第八話:共依存の幾何学
平和とは、極めて高コストな商品である。
波風の立たない日常、淀みのない会話、そして明日への確かな予感。それらを手に入れるために、人はどれほどの代償を支払うべきなのだろうか。
一週間の療養を経て学校に戻った詩織は、以前にも増して、神々しいほどの透明感を纏っていた。
彼女が僕の隣にいる。それだけで、僕の周囲の空気は磨き上げられた硝子のように澄み渡り、あらゆる不快なノイズは、彼女という完璧な防壁に触れる前に霧散していく。
「蓮くん。今日の放課後、少しだけ寄り道をしましょうか。貴方が好きそうな新作の香茶が届いている店があるの」
「ああ、君が選ぶものなら、間違いはないから」
僕は、自分の声がかつてないほど穏やかであることに気づく。
そこには「迷い」がない。何を選び、どう振る舞うべきかという葛藤を、僕はすべて彼女という外部記憶装置(ストレージ)に預けてしまったからだ。
廊下ですれ違う生徒たちが、僕たちを羨望の眼差しで見つめる。
学園一の美少女と、その彼女に全幅の信頼を置く幼馴染。誰もが僕たちを「理想の二人」だと賞賛するが、その実態が、互いの自由を担保に入れ、一つのシステムとして機能している「機械仕掛けの純愛」であることに気づく者はいない。
「ねえ、蓮くん。今日は何がしたい?」
不意に、詩織が僕に問いかけた。
彼女の瞳は、まるで僕が正解を答えることをあらかじめ知っているかのように、静かに凪いでいる。
「……詩織が僕にしてほしいことが、僕のしたいことだよ」
「ふふ、満点の答えね。でも、たまには貴方の『我儘』も聞いてあげたいのよ? 私が予測できないような、突飛な願い事とか」
詩織は僕の腕を抱きしめ、悪戯っぽく微笑む。
だが、僕には分かっていた。僕が今、何を考え、どんな「我儘」を言うことが彼女を最も喜ばせるか。そのデータさえ、彼女との日々の中で、僕の中に深く刷り込まれている。
僕の自由は、彼女の幸福を最大化するための変数へと姿を変えた。
そして彼女の自由もまた、僕という存在を完璧に維持するための「コスト」として消費され続けている。
「……じゃあ、今日はずっと、僕の隣にいて。僕が眠りにつくまで、君の声を聞かせてほしい」
「ええ。喜んで。……それは、私が一番望んでいたことだわ」
詩織は満足げに目を細めた。
僕たちは、互いに相手の「理想」を演じ続け、その演技がいつしか「真実」を塗りつぶしていく。
放課後の教室、夕陽が僕たちの影を一つに繋ぎ合わせる。
僕は、自分の意志で呼吸をしているのか、それとも彼女が整えた酸素の組成に従って肺を動かしているのか、もう判別がつかなかった。
けれど、それでいいのだと思う。
自分という頼りない輪郭を守るために孤独になるより、彼女という完璧な筆致で描かれた「物語」の一部として生きる方が、ずっと、ずっと楽で、美しい。
「愛しているわ、蓮くん。貴方が貴方であることをやめて、私の一部になってくれて……本当に、ありがとう」
詩織が僕の耳元で、甘い毒のような感謝を囁く。
自由を捨てた先にあったのは、不自由なまでの幸福。
僕たちは、誰にも壊せない幾何学的な均衡(バランス)の中に閉じ込められたまま、永遠に終わらない、磨き上げられた日常を滑り続けていく。
世界からノイズが消える。
僕の視界には、ただ、彼女の微笑みという名の「正解」だけが、鮮やかに満ち溢れていた。
(完)
学園一の美少女に「生活のすべて」を委ねたら、僕の存在理由が彼女の中にしかなくなった件について @muniyu
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