第七話:境界線の消失
雨は、世界の輪郭を曖昧にする。
ずぶ濡れになりながら辿り着いた一ノ瀬の屋敷は、いつも通り静謐で、外界の喧騒から隔絶されていた。
詩織の両親は不在だ。広い屋敷の中で、彼女だけが、僕のために整えられたこの「無菌室」の深部で眠っている。
呼び出し音を鳴らす前に、玄関の電子ロックが静かに解錠された。
インターホンのモニター越しに、僕の姿を確認したのだろう。熱に浮かされているはずの彼女は、それでも僕の到着を「観測」していた。
「……蓮くん? どうして、学校は……」
寝室のドアを開けると、微かな薬の匂いと、彼女の体温が混ざり合った熱い空気が僕を包んだ。
ベッドの中で上体を起こした詩織は、頬を火照らせ、潤んだ瞳で僕を見つめていた。その姿は、いつもの完璧な令嬢というよりも、どこか壊れやすい硝子細工のような危うさを湛えている。
「君がいないと、何もできなかったんだ」
僕は、自分の情けない告白を隠そうともしなかった。
コンビニで立ち尽くしたこと。傘の差し方さえ迷ったこと。彼女という羅針盤を失った瞬間、僕という船が、ただの漂流物になり下がったこと。
「……そう。蓮くん、私がいなくて……困ってくれたのね」
詩織は、苦しげな呼吸の合間に、残酷なまでに美しい微笑を浮かべた。
彼女は細く熱い腕を伸ばし、僕の濡れた手を握る。その掌からは、彼女自身の生命を削って僕を愛そうとする、猛烈な熱が伝わってきた。
「ごめんなさいね。私の管理が甘かったわ。貴方が迷わないように、もっと完璧な『マニュアル』を渡しておくべきだった」
「違うんだ、詩織。マニュアルが欲しいんじゃない。僕は……」
僕は彼女の隣に腰を下ろし、その熱い額に自分の手を重ねた。
「君が僕の人生を引き受けてくれているせいで、君自身の自由がなくなっている。それが、恐ろしいんだ。君は、僕のために君自身を殺しているんじゃないか?」
僕の問いに、詩織は小さく首を振った。
彼女の指先が、僕の手のひらをなぞる。その動きは、何か大切な情報を書き込んでいるかのようだった。
「自由……? 蓮くん。そんな不確かなもの、私には最初から必要ないわ。私の自由は、貴方を完成させるという『目的』のために、すべて投資(コスト)として支払われたの」
「コストだって?」
「ええ。貴方が私の用意した服を着て、私の用意した食事を摂り、私の描いた軌道の上を歩く。……その瞬間、私は貴方を通じて、二度目の人生を生きているのよ。貴方を支配しているのは、私じゃない。貴方の人生そのものが、私の存在理由(アイデンティティ)なの」
冷徹な交換条件。
逃げ場のない関係性の開示。
彼女は僕を縛っているのではない。
僕という依り代がなければ、彼女という「万能の魂」は、形を保つことができないのだ。
僕は彼女の「作品」であり、彼女は僕の「環境」だった。
「蓮くん。貴方は、私の欠落を埋めるための『欠片』。そして私は、貴方の空白を埋めるための『絵の具』。……二人が一つになれば、そこには何の矛盾も、何の迷いも存在しないわ」
詩織は僕の首筋に手を回し、力を込めて引き寄せた。
熱い吐息が耳元を掠める。
「貴方の外側(セカイ)を私が作り、私の内側(イノチ)を貴方が支える。……境界線なんて、もういらないでしょう?」
彼女の熱に当てられたのか、僕の思考もまた、混濁し始めていた。
自分という「個」を維持することは、これほどまでに疲れることだったのか。
彼女にすべてを預け、彼女の一部として呼吸すること。それがどれほど救いに満ちた「正解」であるか、今の僕には痛いほど理解できた。
「……ああ。いらないな、詩織。僕を、君の好きなように書き換えてくれ」
僕がそう呟いた瞬間、彼女の瞳に、歓喜とも悲哀ともつかない、形容しがたい光が宿った。
雨音が遠のいていく。
部屋の中には、二人の混じり合った呼吸音だけが、等間隔に、規則正しく刻まれていた。
それは、二人の人間がそれぞれ独立した自由を放棄し、一つの「閉じた完璧なシステム」へと回帰していく、静かな合意の儀式だった。
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