていたのだ。


「火があるということは、人がいる。言葉が通じるかはわからないが、救助を……いや、期待できるか。第一、俺がここにいることなんて誰も知らないんだ」


自力で降りる。それしか方法はなかった。 できる限り早く。一分一秒でも早く、あの灯りのもとへ。 足場になりそうな岩の出っ張りはいくつかある。不可能というわけではないはずだ。しかし、命綱もなく、本格的なクライミング経験もない和樹が、革靴とスーツという格好で下り切れるのか。あたりを見渡しても岩と雑草のみで、ロープになりそうな蔓(つる)一本見当たらない。


もう一度、崖の下を覗き込む。 「……っ」 下は暗すぎて、底がどこかも判然としない。全てを吸い込んでしまいそうな、虚無の闇。 「これを、下るのか……」 どんどんと気温が下がる中、明日まで待つ余裕はない。もう一度、和樹は森の中の灯りを見た。あそこに連がいる可能性が、一パーセントでもあるのなら。


「……いかない手はない……」


覚悟を決めろ。そう自分に言い聞かせ、目を瞑って唱える。 元の世界に帰る。連と共に。 まずは下半身から慎重に、片足ずつ岩の足場におろす。 「……ひっ」 靴底が砂を噛み、パラパラと小石が闇に消えていく。足場がいつ崩れてもおかしくない。予備の足場も探そうとするが、光源は空に浮かぶ不気味な二つの月のみである。


「くそっ、想像以上に暗いな……!」


指先の感覚だけが頼りだ。一つ一つの足場を、指の腹でなぞるように確認する。 クライミングにおいて、登るのと下るのでは訳が違う。視界が確保しづらい下りは難易度が跳ね上がり、プロであってもフリーソロ(無確保)でこんな絶壁を下りることなど自殺行為に等しい。


「それはそうだ。つかむ所の選択が圧倒的に難しい!! くそっ、滑る……!」


和樹の爪は岩に食い込み、指先からは血が滲んでいたが、極限までの集中と恐怖によってその痛みはほとんど感じていなかった。しかし、確実に肉体への負荷は溜まっていく。 ふと、和樹は上を見上げた。


「ああ……嘘だろ! まだ5メートルも進んでないのか……!」


焦りが、冷静さを奪っていく。足場とつかむ場所の選択が、段々と乱雑になっていく。 じっとりとした嫌な汗が止まらない。必死に足場を探し、指先に、腕に、背中に、全身に力を入れる。 一歩ずつ、一歩ずつ。呼吸は浅く早く、今までよりも一段と心臓の音は大きく、そして早くなっていく。


その時、悲劇が起きた。


ガガガッ! 「え――」 不用意に体重をかけた足場が、脆くも崩落した。 「あ、あああぁぁぁぁ!!」 虚空を掴む指先。重力が容赦なく和樹の身体を下に引きずり落とす。


グシャッ。


「……ッ、ガハッ!!」 和樹は、十数メートルほど下の崖の途中にあった、わずかな突き出し岩に叩きつけられた。 鈍い音が響き、遅れて衝撃が神経を焼いた。


「ああああああああ!! 痛い! 痛い痛い痛い!!」


右足が、考えられない方向に曲がっていた。 ズボンの生地が破れ、皮膚と肉がめくり上がり、白く鋭い骨が露出している。傷口からドクドクと、心臓の鼓動に合わせて鮮血が噴き出した。 「くそっ、くそっ、くそっ!!」


枯れていたはずの涙が、堰を切ったように溢れ出してくる。 どうしてこんなことになった。何を間違えたというのか。 昨日までは、明日の会議の資料を心配していただけだった。今頃、佳代が作った夕飯を、連と並んで笑いながら食っているはずだったんだ。 「痛い……連……パパを助けてくれ……」 和樹はわけもわからず、子供のように声を上げて泣いた。


寒い。冷たい。 夜風が傷口を撫でるたび、意識が飛びそうになる。 相変わらず二つの月は、冷徹な美しさで和樹を見下ろしている。 (ああ、眠いな……。ダメだ、ここで眠れば凍えて死んでしまう。クソ……あいつら、月に……彼らに名前はあるのだろうか……)


朦朧とする意識の中で、和樹は空を仰いだ。だが、運命は彼に安息すら与えない。


「――グルルル……」


遠くから、低い唸り声が響いた。 和樹は凍りついた。崖の途中、この狭い岩場に「何か」が近づいてくる。 月明かりに照らされ、崖の斜面を器用に移動する影が浮かび上がる。 それは、狼のような体躯でありながら、背中に黒い棘が生え、眼球が赤く爛々と光る異世界の獣だった。


一匹ではない。二匹、三匹……群れだ。 奴らは鼻を鳴らし、和樹の右足から流れる新鮮な血の匂いに歓喜していた。


「くそ……来るな……! あっちへ行け……!!」


和樹は動かない足を引きずり、岩の端へと後ずさる。だが、そこは断崖絶壁だ。 一匹の獣が、堪りかねたように跳躍した。鋭い爪が和樹の肩を深く掠め、肉を削ぎ落とす。


「うわあああ!!」


激痛。恐怖。絶望。 もう一匹が、露出した和樹の足の骨に食らいつこうと顎を開く。 (ああ、終わった。俺の人生は、ここで……) 連の顔が浮かぶ。パパ、と呼ぶあの幼い声が、耳の奥で響いた気がした。


――パパっ! パパ、起きてっ!!


(連……?)


その瞬間だった。 和樹の胸の奥、心臓の鼓動が、今までとは全く違う「異質なリズム」を刻み始めた。 ドクン、と。 全身の血液が沸騰したかのような熱波。 視界が急に、昼間のような白光に包まれる。


「……?」 暖かい。なんだ、これ。 さっきまでの骨を刺すような寒さが消えた。肩の激痛も、足の絶望的な痛みも、すべてが嘘のように霧散していく。



脳内に、直接何かが流れ込んでくる感覚。 それは知識であり、力であり、この世界の理そのものだった。 ぼんやりとした白光が、和樹の全身を繭(まゆ)のように包み込む。


目を開ける。 和樹はゆっくりと、力強く立ち上がった。 彼はまだ、あの突き出した岩場にいた。だが、先ほどまでの致命傷は跡形もなく消えていた。 曲がっていた足は真っ直ぐに繋がり、破れたスーツの隙間からは、以前よりも引き締まった強靭な肉体が覗いている。


目の前の獣たちが、一斉に動きを止めた。 赤く光っていた彼らの瞳に、明らかな「恐怖」が宿る。捕食者としての本能が、目の前の男が「自分たちの理解を超えた何か」に変貌したことを告げていた。 獣たちは、一歩、また一歩と、怯えたように後退し、そのまま崖を駆け上がって逃げ去っていった。


「……すごいぞ」


掌を握り、開く。 内側から、底なしの力が湧き上がってくる。今なら、空を掴むことさえできそうだ。そんな全能感が、和樹の魂を激しく昂らせた。 「これなら……これなら行ける!!」


和樹は大きく息を吸い込み、崖の下へ向けて声を上げた。 そして、彼は岩棚の端に立つと、折れていたはずのその足で、大地を力強く蹴り上げた。


ドンッ!!


岩棚が重圧に耐えきれず粉砕される。 和樹の身体は重力を無視するように、空へと高く飛び上がった。 夜風を切り裂き、二つの月へ手が届きそうなほど高く。空中で翻った和樹は、そのまま流星のような速さで、崖下へと突き進む。


ズウゥン!!


爆音と共に、和樹は地面に着地した。 100メートル近い高さから飛び降りたにもかかわらず、足元に深いクレーターを作っただけで、彼の身体には傷一つなかった。 衝撃で舞い上がった土埃の中、和樹は静かに歩き出す。


あの、遠くに見える灯りの方へ。 全ての望みを、愛する息子を取り戻すという誓いを胸に。


この力はなんなのか。なぜ自分がこんな力を得たのか。 困惑はある。だが、今はどうでもいい。 この力の奔流が途切れる気配はなかった。むしろ、一歩踏み出すごとに、身体に馴染んでいくのがわかる。


和樹は振り返り、自分が先程までいた山を見上げた。 見上げるほどに巨大な絶壁。 「待ってろよ、連」


静かな、しかし鋼のような決意を込めて和樹は呟いた。 「今、父さんが行くからな」

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